埼玉県(武蔵)

武蔵野は今日はな焼きそ、若草の妻もこもれり、吾もこもれり  伊勢物語

産塚八幡

神川町元阿保

 武蔵七党のうちの丹党の支流である阿保(あぼ)氏は、旧可美(かみ)阿保(あぼ)郷(神川町元阿保(もとあぼ)付近)を本拠として鎌倉室町期に独自の勢力を築いた。阿保(あぼ)忠実のころ、秋山新蔵人に攻められて、妻は井に身を投げたとも、生き埋めにされた(埼玉県伝説集成)ともいふ。その地には(ちち)を求めて愛児の亡霊が夜毎ただよふといふので、里人は塚を築き祠を建てて霊をまつった。祠は、産塚(うぶづか)八幡宮と呼ばれ、安産守護を願ふ参詣者が絶えなかったといふが、明治の末に元阿保(もとあぼ)阿保(あぼ)神社に合祀されたたとき、旧地に「産塚の碑」が建てられ、歌が刻まれてゐる。

 ○世の人もこころにいのれ。産塚の千代まで残るこれの石文  金鑽宮守

 ○ありし世のむかし語りをしのぶ草、偲ぶもゆかし。産塚の跡  金鑽宮守

 「八幡宮」とは、稀に尋常ではない死に方をした御霊(荒御魂)を意味するときがある。

 秋山は旧那珂(なか)郡秋山村(児玉町)の者だらう(右の事件の年代は未調査)。足利高氏・直義兄弟が争った観応の擾乱のころ、賀茂川原合戦で秋山蔵人源光政の戦死を知った父光助の歌がある。

 ○なべて世のならひと思ふことわりも、この別れには知れざりにけり  草庵集



金鑽神社

神川町

 児玉郡神川町の金鑽(かなさな)神社は、武蔵国二宮といはれ、群馬県境の神流川を上った山地の入口にある。むかし日本武(やまとたける)尊が東征の折り、伊勢の倭姫(やまとひめ)命から授かった火鑽金(ひきりがね)をこの地に納め、天照大神と素戔嗚(すさのを)尊をまつったものといふ。

 本庄市小島付近に、文明のころ道興が北陸路から武蔵国へ訪れたときの歌。

 ○今日ここに小島の原を来てとへば、わが松原はほどぞ遥けき  道興



塙保己一

児玉町

 群書類従を編纂した塙保己一は児玉町保木野に生まれ、七歳で失明したといふ。

 ○言の葉の及ぼぬ見には目に見ぬも、なかなかよしや。雪の富士のね  塙保己一

 児玉町の雉岡城は、戦国時代に、上杉氏(夏目氏)、北条氏、松平氏と支配が代はって行った。

 ○もののふの弓影にさわぐ雉子が岡、矢並に見ゆるかぶら川……  (善光寺修行)



那珂の曝し井

美里町

 今の美里町の大部分を那珂郡といった。万葉集に歌はれた「那珂の曝し井」を、那珂郡(美里町)広木に比定する説もある。

 ○三栗の那賀(なか)に向へる曝し井の、絶えず通はむ。そこに妻もが  万葉集1745

 「那賀」は常陸国那珂郡とも、紀伊国ともいふ。

 防人となった武蔵国那珂郡の檜前舎人(ひのくまのとねり)石前(いはさき)を送る妻・大伴部真足(またり)の女の歌が万葉集にある。

 ○枕太刀、腰にとり()き、ま(かな)しき()ろがまき来む(つく)の、知らなく  万葉集4413



--★--大里郡----------------------------

岡部原

岡部町

 大里郡岡部町は、一ノ谷の戦で平忠度を討ち、勇名を轟かせた源氏の家臣岡部六弥太(ろくやた)忠澄の本拠地である。このあたりは、戦国時代の数々の戦で、数万の兵が死んだといふ。古墳が多い。

 ○なきをとふ岡部の原の古墳(ふるづか)に秋のしるしの松風ぞ吹く    道興

  岡部町山河の伊奈利大神社の奉納額にある元埼玉県知事の歌。

 ○神がきをさやかに月のさしながら かげなほくらし森のしたみち  千家尊福



清心寺の忠度桜

深谷市萱場

 深谷市萱場の清心寺に、桜の古株があり、忠度桜といふ。忠度を討った岡部六弥太の何かのゆかりの地に、忠度の歌にちなんで桜が植ゑられたのだらう。清心寺は後世の創建である。

 ○ゆきくれてこの下かげを宿とせば、花や今宵の主ならまし  平忠度

 清心寺は天文のころ深谷上杉氏の重臣・岡谷清英によって建立された。石流山八幡院清心寺といひ、その鎮守の八幡宮は、正徳のころ萱場村の隣村の上野台村(深谷市上野台)に遷されてその鎮守となった。左は八幡神社の祭礼のささら(獅子舞)で歌はれるほめ歌の一つ。各地の獅子舞で同様の歌が歌はれ、当地でも歌はれる。

