島田道竿の大蛇退治

妻沼町日向

 天喜五年、奥州の安部貞任追討(前九年の役)の命を受けた源頼義が、武蔵国司の成田助高に援軍をたのみ、助高の居城である幡羅郡西城(妻沼町西城)に滞在したときのことである。その城の東に龍海といふ四町四方の大きな池があった。池には大蛇が棲み、田畑を荒らし、村人を悩ませてゐたので、村人はこれを頼義へ訴へ出た。頼義は、村の祖(土豪)の島田大五郎道竿に弓と帯刀を賜り、毒蛇退治を命じた。

 道竿は日夜八幡神に祈り、村人を指揮して、まづ池から利根川へ堀を掘って水を落した。これを道竿堀といふ。池の水が引いたころ、道竿は馬に乗り、池の汀に近づいて馬上から声をあげると、長さ四丈余りの大蛇が忽然と顕れ這ひ出た。道竿が弓矢で毒蛇の眉間を射ると、大蛇はたけり狂って蛇身を躍らせ、道竿を呑み込まうと襲ひかかった。馬で退却した道竿は、池から五町余り過ぎたころ、再び馬上から矢を引き放つと、矢は毒蛇の右の眼から咽下までを射通した。大蛇のひるんだところで道竿は刀を抜き、たちまちに大蛇を寸々に斬りきざんだといふ。

 これを見た頼義は、誠に東夷征伐の門出に目出度い吉事であるとして、大蛇を退治した場所に八幡宮を勧請した。宮には村人の訴への書を納め、道竿の弓矢を納め、道竿の子孫を代々の神官とした。また大蛇の出た場所に弁財天を祀った。この八幡宮は、幡羅郡長井庄日向(ひなた)郷の総鎮守とされ、文政六年、旗本・石川左近将監が奉納した和歌がある(大里郡神社誌)。

 ○この神の恵みの露に、民草の世々栄ゆべき秋ぞ見えぬる  石川左近将監

 八幡宮は、明治九年に村内数社を合祀し、長井庄にちなんで長井神社と改称された。