猿沢の池
平城天皇は、平安遷都をした桓武天皇の皇子で、退位後は古都の奈良に移られた。
○ふるさととなりにし奈良の都にも、色は変らず花は咲きけり 平城帝
むかし平城の帝に仕へた
○
それに応へて帝が詠まれた歌。
○猿沢の池藻つらしな。吾妹子が玉藻かづかば水ぞ
帝はここに采女の墓を作らせたといふ。(大和物語)
平安時代に柿本人麻呂が登場する話になってゐるが、万葉集二十巻が平城帝の御代に最終的に完成されたことを暗示するものとの解釈もある。
春日神社
春日山には古くから鹿島の神がまつられてゐたが、奈良時代に、鹿島の
○鹿島より
○この冬も老いかかまりて、奈良の京、薪の能を思ひつつ居む 釈迢空
柳生の里
奈良市の北東に柳生の里がある。父から柳生新陰流の剣術を受け継いだ柳生宗矩は、幕府の兵法師範として徳川家光から一万石を賜ったといふ。
○山住みのうきに心を慰むは、とお(ママ)ぢの寺の入あひの鐘 柳生宗矩
○住める代を久しかれとてたとへ置き、松と鶴との歳や重ねん 柳生十兵衛三巌
三輪の糸
むかし三輪の里に住んでゐた
○わが庵は三輪の山もと、恋しくは
○うま酒、三輪の殿の朝戸にも出でて行かな。三輪の殿戸を 古語拾遺
◇
紀伊国屋文左衛門が破産後に三輪で詠んだといふ狂句。
○そうめんのふしや孟母の玉襷 紀伊国屋文左衛門
海石榴市
○海石榴市の八十のちまたに立ちならし結びし紐を解かまく惜しも 万葉集
○紫は灰さすものぞ。海石榴市の八十のちまたに逢へる子や。誰 万葉集
(「灰さす」とは紫の染色法をいふ)
影姫
むかし武烈天皇が皇太子だったころ、物部
○
そこへ
○
泣きそぼち行くも、影姫あはれ (日本書紀)
◇
さて、海石榴市は、推古天皇の御代には、隋の使節をここへ迎へ、歓迎の宴とともに経済交渉も行なはれたといふ。延長四年(926)の初瀬川の大洪水以後は、市の中心は三輪に移された。三輪市には、市の守護神として恵比須神社(桜井市三輪)がまつられてゐる。
小泊瀬山
むかしある娘が、父母に知らせずに恋しい男と契った。男は娘を得はしたものの、娘の親のことを考へると、どうももの怖ぢしてしまひ、通ふことをためらってゐたので、女は歌を男に贈り届けたといふ。(万葉集)
○事しあらば小泊瀬山の石城にも、
◇
初瀬川の上流の宇陀郡は、大和から東国への街道筋にあたる
○阿騎の野に宿る旅人、打ち靡き、寝も寝らめやも、古へ思ふに 柿本人麿
耳無池
むかし、
○
○あしひきの山縵の児、今日行くと吾に告げせば、帰り来ましを
○あしひきの山縵の児、今日のごと、いづれの隈を見つつ来にけむ
◇ 天の香具山
○大和には群山あれど、取りよろふ天の香具山、
のぼり立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ。海原は鴎立ち立つ。
うまし国ぞ。蜻蛉島大和の国は 舒明天皇
哭沢の杜
○哭沢の杜にみわ据ゑ、祈れども、我がおほきみは高日知らしぬ 桧隈女王
飛鳥坐神社
高市郡明日香村の
○飛鳥井に宿りはすべし をけ蔭もよし 御水もよし 御秣もよし 催馬楽
釈迢空(折口信夫)の母方の祖父は、飛鳥坐神社の神官だった。
○ほすすきに夕雲ひくき 明日香のや わがふるさとは灯をともしけり 釈迢空
久米の仙人
むかし吉野に久米といふ男が仙術の修行をしてゐた。久米が飛行の術を会得して空を飛んでゐると、吉野川の岸で洗濯をしてゐる女が見えた。女の裾がめくれてふくらはぎが見え、これを見た久米は神通力を失って墜落してしまった。
○久米と黒主洗濯で名を汚し 江戸川柳
久米はこの女と夫婦となり平凡に暮らしてゐたが、新都造営の夫役に出たとき、仙術を利用して吉野の材木を素早く運んだことから、褒賞を賜り、それをもとに久米寺(橿原市)を開いたといふ。
葛城
神武天皇即位の地のカシハラは、
○高みくらとばり掲げて、
大和三山を見下ろす葛城台地の奥に鎮まる
○葛城の
葛城一言主大神
むかし雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、天皇と同じ姿をして歩いてゐた人があった。天皇が不審に思って名を問ひただすと、その人は「吾は悪事も一言、善事も一言に言ひはなつ神、葛城の
○
と言って、弓矢などを献上すると、一言主大神は、手を打ってそれを受けとり、ともに狩りを楽しんだといふ。(古事記)
○み狩する君かへるとて、久米川に一言主ぞ出でませりけり 夫木抄