 ○まゐり来てこれのお庭を眺むれば金の御幣があるぞ獅子ども



人見四郎

深谷市人見

 平家物語の一ノ谷の戦の場面に源氏方として登場する人見四郎は、今の深谷市人見出身の土豪であった。人見の人見山は平地に孤立した小山で、源頼朝の富士の巻狩のころ、関東に八つの浅間社をまつったうちの一つともいふ浅間神社が山頂にある。仙元山(浅間山)ともいふ。

 四郎の子孫である同じ名の人見四郎は、太平記では鎌倉方で、河内の赤坂城の合戦で、七十三才の老齢の身に死に場を求め、総攻撃の前夜に抜け駆けを決行し、壮絶な最期を遂げたといふ。

 ○花咲かぬ老い木の桜、朽ちぬとも、その名は苔の下に隠れじ  人見四郎

 桜は、郷里の浅間神社(祭神木花開耶姫命)の御神木である。山の麓には昌福寺があるが、人見氏の墓は一乗寺にある。



楡山神社

深谷市原郷 字八日市

 旧幡羅郡総社といはれた楡山神社の森の奥には、かつて塚があって「里人不入の地」といはれた。大正時代には既に塚はなかったやうだ。明治の初めに、森の奥の大部分が上地令によって国有林に編入され、伐採がなされたときに崩された可能性が高い。奥の森は大正初年に買ひ戻されて再び植林がなされた。

 ○いち人や、神の姿ににれ山の入らずの森は奥処(おくが)知らねど   神詠

 ○楡山の杜の朝風、高だかに神の御稜威(みいつ)を仰がせて吹く   額賀大直

 旧神領に神田数十町の記録がある。宮城県多賀城址から発掘された木簡には「武蔵国幡羅郡米五斗部領使(ことりづかひ)……」とある(吉橋孝治「古典で読むふるさと」)。旧幡羅郡は、奈良時代のころからの米の産地だったらしく、東北の官衙に物資を供給した。

  ◇

 熊野大神社(深谷市東方) 文化十四年(1817) 江戸神田須田町 藤原信清百首和歌奉納

 ○いとなみの(わざ)もかぎりの有とても あはれを添へよ 天地(あめつち)の神  信清



庁ノ鼻、狭山

深谷市国済寺、熊谷市三ヶ尻(みかじり)

 文明十八年、尭恵法師が、十二月半ばのある朝、庁ノ鼻(ちょうのはな)といふところで歌を詠んだ(北国紀行)。庁ノ鼻とは深谷上杉氏が最初に館を構へた庁鼻祖(こばなわ)(深谷市国済寺)のことである。

 ○朝日欠け、空は曇りて、冬草の霜に霞める武蔵野の原  尭恵

 本来の武蔵野は入間郡の周辺の丘陵地帯をいふのだが、霞の中に広がる枯尾花などの冬草のイメージが武蔵野といふ歌枕にふさはしかったのだらう。。庁鼻祖には国済寺があり、ここで一泊した朝の歌と思はれる。尭恵はそのまま馬を走らせ、箕田といふところを経て、狭山(さやま)(熊谷市三ヶ尻(みかじり)の観音山)のふもとの池を見て歌を詠んだ。

 ○氷りゐし水際の枯野ふみ分けて行くは、狭山の池の朝風  尭恵

 狭山の名は隣接する川本町瀬山(せやま)に残り、瀬山の人は観音山は瀬山のものだったと今でもいふ。



島田道竿の大蛇退治

妻沼町日向

 天喜五年、奥州の安部貞任追討(前九年の役)の命を受けた源頼義が、武蔵国司の成田助高に援軍をたのみ、助高の居城である幡羅郡西城(妻沼町西城)に滞在したときのことである。その城の東に龍海といふ四町四方の大きな池があった。池には大蛇が棲み、田畑を荒らし、村人を悩ませてゐたので、村人はこれを頼義へ訴へ出た。頼義は、村の祖(土豪)の島田大五郎道竿に弓と帯刀を賜り、毒蛇退治を命じた。

 道竿は日夜八幡神に祈り、村人を指揮して、まづ池から利根川へ堀を掘って水を落した。これを道竿堀といふ。池の水が引いたころ、道竿は馬に乗り、池の汀に近づいて馬上から声をあげると、長さ四丈余りの大蛇が忽然と顕れ這ひ出た。道竿が弓矢で毒蛇の眉間を射ると、大蛇はたけり狂って蛇身を躍らせ、道竿を呑み込まうと襲ひかかった。馬で退却した道竿は、池から五町余り過ぎたころ、再び馬上から矢を引き放つと、矢は毒蛇の右の眼から咽下までを射通した。大蛇のひるんだところで道竿は刀を抜き、たちまちに大蛇を寸々に斬りきざんだといふ。

