奈良県(大和)

やまとは国のまほろば。たたなづく青垣。山隠れるやまとし美はし  倭建命

猿沢の池

奈良 興福寺

 平城天皇は、平安遷都をした桓武天皇の皇子で、退位後は古都の奈良に移られた。

 ○ふるさととなりにし奈良の都にも、色は変らず花は咲きけり    平城帝

 むかし平城の帝に仕へた采女(うねめ)が、帝の寵愛の乏しいことを嘆いて、奈良の猿沢の池に身を投げたといふ。これを聞いた帝は、池の畔を訪れて采女を偲び、采女の慰みに、同行の人々に歌を詠ませた。そのとき人麻呂が詠んだといふ歌。

 ○吾妹子(わぎもこ)のねくれた髪を、猿沢の池の玉藻と見るぞ、かなしき    柿本人麻呂

 それに応へて帝が詠まれた歌。

 ○猿沢の池藻つらしな。吾妹子が玉藻かづかば水ぞ()なまし     平城帝

 帝はここに采女の墓を作らせたといふ。(大和物語)

 平安時代に柿本人麻呂が登場する話になってゐるが、万葉集二十巻が平城帝の御代に最終的に完成されたことを暗示するものとの解釈もある。





春日神社

奈良市

 春日山には古くから鹿島の神がまつられてゐたが、奈良時代に、鹿島の武甕槌(たけみかづち)命を主に四柱の神をまつった春日神社が造営され、藤原氏の氏神とされた。摂社の浮雲社が古くからの鹿島の社の場所ともいふ。

 ○鹿島より鹿(かせぎ)に乗りて、春日なる三笠の山に、うきくもの宮     春雨抄

 ○この冬も老いかかまりて、奈良の京、薪の能を思ひつつ居む    釈迢空



柳生の里

奈良市

 奈良市の北東に柳生の里がある。父から柳生新陰流の剣術を受け継いだ柳生宗矩は、幕府の兵法師範として徳川家光から一万石を賜ったといふ。

 ○山住みのうきに心を慰むは、とお(ママ)ぢの寺の入あひの鐘   柳生宗矩

 ○住める代を久しかれとてたとへ置き、松と鶴との歳や重ねん    柳生十兵衛三巌



三輪の糸

桜井市三輪 大神神社

 むかし三輪の里に住んでゐた活玉依姫(いくたまよりひめ)のもとへ、毎晩訪ねてくる身分の高さうな若者があった。姫はやがて懐妊したが、男の素性がわからないので、父母が智恵を授けて、一本の麻糸を男の袴に縫ひ付けておいた。明くる朝に糸を見ると、糸は鍵穴から外へ出て、道に向かって延びてゐた。更に糸をたどって行くと、三輪の神の杜の中へ続いてゐた。それで、三輪の神の子を懐妊したことを、一家は喜んだといふ。(大和物語)

 ○わが庵は三輪の山もと、恋しくは(とぶら)ひ来ませ。杉立てる門     古今集

 ○うま酒、三輪の殿の朝戸にも出でて行かな。三輪の殿戸を     古語拾遺

  ◇

 紀伊国屋文左衛門が破産後に三輪で詠んだといふ狂句。

 ○そうめんのふしや孟母の玉襷                  紀伊国屋文左衛門



海石榴市

桜井市

 海石榴市(つ ば いち)は、わが国最古ともいはれる市で、三輪山の南麓の初瀬川べり(桜井市金屋)にあったといはれる。つばいちとは椿市の意味で、山の民が持参した山づと(土産)の椿の木を市に植ゑ立て、山姥がまづ鎮魂の歌舞をして、里の民と交流したものが起源といはれる。木の種類は市によって異なるが、市には必ず何かの木が植ゑられたらしい。ここで物の交換が行なはれ、やがて市として発展していった。市は、歌垣の場でもあり、片歌の交換などから、文学的な短歌の形式が形成されていったともいふ。

 ○海石榴市の八十のちまたに立ちならし結びし紐を解かまく惜しも  万葉集

 ○紫は灰さすものぞ。海石榴市の八十のちまたに逢へる子や。誰   万葉集

  (「灰さす」とは紫の染色法をいふ)



影姫

(海石榴市)

