賀茂社
賀茂建角身命の娘の
○我がたのむ人いたづらに成し果たば、また雲分けて昇るばかりぞ 神詠
○君を祈る願ひを空に見てたまへ。わけいかづちの神ならば神 賀茂重保
父が雷神であったことから、その子は
○人も皆かつらかざして、千早振る神のみあれにあふ日なりけり 紀貫之
○忘れめや。葵を草に引きむすび、かりねの野辺の露のあけぼの 式子内親王
○君が世も我が世も尽きじ。石川や瀬見の小川の絶えじと思へば 源実朝
初午
むかし秦氏の先祖の
○
和泉式部が伏見稲荷社にお詣りに行く途中、にはか雨に降られたので、通りかかった若い牛飼の着てゐた
○
歌を見て心をうたれた式部は、牛飼を部屋に入れたといふ。
神泉苑
平安京の大内裏の東南に隣接して造られた神泉苑には、冬にも涸れぬ湧泉があったといふ。ある年、都を襲った大旱魃のとき、空海が天竺の善女竜王を勧請して池を掘り、雨乞の祈祷をして以後は、雨乞の祈祷所となった。この池のほとりで小野小町が詠んだ雨乞の歌がある。
○ことわりや日の本なれば照りもせめ、さりとてはまたあめが下かは 小野小町
静御前が源義経に見初められたのも、ここで雨の祈りの舞を舞ったときだといふ。
逢坂山
むかし雅楽の名手といはれた源博雅は、蝉丸の秘曲の伝授を乞ふために逢坂山に夜毎に三年間通ひ続けた。三年目の八月十五日、次の歌を詠じて琵琶を弾くと、伝授を認められたといふ。
○逢坂の関の嵐のはげしきに、しひてそひたる世を過ごすとて 源博雅
逢坂山に住んだ盲目の琵琶法師、蝉丸の有名な歌。
○これやこの行くもかへるも別れては知るも知らぬも逢坂の関 蝉丸
人康親王
五四代仁明天皇の第四皇子の人康親王(光孝天皇の弟)は盲目であった。詩歌管絃にすぐれ、山科に住んで、世の盲人たちに琵琶や朗詠を教へ、生活の道を与へた。集まって来た人々に対し「わが道に当たる」と言はれたことから、盲人の芸能集団を「当道」と呼ぶやうになったといふ。この地を流れる川は、親王にちなんで四宮川といふ。
山科の親王の御殿に藤原常行が庭石を献上したとき、ともに訪れた在原業平の歌。
○あかねども岩にぞかふる、色見えぬ心を見せむよしのなければ 在原業平
没後、親王は
惟喬親王
○里遠み、小野の篠原分けてきて、我もしかこそ声も惜しまね 源氏物語夕霧
五五代文徳天皇の第一皇子、惟喬親王は、比叡山麓の小野の地に隠棲し、小野宮とも呼ばれた。在原業平と親しくし、業平が冬の雪の日に親王を訪ねたこともある。(伊勢物語)
○忘れては夢かとぞ思ふ、思ひきや、雪ふみわけて君を見むとは 在原業平
○夢かとも何か思はむ。浮世をばそむかざりけむ程ぞくやしき 惟喬親王
二人は河内の
源頼政の鵺退治
平安時代の末、幼くして即位された近衛天皇のころ、天皇は毎夜丑の刻に怯えられることがあった。怪しいもののけの仕業らしい。そこで源頼政が召された。頼政は、山鳥の尾で矧いだ矢二筋を携へ、一族の井の早太とともに、夜を待って東三条の森に出かけた。
夜が更けて月夜を俄かに黒雲が覆った。頼政が八幡大菩薩を祈って矢を射ると、確かな手応へがあった。落ちた場所に急いで、井の早太がとどめを刺した。雲が晴れて弓張りの月が照らすと、その怪物の姿は、頭は猿、胴は狸、尾は蛇、手足は虎、喘ぎ鳴く声は