 これを見た頼義は、誠に東夷征伐の門出に目出度い吉事であるとして、大蛇を退治した場所に八幡宮を勧請した。宮には村人の訴への書を納め、道竿の弓矢を納め、道竿の子孫を代々の神官とした。また大蛇の出た場所に弁財天を祀った。この八幡宮は、幡羅郡長井庄日向(ひなた)郷の総鎮守とされ、文政六年、旗本・石川左近将監が奉納した和歌がある(大里郡神社誌)。

 ○この神の恵みの露に、民草の世々栄ゆべき秋ぞ見えぬる  石川左近将監

 八幡宮は、明治九年に村内数社を合祀し、長井庄にちなんで長井神社と改称された。



熊谷と久下

熊谷市熊谷、久下

 ○うちむれて熊谷をとこ久下(くげ)をとめ、むつましげにもみゆき待つなり

 江戸時代の初めまで荒川の本流はほぼ今の元荒川を流れ、越谷の先で利根川と合流してゐた。それ以前の熊谷近辺は、川の流れの定まらない地で、熊谷氏(直実)と久下氏(直光)での領地をめぐる境界争ひの話が伝はるのは、耕地を荒川に侵食されたためもあるだらう。荒川は熊谷と久下の間を流れてゐた時期もある。久下といふ地名は県内に数ヵ所あり、川のそばが多く、おそらくは、くぐひ(白鳥)の飛来した地の意味だと思はれる。荒川土手には桜が植ゑられた。

 ○行く先も熊谷さくら咲きぬらし、春の眺めは深谷と思へば  置石村路



大里村

 大里郡大里村の吉見神社は、もと「天照大神宮」と称した。この地は旧吉見郡にあたり、興味深い古文書がある。その要旨は次の通り。

 天穂日(あめのほ ひ)命は、天孫降臨に先立って出雲に降った神である。その天穂日命が、諸国を巡って国見をされ、東国へ来て「ここは葦草の茂れる萌刺埜(もえさしの)」といったので、旡邪志(むざし)(武蔵)といふ。その子・建比奈鳥(たけひ な とり)命が、出雲国から降ったとき馬を入れた地を、入馬(いるま)(入間)といふ。建比奈鳥命の子・建予斯味(たけよ し み)命が、出雲国より入間郡に遷られた。その地を吉見といふ。予斯味命は、牟刺(武蔵)国造の始である。

 景行天皇の御代に、豊城入彦(とよきいりひこ)命の曽孫の御諸別(みもろわけ)王が、東山道の十五か国を拝領したとき、陸奥で蝦夷の騒動があった。王は即座にこれを平定し、以来東国に浪風は無い。 当時の武蔵国入間郡は、国民も少く田畑も荒廃し、これを歎いた御諸別王は、天皇に奏上して、大和、山城、河内、伊賀、伊勢の五国の多里人・八百九十七人を武蔵国入間郡に移住させ、多里郡(大里郡)を置いた。御諸別王は、郡の鎮守として新宮を造って天照大御神をまつり、その末子を神官とした。御神体は、天照大御神が高天原で機を織るのに使ってゐた御筬を、天穂日命が賜り、子の建比奈鳥命へ伝へ、これを東国守護の形見として、豊城入彦命、彦挟島(ひこさしま)王、御諸別王と受け継ぎ、ここにまつられたものである。(大里郡神社誌)



鴬の瀬

川本町畠山

 源氏の家臣の畠山重忠は「秩父殿」と呼ばれ、一ノ谷の戦では、(ひよどり)越えのとき愛馬を背負って越えたといふ。また、秩父の竜神の母から生まれたともいふ。

 畠山重忠が、配下の榛沢(はんざは)六郎成清の家に滞在してゐた日のこと、畠山の館から急ぎの者がやってきた。聞くと、鎌倉幕府から急ぎの使ひが来たといふ。

 重忠はすぐさま身仕度を整へ、いざ鎌倉とばかりに館に帰らうと馬を走らせた。ところが荒川の岸まで来ると、川は折りからの雨で水が氾濫し、どこが浅瀬かわからない。重忠がしばらくためらってゐると、どこからか鴬の声が聞こえたかと思ふと、川面低くをすうっと飛んで渡って行った。重忠は、これはまさに神の助けと、一首を詠んだ。

 ○時しらぬ岸の小笹の鴬は、浅瀬たづねて鳴き渡るらむ  畠山重忠

 そして馬を躍らし、鴬の渡った跡を追って、無事に川を渡ることができたといふ。これを「鴬の瀬」といひ、井椋(ゐむれ)神社の裏手の渡し口になってゐる。この付近の荒川は、大昔から川筋を変へたことはないといふ。(大里郡神社誌)



