賀茂社

 賀茂建角身(かものたけつのみ)命は、またの名を八咫烏(や たがらす)といひ、神武天皇を熊野から大和国へ案内したあと、大和の葛城山に住んだ。その後、山城国へ移り、葛野川(桂川)と賀茂川の合流する岸から賀茂川を見遥かして、「狭く小さかれども、石河の清き川なり」と言ったので、「石河の瀬見(狭見)の小川」といふ名がついた。そして賀茂川の上流に移り住んだ。

 賀茂建角身命の娘の玉依媛(たまよりひめ)が、ある日、石河の瀬見の小川の辺で神遊をしたとき、丹塗(にぬり)()が川上から流れて来た。媛がこれを拾って家の床の辺に挿し立てて置くと、その日から媛はだんだんと胎んできて、男子が生まれた。年月を経てこの子が成人したとき、祖父の賀茂建角身命は、多くの神々を招いて盛大な祝宴を開き、孫に言った。「汝の父と思はむ神にこの酒を飲ましめよ」と。するとその子は、屋根を突き破って天に昇って行ったといふ。それで、その子の父は雷神であることがわかったといふ。(風土記逸文)

 ○我がたのむ人いたづらに成し果たば、また雲分けて昇るばかりぞ  神詠

 ○君を祈る願ひを空に見てたまへ。わけいかづちの神ならば神    賀茂重保

 父が雷神であったことから、その子は賀茂別(か ものわけ)(いかづち)命と呼ばれ、賀茂別雷神社にまつられた。母の玉依媛と祖父の賀茂建角身命は、賀茂御祖(かものみおや)神社に祀られてゐる。

 ○人も皆かつらかざして、千早振る神のみあれにあふ日なりけり   紀貫之

 ○忘れめや。葵を草に引きむすび、かりねの野辺の露のあけぼの   式子内親王

 ○君が世も我が世も尽きじ。石川や瀬見の小川の絶えじと思へば   源実朝