この神は御所市の葛城一言主神社にまつられる。里人には「いちごんさん」と呼ばれ、
○笛吹の社の神は音に聞く遊びの岡や、ゆきかへるらん 藻塩草
中将姫
むかし右大臣藤原豊成に、中将姫といふ娘があった。姫が九歳のころ、継母の照夜の前は家来の山下藤内に姫を殺害するやうに命じた。藤内の子の小次郎は、偶然この話を知ってしまひ、悩んではみたがやはり姫を護らうとして、屋敷に忍び込まうとする父に斬りかかった。しかし逆に父に殺されてしまった。
○しねばとて心残りはなかりけり。忠と孝とに覚悟しぬれば 山下小次郎
姫は、十六歳で当麻寺の尼僧となった。お告げにより蓮茎を集めて糸を抜き、染井の井戸にひたして桜の木にかけると糸は五色に染まった。この糸を使って日夜機を織り続け、気がつくと一丈五尺四方の大曼陀羅が織りあがってゐたといふ。
◇
当麻寺の裏の二上山を詠んだ歌。
○うつそみの人にある吾や、今日からは二上山をいろ
立田越え
むかし葛城に住む男女があったが、生活が貧しくなり、男はこの女を捨てて、河内国高安の女のもとに通ふやうになった。女はそれを知ってか知らずか、毎晩、男の夜の山越えを気遣ふ歌を歌ってゐた。
○風吹けば沖つ白波たつた山、夜半にや君が一人越ゆらむ 古今集
陰でこれを聞いた男は、河内へ通ふのをやめて元の女に戻ったといふ。(大和物語)
女は毎晩髪を洗って、気持を冷やしてゐたともいふ。
○春柳、葛城山に立つ雲の、立ちてもゐても、
竜田の神、広瀬の神
天武天皇のころ、美濃王の佐伯広足をつかはして、竜田の社に
○から錦あらふと見ゆる竜田川、大和の国の
○みそぎして神の恵みも広瀬川、幾千代までか、すまむとすらむ 千五百番歌合
片岡山
推古天皇二一年十二月、聖徳太子が片岡山を巡遊されたとき、道端に
○しなてるや、片岡山に飯に飢ゑてふせる旅人、あはれ、親な し 聖徳太子
男は返し歌を詠んだ。
○いかるがや、富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名を忘れめ
太子は自分の衣装を脱いで与へ、食物も与へて帰ったが、男は翌日に死んだ。太子は、人を使はして男を手厚く葬らせた。ところが、葬儀のとき棺の中に男の遺体は無く、太子の衣装があるのみだったといふ。里人は、死んだ男は達磨大師の化身だとして、棺だけを葬り、達磨塚を築いて寺を建てた。寺には太子が自ら刻んだ達磨大師の像を安置したといふ。
◇
法隆寺の夢殿を詣でたときの歌。
○
つみのえ
むかし吉野の
○霰ふり
○この夕べ、
吉野水分神社
○吉野山、花は見ぬとも、
○水分の神のちかひのなかりせば、これのあが身は生れこめやも 本居宣長
浄見原神社
壬申の乱のときに天武天皇が住んだ地に、天皇をまつる
○乙女子が乙女さびすも。唐玉を、乙女さびすも。その唐玉を 天武天皇
持統天皇(天武天皇の皇后)の行幸のときに柿本人麻呂が歌を詠んだ。
○見れど飽かぬ吉野の川の、常滑の、絶ゆる事無くまたかへり見む 柿本人麿
吉野には神武天皇以前に
○かしのふに
吉水神社
文治元年(1185)源義経は、京を追はれて一時吉野に潜んだ。今の
○吉野山、峯の白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき 静御前
吉水神社は古くは吉水院といふ名の修験の寺だったが、南北朝時代に後醍醐天皇がここに行宮を置いたことから、明治初期に後醍醐天皇をまつる神社となった。
○花にねて、よしや吉野の吉水の、枕の下に石走る音 後醍醐天皇
文禄三年には豊臣秀吉が、ここで盛大な花見の宴を催したこともある。
○年月を、心にかけし吉野山、花の盛りを今日見つるかな 豊臣秀吉
吉野の神
十津川村玉置川の玉置神社(玉置山)の弓神楽は、本木といふ木で作った白い弓矢を持ち、巫女の衣装をつけた男子の神子が奏する珍しい舞楽で、白河院の御前でも奉納されたといふ。
○熊野なる玉置の宮の弓かぐら、つる音すれば悪魔しりぞく 弓神楽の歌
東吉野村の丹生川上神社は、水の神の
○この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空 後醍醐天皇
黒滝村粟飯谷の粟飯谷妙見神社(稲荷神社)は、子安神、宇迦之御魂神ほかをまつり、安産の神ともされる。幕末の国学者の歌。
○うみの子をうら安かれと守るこそ、神のみたまのしるしなりけれ 鈴木重胤