板井の八雲橋

江南町板井

 江南町板井の出雲乃伊波比神社は、はしかや熱病に霊験ありとされ、社前の和田吉野川に架る八雲橋の下を、次の神詠歌を唱へながら潜り、また渡れば、平癒するといはれる。

  ○八雲橋 かけてそたのめ、あらもかさ あかき心を神につくして



男衾三郎絵巻

寄居町、大里村

 鎌倉時代に、武蔵国の大名の息子に、吉見二郎、男衾三郎の兄弟がゐた。吉見二郎は、京の美しい女を妻に迎へ、慈悲といふ名の一人娘を得て、吉見の館で貴族のやうな風流で裕福な暮しをしてゐたが、旅に出たとき盗賊に殺され、妻や娘は不幸な運命をたどることになった。一方、男衾三郎は、質実剛健そのままで荒武者のやうな暮らしぶりだった。死んだ兄の領地を得て、男衾の妻のいふままに兄の娘の慈悲を「()の日」と名を変へさせて下女に使った。あるとき、赴任したばかりの国司が吉見の館を訪ね、下女に似合はぬ美しい娘に気をとめた。のち国司がその娘を妻にと望んだとき、男衾の妻は、自分の娘を着飾って会はせたが、国司は年が明けても返事をせず、ひとり歌を詠むばかりだった。

 ○双葉より緑変らで生ひたらむ、()の日の松の末ぞゆかしき

 ○音に聞く掘兼(ほりかね)の井の底までも、我、わびしむる人をたづねん   (男衾三郎絵巻)

 この絵巻は最初の部分しか伝はらず、男衾三郎を主人公として描くまでに至ってゐない。旧男衾郡は、荒川の南の寄居町・川本町などをいふ。吉見郡は大里村・吉見町あたり。



--★--埼玉郡・北葛飾郡--------------

利根川帰帆ほか

 北河原村の照巌寺に保存の題詠「近世八景」のうち四首(大里郡方面を詠んだのもある)。

  利根川帰帆  (利根川)

 ○雲ひらく利根の川戸の見るうちに、こなたや泊り帰る舟人  武者小路実陰

  熊谷晩鐘  (熊谷市熊谷)

 ○鐘の音に聞くは昔の夕暮もあはれ忍ぶる袖や濡らさん  高野保光

  長井夜雨  (妻沼町)

 ○()ねがてに夜半も長井の秋はさぞ思ひやるだに雨ぞさびしき  高松重季

  成田落雁  (行田市または熊谷市上之)

 ○幾つらぞ成田の面に落つる雁、いづみの山の峯を越え来し  日野資時



さきたま

行田市埼玉

 行田市のさきたま古墳群の稲荷山古墳は、六〜七世紀ごろのものとされ、長文を刻んだ鉄剣が発掘されたことで知られる。埼玉郡は、(古)利根川と(元)荒川に挟まれた地域をいふが、水運を利用して、早くからひらけた土地のやうで、万葉集にも歌はれ、埼玉の県名ともなった。

 ○埼玉の津にをる船の風をいたみ、綱は絶ゆとも、言な絶えそね     万葉集

 ○埼玉の小崎の沼に鴨そ羽根きる。己が尾に振り置ける霜を掃ふとならし 万葉集

 古墳群のそばの前玉(さきたま)神社は前玉姫命をまつる。

 ○和らぐる光を花にかざされて、名をあらはせるさきたまの宮   西行 夫木抄

 ○さきたまの里のとねらが作る木綿(ゆふ)、神の幣帛(にきて)をゆひてけるかも   賀茂真淵



村君の里

羽生市下村君

 羽生市下村君の鷲神社は、東国開拓の祖の天穂日(あめのほ ひ)命をまつる。元は古墳の上に建てられたといひ、明治の末に横沼神社を合祀してゐる。横沼神社は、天穂日命の子孫の彦狭島(ひこさしま)王の子・御室別(みむろわけ)王の姫(娘)をまつった社で、父・彦狭島王をまつる樋遣川村の御室社へ、「お帰り」といふ里帰りの神事が行なはれてゐた。

 この村君の里に、文明十八年、京から道興准后が訪れて詠んだ歌がある。

 ○誰が世にか浮かれそめけん、朽ちはてぬその名もつらきむら君の里  道興



はにしの宮

(鷲の宮)〜 久伊豆神社

 南埼玉郡鷲宮町の鷲宮神社は「土師(はにし)の宮」ともいはれ、崇神天皇の御代の創建といふ。河内国から東国へ移住した土師氏がその先祖をまつったもので、おそらく浅草の浅草寺・浅草神社をまつった土師氏の一族が、利根川や荒川をさかのぼって埼玉郡の地に移住したのだらう。