○ほととぎす、名をも雲居にあぐるかな 藤原頼長
頼政は次のやうに付けて、剣を受けた。
○弓はり月の射るにまかせて 源頼政
その怪物はうつほ舟で流したといふ。
その後、二条天皇の応保のころ、鵺といふ怪鳥が、禁中で鳴き叫んで天皇を悩ませたので、再び頼政が召された。夕暮れの五月闇のなかで、鵺は一声しか鳴かない。そこで頼政は、まづ大鏑を射上げ、その音に鵺が驚いて声をあげたところを射落とした。天皇は褒美の御衣を賜はるに、右大臣公能を遣はした。公能が頼政に詠み掛ける。
○五月闇、名をあらはせる今宵かな 藤原公能
頼政が付ける。
○たそかれどきも過ぎぬと思ふに 源頼政
後世に、鵺の声が聞えたときに災ひをのがれるための、まじなひの歌がある。
○こちみ鳥、我かきもとに鳴きつなり。人まで聞きつ。ゆくたまもあらじ 拾芥集
諸歌
○忘れずば神もあはれと思ひ知れ。こころつくしの
祇園天王社(八坂神社)
○神の代の八坂の
京都市東山区祇園町、白川河畔
○かにかくに祇園は恋し。寝るときも枕の下を水のながるる 吉井 勇
寂光院
○思ひきや。深山の奥に
鞍馬寺
○
石清水八幡宮
○石清水松かげ高くかげ見えて絶ゆべくもあらず。万代までに 紀貫之
宇治
○わが庵は 都の辰巳 しかぞすむ 世をうぢ山と 人はいふなり 喜撰法師
灰屋紹益
灰屋とは、南北朝のころから藍染め用の紺灰の商ひで巨大な富を築いた豪商佐野家の屋号のことである。徳川時代の始めの当主、灰屋紹益は、諸芸にも通じて貴族との交流も広く、六条柳町の遊女、吉野太夫をめぐって、のちの関白近衛信尋と争ひ、大夫を正妻に迎へたといふ。
○花咲いた後は灰屋に散る吉野
山崎の油
平安時代の末ごろ、乙訓郡大山崎の地に、山崎長者と呼ばれた石清水八幡宮の神人組織が住み、油を絞るための「しめ木の具」を考へ出して、荏胡麻を製造したのが、「山崎の油」の始りといふ。この組織は大山崎油座ともいふ。山崎八幡宮をまつるとともに、石清水八幡宮の雑務をこなし、禁中や八幡宮へ油を納める代はりに、油の製造販売を独占した。諸国の油業者からは税を取り立て、油業者たちは、山崎八幡宮の許可なくして油の売買はできず、関所を通ることも罷りならなかったといふ。
○宵ごとに都に出づる油売り、ふけてのみ見る山崎の月 職人尽歌合
宇治の橋姫
孝徳天皇の大化二年に初めて宇治橋が架けられたとき、宇治川上流の桜谷の
○さむしろに衣かたしき今宵もや、我をまつらん宇治の橋姫 古今集
○あじろ木にいさよふ浪の音ふけて、独りや寝ぬる宇治の橋姫 新古今集
○橋姫の紅葉かさねや、かりてまし、旅寝は寒し。宇治の川風 蓮月集
宇治茶
室町時代の初めに、明恵といふ僧が、茶の栽培地を求めて各地をめぐり、宇治郡大和田の里に来たとき、馬に乗って畑を歩き、駒の蹄のあとに茶の種をまくことを里人に歌で教へた。
○栂山の尾の上の茶の木、分け植ゑてあとぞ生ふべし駒の足影 明恵
この茶園は駒蹄影園と名づけられた。宇治茶の宇治七名園を詠んだ歌もある。
○森、祝、宇文字、川下、奥ノ山、朝日につづく枇杷とこそ知れ
井手の玉川