 岩槻市宮町の久伊豆神社は、欽明天皇の御代に、土師氏の一族がこの地に移住して、出雲の大国主命を祀ったものといふ。神社選定の「久伊豆神社奉賛歌」がある。

 ○元荒川に影うつす、杜の宮居の宮柱、揺るぎなき世を守るなる、我が久伊豆の御社

 越谷市の久伊豆(ひさい づ)神社には土師氏の伝承はないやうだ。

 ○いふきのや、いつの御霊の宿れりしあとなつかしき越ヶ谷の里  土井晩翠



白岡八幡宮

南埼玉郡白岡町白岡

 仁明天皇の嘉祥二年、勅命によって慈覚大師が埼玉郡白岡の地に下り、杉の木の本で三社(正八幡宮・若宮・姫宮)の御神体を彫刻して、八幡宮を建立したといふ。次に本地弥陀薬師の像を彫刻し、それを池の辺で清めてゐると、西方より光とともに三神が現はれ、また三羽の白鳩が舞ひ降りてきた。白い鳩から白岡となづけ、西方の光から西光寺と号し、杉の本で成就したので、杉本坊と称した。また、歌を詠んだ。

 ○いけ水に月のかげさす白岡は、八幡ごえなる神の御社  慈覚大師



都鳥 葛飾早稲

 古代の東京湾は内陸深く入り込み、したがって隅田川の河口も今より北となり、在原業平が都鳥を歌に詠んだ隅田川の地とは、春日部市の浜川戸八幡宮の付近だともいふ。

 ○名にし負はばいざ事問はむ。都鳥。わが思ふ人はありやなしやと  在原業平

 北葛飾郡三郷(みさと)のあたりは古来から早稲の産地で、ひところ早稲田村の村名もあった。三郷市丹後の稲荷神社に万葉歌碑がある。

 ○鳰鳥(にほどり)の葛飾早稲を(にへ)すとも、その(かな)しきを、()に立てめやも  万葉集3386



--★--北足立郡(旧新座郡を含む)---------------------------

氷川神社

旧大宮市高鼻

 武蔵国一宮の氷川神社は、素戔嗚(すさのを)尊をまつり、氷川は出雲の斐川にちなむ名といふ。

 ○武蔵なる氷川の森に雪つもり、八重垣こもる神の御社   橘千蔭

 天保のころの縁起によると、神武天皇の大和入りのときに、当時大和国にゐた饒速日(にぎはやひ)尊の子の可美真手(うましまで)命(宇摩志麻遅(うましまぢ)命)が天皇に帰順した。可美真手命の子の日賢安良彦(ひさかあらひこ)命が東国へ下って物部(もののべ)の姓を名告り、氷川社をまつったといふ。

 社殿の脇にまつられてゐる門客人社は、今はてなづち、あしなづちの神をまつるといふが、江戸時代には豊石窓・櫛石窓の二神をまつり、古くは荒脛巾(あらはばき)神社といった(新編武蔵国風土記稿)。主祭神を守護する土地の神のことらしい。



八百比丘尼

旧大宮市

 大宮市櫛引の観音堂の前に槻(欅)の木が二本あった。「神願木」と呼ばれ、むかし八百比丘尼の植ゑたものといふ。母乳の乏しい女が祈祷すれば霊験ありといはれた。

 ○八百姫の植ゑし二木も限りあれば、名残り朽ちさぬ石文ぞ、これ  平 正彦

 八百比丘尼(福井県の項参照)の植ゑたと称する木は、全国にあるが、椿が多いやうだ。



武蔵野の逃げ水

 関東平野の西部に広がる武蔵野は、どこまで行っても、すすきの原だったといふ。

 ○武蔵野は月に入るべき山もなし。尾花が末にかかる白雲   藤原通方

 ○武蔵野はゆき行く道のはてもなし。帰れといへど、遠く来にけり  釈迢空

 春から夏にかけてのよく晴れた日に武蔵野を歩くと、やや遠方に水溜りのやうな流水のやうなものが見える。近づいて見るとそこに水はなく、遠方に逃げるやうに移動して見える。武蔵野の逃げ水といふ。現在でも舗装道路の遠方に良く見えることがある。あるいは逃げ水とは泉が枯れやすくまた他に発生しやすいことの意味だともいふ。

 ○東路にあるといふなり、逃げ水のにげかくれても世を過ぐるかな  俊頼 夫木抄



野火止

新座市

 武蔵野では古代に焼畑が行なはれたらしい。芒や潅木の野を焼いて灰の中に種を蒔き、翌年は別の野を焼く。数年で一巡するころには、元の野は再び潅木が繁ってゐる。

 ○おもしろき野をはな焼きそ。古草に新草交じり生ひは生ふるがに  万葉集 3452

 ○武蔵野は今日はな焼きそ。若草の妻もこもれり。吾もこもれり  伊勢物語

 右の歌は、「こもれり」と二度繰返すやうに、妻と吾が別々の場所にこもってゐる。妻といふ呼び方からも、結婚の前の物忌のこもりなのだらう。焼畑のとき、延焼を止めるために塚や堤を築いたのが野火止である。新座市野火止の地名に残る。

 ○若草の妻もこもらぬ冬ざれに、やがても枯るる野火止の塚   道興



野寺の鐘

新座市野寺

 江戸時代の話、新座郡野寺村の畑で、めかご(芋)の蔓のだいぶ大きいのが生へて来た。村の者は、さぞかし芋も大きからうと、掘って見ると、さして大きくもない芋だったので、さらに深く掘ってみると、カチンと音がして、中から古鐘が出てきた。これは「いも鐘」だといふことになったが、鐘には「野本寺」と記してあった。村の満行寺の和尚さんに見せると、これは「野寺の鐘」だといった。この村には昔たいそう立派な寺があって、戦乱の世に火事になったとき、その寺の和尚が鐘を守るために池に鎮めたといふ。その池が長い年月の間に埋まって、今は畑となって、そこから掘り出されたわけである。

 ○音に聞く野寺を問へば、あと古りて答ふる鐘もなき夕べかな  道興

 ○武蔵野の野寺の鐘の声聞けば、遠近人(をちこちびと)ぞ道いそぐらん  在原業平

新座郡

 朝霞市浜崎の浜崎氷川神社は大宮の氷川神社から分祀されたものといふ。県南部から東京都にかけて氷川社は多い。

 ○武蔵野を分けつつ行けば、浜崎の里とは聞けど立つ波もなし   道興

 朝霞市の川越街道の膝折といふ珍しい名前の地を詠んだ歌。

 ○商人(あきうど)はいかで立つらん。膝折の市でかつけを売るにぞありける   道興

 かつけとは脚籠(きゃこ)のことで、椀を収める足つきの籠であるが、膝折といふ地名から脚気をしゃれた歌である。

 和光市新倉あたりを「うけら野」といったらしい。

 ○恋しけば袖も振らむを。武蔵野のうけらが花の色に()な。ゆめ  万葉集3376

 ○わが兄子を、()どかも云はむ。武蔵野のうけらが花の時無きものを  万葉集3379



--★--入間郡------------------------------------

堀兼の井

狭山市堀兼

 日本武尊が、武蔵野の地で兵の渇きを癒さうとして井戸を掘らせたところ、掘っても水は出ず、掘り兼ねた。そこで竜神に祈って水を引かせたといふ。武蔵野の台地地帯は地下水が深い。井戸を掘り兼ねたので、掘兼(ほりかね)の井といひ、狭山市堀兼の浅間社の地といふが、候補地は多い。

 ○武蔵野の堀兼の井もあるものを、うれしく水の近づきにけり   俊成、千載集

 ○汲みて知る人もありなん、おのづから堀兼の井の底のこころを    西行

 ○おもかげぞ語るに残る。武蔵野や。掘兼の井に水はなけれど  道興



所沢

 元弘三年 新田義貞が上州で挙兵し、宗良親王を奉じて鎌倉へ進軍した。入間郡小手指原(所沢市)で、北条高時の軍を迎へ討つとき、宗良親王が詠んだ歌。

 ○君のため身のため何か惜しからん。捨てて甲斐ある命なりせば   宗良親王

 武蔵野の台地地帯では芋類の栽培も盛んである。

 ○野遊びのさなかに山のいも添へてほりもとめたる野老(ところ)沢かな   道興准后

 三ヶ島藍子は、所沢市の社家に生まれた歌人で、所沢市宮本町の神明社に歌碑がある。

 ○しみじみと障子うすぐらき窓のそと音たてて雨のふりいでにけり  三ヶ島藍子



田野武の里

川越市藤倉

 伊勢物語の風流子が、入間郡のみよし野で、ある娘を見初めた。娘の母は、男が高貴な人なので、自分が夢中になって、いつまでもこの里にとどまるやうに頼みの歌を贈った。

 ○みよし野の田の()の雁もひたぶるに君がかたにぞ寄ると鳴くなる  娘の母

 男の答へた歌はそっけないもので、良くあることだと思ってゐるらしい。

 ○わがかたによるとなくなる三芳野のたのむの雁をいつか忘れん  男



太田道潅

と川越城、山吹の里

 川越氷川神社は、欽明天皇二年(571) に氷川神社(大宮)を分祀したものといふ。長禄元年に川越城を築いた太田道真・道潅の父子は、川越氷川社を深く崇敬し、道潅は和歌を献納した。

 ○老いらくの身をつみてこそ、武蔵野の草にいつまで残る白雪  (慕景集)

 太田道潅が歌の道に入るきっかけとなったといふ山吹の里とは、新宿区面影橋付近ともいふが、入間郡越生町だともいふ。道潅の開基といふ龍穏寺も越生町にある。

 ○七重八重花は咲けども、山吹のみの一つだになきぞかなしき

 ○歌にゆかしいあの山吹の、里よ武蔵野、アリャ越な町(越生小唄)  野口雨情

回国雑記の歌

川越 最勝院にて

 ○かぎりあれば今日分けつくす武蔵野の境もしるき川越の里   道興

入間川

 ○立ち寄りて影をうつさば、入間川、わが年なみも逆さまに行け  道興

大井、嵐山

 ○打ち渡す大井河原の水上に、山や嵐の名を宿すらん     道興

--★--比企郡------------------------------------

伊古乃速御玉姫・淡洲明神

比企郡滑川町

 滑川の中流域、比企郡滑川町伊古に式内社・伊古乃速御玉姫神社がある。この神は、素直に考へれば、土地を潤す滑川の神であり、沼の神であり、この丘陵地帯に多い溜め池を守護する水の神である。元宮があったといふ二ノ宮山では雨乞の獅子舞が行なはれ、そのとき歌はれる雨乞獅子の歌がある。