天平のころ、山城国の奈良街道に面した井手の地に、左大臣橘諸兄の別邸があった。井手左大臣とも呼ばれた諸兄は、この地に井手寺をつくり、庭に山吹を植ゑ、水を湛へて建築をすすめたが、寺供養の日に思はぬ讒言にあって失脚し、庭を見ることもなく病の床に臥したといふ。それを哀れんで孫の橘清友が歌を詠んだ。
○蝦鳴く井手の山吹散りにけり。花の盛りに逢はましものを 橘清友
木津川にそそぐ玉川と奈良街道の交差するところを井手の渡しといふ。渡しを通る旅人は、川の水を玉水とほめたたへ、手に汲んで飲み、旅の幸を祈った。
○山城の井手の玉水、手に汲みて、頼みし甲斐もなき世なりけり 伊勢物語
天橋立
むかし
○神代よりかはらぬ春のしるしとて霞わたれる天の橋立 続後撰集
○そのかみに契りそめつつ神代までかけてぞ思ふ天の橋立 細川藤孝
この地は天と地の交じはる霊地として、古代から信仰されてきた。京の小式部内侍が、丹後にゐた母の和泉式部のことを詠んだ歌。
○大江山。いくのの道の遠ければ、まだふみもみず。天の橋立 小式部内侍
天の羽衣
中郡峰山町の
○天の原ふりさけ見れば、かすみ立ち、家路惑ひて行方知らずも
天女は村々をさまよひ、今の竹野郡弥栄町船木あたりに留まり、
浦島太郎
むかし日置の里(宮津市日置)に浦島太郎といふ漁師があった。ある日釣り上げた亀は、異界の姫と化して、太郎を常世の国へ案内する。
○常世辺に雲立ちわたる、水の江の浦島の子が
○大和辺に風吹き上げて雲離れ
○水の江の浦島の子が箱なれや、はかなくあけて悔しかるらむ 丹後風土記
○君に逢ふ夜は浦島が玉手箱、あけて悔しきわが涙かな お伽草子
竹野郡網野町の網野神社は、もと
◇
舞鶴の田辺城を石田三成の軍に包囲され、篭城の覚悟を決めた細川幽斎は、万一に備へて家宝の歌論書の古今伝授の箱を、一時烏丸光広に預けた。戦ひが終ってのち、箱を返すときの光広の歌。
○あけて見ぬかひもありけり、玉手箱、ふたたびかへる浦島の波 烏丸光広
幽斎のこたへた歌。
○浦島や光をそへて玉手箱、あけてだに見ずかへす波かな 細川幽斎
蛭児神社
○神風や、朝日の宮の宮うつし、影のどかなる代にこそありけれ 源実朝、玉葉集
天照玉命神社
福知山市の
○大江山、昔のあとの絶えせぬは、
明智光秀
織田信長の家臣の明智光秀は、近江坂本城を居城にして丹波国をも平定し、天正八年(1580)には丹波の亀山(亀岡市)に亀山城を築き、京の東西を占める近江・丹波に勢力を広げた。天正十年六月の本能寺の変では、亀山城から出陣して信長を攻めた。丹波での光秀は、善政を施した教養ある武将だったといふ。福知山では横山城を修造し、由良川の堤防工事を完成させた。
福知山市中の御霊神社は、明智光秀の霊をまつって建てられたものであるが、事情により食物の神である保食神を併祀することになったのだといふ。
○福知紺屋町、御霊さんの榎、化けて出るげな古狸 福知山音頭
福知山音頭に歌はれた榎とは、今も御霊神社の旧社地にあり、天明の大飢饉には、木の葉を払ひ落として食用にしたといふ。
大江山
大江山の
○都よりいかなる人の迷ひ来て、酒や肴のかざしとはなる 酒呑童子
○年を経て鬼の岩屋に春の来て、風や誘ひて花を散らさん 渡辺綱