 ○天河の堰のもとに雲が立つ。お暇申して、いざ帰らんか   雨乞獅子の歌

 伊古乃速御玉姫神社は別名を淡洲(あはす)明神といひ、隣接の七つの字に淡洲神社があるが、室町時代の初めにはこの名があったといふ。

 伊古乃速御玉姫神社の社前の松は、何代目かのもので、昔から安産の霊験ありといはれてきた木である。御祭神の気長足姫命(おきながたらしひめのみこと)とは、神功皇后のことで、お産の神とされることも多い。境内摂社には八幡社もある。  他にない神社名であることから色々なことが権威ある書においても言はれたが、語呂合せの範囲を出ないものばかりなので省略する。



高負彦根命

比企郡吉見町

 比企郡吉見町から大里郡大里村付近を、古く横見郡とも吉見郡ともいった。

 ○月をだに吉見の里の秋の暮、松風ならでとふ人もなし  俊成卿の女

 大里村に近い吉見町田甲の高負比古根(たかふひこね)神社の裏に、玉鉾山といふ岩の丘があり、岩の上を踏みならせば鼓のやうな音が響くので、ぽんぽん山ともいふらしい。

 ○雲さそふ峰のこがらし吹き靡き、玉の横野にあられ降るなり  歌枕名寄

 むかしこの地方には鬼が住み、鬼の毒気により市野川の水も飲むことができなかった。里人たちは川辺の楡の木の下で相談をしたが、良い考へも浮かばずに解散した。一人の若者が居残って市野川の流れを見てゐると、美しい娘が声をかけ、一掬ひの水を求めた。若者が毒の水だから飲めないと事情を告げると、娘は、里人のために清い水にしてみせませうといって、剣を若者に授けて、自分は市野川に飛びこんだ。すると川底から不思議な石が現はれて霊気を発し、たちまち澄んだ清らかな水となったといふ。若者は剣で鬼を退治した。娘は岩室の観音様の化身といひ、若者の名は高負彦根命といふ。(藤沢衛彦・北武蔵の伝説)

 岩室観音堂は吉見の百穴の南にあり、さらに南には松山城趾がある。



松山城

吉見町、東松山市

 天文六年、川越城主・上杉朝定は、北条氏綱に敗れて川越城から没落し、一族の扇谷上杉氏を頼って松山城へ逃れた。更に松山城に押し寄せる北条軍に対し、難波田弾正は城を出て戦を挑んだが、すぐに逃げ帰って来たので、山中主膳がからかって歌を詠んだ(拾遺集の翻案)。

 ○悪しからじ、良かれとてこそ戦はぬ。なに難波田が崩れ行くらん  山中主膳

 難波田弾正が応へた歌(古今集読人不知の歌と同じ)。

 ○君を置きて仇し心を我が持たば、末の松山、波も越さなん  難波田弾正

 上杉氏は川越城奪還を試みたが、天文十四年の川越夜戦に敗れて、北条氏の支配が広がって行った。



忠七めし

比企郡小川町

 慶応のころ、比企郡小川町竹沢の知行地に、山岡鉄舟がよく訪れた。鉄舟は小川にある二葉といふ老舗の料亭によく立ち寄り、あるとき「調理に禅味を盛れまいか」と注文を出した。そこで八代目当主の忠七は、独自の茶漬を創案し、鉄舟に差し出すと、鉄舟は「わが意を得たり」といって喜んだといふ。これが「忠七めし」である。

 ○この釜を日々に炊きなば、福禄寿、中よりわきて尽くるきはなし  山岡鉄舟

 ○冬かげり海苔めし柚の香はなちけり   長谷川かな女



紙漉きの里

比企郡小川町

 文化年中に清水浜臣といふ人が、古寺村(今の小川町南西部)を通ったとき、山間の村のどの家からも紙を漉く音が聞えたといふ。(都伎山日記・埼玉叢書)

 ○秋ならできくもめづらし。山川に紙うつ音のつれて落ち来る  清水浜臣

 



--★--秩父郡------------------------------------

秩父神社、犬戻り橋

秩父市

 秩父神社は、崇神天皇の御代に、知知夫(ちちぶ)国の国造の知知夫彦命が、祖先の八意思金(やこころおもひかね)神をまつったのに始まるといふ。武士による妙見信仰との習合ののち、近世は養蚕の神として信仰を集めた。

 ○秋蚕(あきご)しまうて麦蒔き終へて、秩父夜祭待つばかり    秩父音頭

 十二月三日は秩父神社の例祭で、「秩父夜祭」ともいはれる。その夜、全町の屋台が「お花畑」と呼ばれる御旅所に参集する。神輿も渡御し、秩父神社の妙見の女神と武甲山の男神が、年に一度めぐり逢ふのだともいふ。

 秩父神社は「兄の社」ともいはれ、その森を「(ははそ)の森」といふ。

 ○兄の社はこのかみの名か  藤原清輔 
  秩父山ははその森に言問はん  童     兎久波集の連歌。



犬戻り橋

秩父市

 むかしの秩父神社には広大な神領があり、その片隅に位置した犬戻り橋は、むかしの神域を守る神犬が、神域を忌んでこの橋から外へは決して出なかったことから、橋の名となったといふ。戻り橋の名を忌んで、婚姻の決まった娘たちはこの橋を通ることを避けたともいふ。

 ○渡らじな、これより犬の戻り橋、水をもここに墨染めてけり

 この橋で西行と翁のやりとりした歌も伝へられるが、児童向けではない。



秩父三十四ヵ所、十日夜

横瀬町ほか

 秩父地方には三十四ヵ所の霊場が定められ、今でも巡礼の小団体が多い。五番目に語歌堂(長興寺)といふ面白い名の寺があるが、「五果」などの仏教用語による命名とは思ふが、「こか」の音の類似からなのだらうか、西国三十三所の粉河寺の御詠歌が語歌堂のものとよく似てゐた。(横瀬町)

 ○父母の恵みも深き語歌の堂、大慈大悲の誓ひたのもし  御詠歌

 



十日夜

(とをかんや)

 十日夜は、稲の収穫を祝ふ旧十月十日の祭である。田の神が田から山へ帰って行く祭といはれ、近県に多い。秩父地方では、その日は子供が歌ひながら藁の棒で土を叩いて遊ぶ。

 ○トーカンヤ、トーカンヤ、朝そばきりに昼だんご、ヨーメンくったらひっぱたけ



武蔵嶺

武甲山

 ○武蔵嶺(むさしね)の根岸の里は晴れかたみ、風吹き荒らす雲の下影 

 「秩父の美しさはその影の中にこそある。この盆地に生活する人々は常に影を見て暮らしている」(清水武甲)といふ。武蔵嶺とは武甲山のこととされる。武甲山は、日本武(やまとたける)尊が鎧冑を納めて戦捷を祈った山といはれ、雨乞歌も歌はれる。

 ○武甲の神の大前に、雨だんべえー、竜王なぁ、

   長の日照りのそのために、五穀の種もつきるゆゑ、

    武甲山の神々へ、氏子が集り御願ひ、テケテッドコドン、テケテッドコドン

 日本武尊は、秩父盆地西部の小鹿野から西方の両神山(八日見山)を八日間見たといふ。それで八日見山と名づけられたといふが、これは「八おかみ」の意味で、おかみとは竜神のこと、つまり八大竜王(雨乞の神)をまつった山なのだともいふ。

 ○筑波嶺とはるかへだてて八日見し妻恋ひかぬる小鹿野の原  安積艮斎

 元明天皇の御代に、蓑山の南(秩父市黒谷)から銅が発見され、和銅と改元された。そのとき天皇から賜った銅製の巨大な百足二匹が、聖神社の御神体になってゐるといふ。

 明治の秩父事件を歌った歌。

 ○楓の葉いろづきそめぬ。秩父山、自由守りし血潮讃へむ  松本仁



城峰山の桔梗

 天慶の乱に敗れた平将門は、下総国をのがれ、愛妾の桔梗の前らとともに、秩父の阿隈(吉田町)から城峰(じょうみね)山にたてこもったといふ。幾日かが過ぎたころ、桔梗の前は、理由もなく館を出て、山道をさまよひ歩くなど、不審な行動が見られた。案の定、数日後に藤原秀郷の軍に山を包囲された。将門は怒り狂って桔梗の前を斬り殺した。このときの桔梗の前の恨みによって、秋の七草のうち桔梗だけはこの山には咲かないといふ。

 ○秋の七草うす紫の花の桔梗がナアソラショなぜ足らぬ、城峰昔の物語(秩父小唄)



三峰神社

 ○朝にゃ朝霧。夕べにゃ狭霧。秩父三峰、霧の中   野口雨情

 奥秩父の三峰山の三峰神社は、修験の道場として開かれ、江戸時代ごろから火防盗賊除けの信仰を広めた。

 ○白波は三峰山をよけて打ち

 右の川柳の「白波」とは、歌舞伎の白波五人男のことで、泥棒衆の意味である。宮本武蔵は、三峰の岩戸神楽の女神の舞ふ二刀流を見て、その二刀流を開眼したともいふ。