 むかし武烈天皇が皇太子だったころ、物部麁鹿火(あらか ひ)の娘の影姫と、海石榴市の歌垣で逢ふ約束をした。歌垣の庭で、太子は影姫の袖をとり、足踏みをして歌った。

 ○琴頭(ことがみ)に来寄る影姫。玉ならば吾が()る玉のあはび白玉       武烈天皇

 そこへ平群鮪(へぐりのしび)といふ男が現はれた。太子は、鮪と歌のやりとりをしてゐるうちに、鮪が影姫と既にただならぬ関係にあることを悟った。太子は、鮪とその父が普段から無礼な態度だったことを思ひ出し、怒りを爆発させ、大伴の兵に命じて鮪を奈良山まで追ひかけて討ち取らせた。あとを追ひかけて鮪のなきがらを見た影姫は、悲しみ泣き狂ったといふ。

 ○石上(いそのかみ) 布留(ふる)を過ぎて、薦枕(こもまくら) 高橋過ぎ、物多(ものさは)大宅(おおやけ)過ぎ、春日(はるひ) 春日(かすが)を過ぎ、

  妻隠(つまごも)小佐保(をさほ)を過ぎ、玉笥(たまげ)には(いひ)さへ盛り、玉もひに水さへ盛り、

  泣きそぼち行くも、影姫あはれ   (日本書紀)

  ◇

 さて、海石榴市は、推古天皇の御代には、隋の使節をここへ迎へ、歓迎の宴とともに経済交渉も行なはれたといふ。延長四年(926)の初瀬川の大洪水以後は、市の中心は三輪に移された。三輪市には、市の守護神として恵比須神社(桜井市三輪)がまつられてゐる。



小泊瀬山

桜井市

 むかしある娘が、父母に知らせずに恋しい男と契った。男は娘を得はしたものの、娘の親のことを考へると、どうももの怖ぢしてしまひ、通ふことをためらってゐたので、女は歌を男に贈り届けたといふ。(万葉集)

 ○事しあらば小泊瀬山の石城にも、(こも)らば共に、な思ひ。わが()   万葉集3806

  ◇

 初瀬川の上流の宇陀郡は、大和から東国への街道筋にあたる

 ○阿騎の野に宿る旅人、打ち靡き、寝も寝らめやも、古へ思ふに   柿本人麿



耳無池

橿原市

 むかし、縵児(かつらこ)といふ美しい娘に、三人の男が求婚した。縵児は「三人の心は石のやうに変ることのない貴いものだといふのに、女の身は露のやうにはかないものです」といって、耳無の池に身を投げた。それを知った三人の男は、声を上げて泣きながら、歌を詠んだ。(万葉集)

 ○耳無(みみなし)の池し恨めし。吾妹児(わぎもこ)が来つつ(かづ)かば、水は涸れなむ     万葉集3788-9

 ○あしひきの山縵の児、今日行くと吾に告げせば、帰り来ましを

 ○あしひきの山縵の児、今日のごと、いづれの隈を見つつ来にけむ

◇ 天の香具山

 ○大和には群山あれど、取りよろふ天の香具山、

   のぼり立ち国見をすれば、国原は煙立ち立つ。海原は鴎立ち立つ。

     うまし国ぞ。蜻蛉島大和の国は              舒明天皇



哭沢の杜

橿原市木之本町

 泣沢女(なきさはめ)の神は伊邪那岐(いざなき)命の涙から生まれたといふ神で、死者の霊の復活や、病気をなほす神とされる。都多本神社(橿原市木之本町)などにまつられる。高市皇子の病気平癒を祈る桧隈女王の歌。

 ○哭沢の杜にみわ据ゑ、祈れども、我がおほきみは高日知らしぬ   桧隈女王



飛鳥坐神社

高市郡明日香村

 高市郡明日香村の飛鳥坐(あすかにます)神社は、事代主(ことしろぬし)神ほかをまつる。

 ○飛鳥井に宿りはすべし をけ蔭もよし 御水もよし 御秣もよし  催馬楽

 釈迢空(折口信夫)の母方の祖父は、飛鳥坐神社の神官だった。

 ○ほすすきに夕雲ひくき 明日香のや わがふるさとは灯をともしけり 釈迢空



久米の仙人

橿原市

 むかし吉野に久米といふ男が仙術の修行をしてゐた。久米が飛行の術を会得して空を飛んでゐると、吉野川の岸で洗濯をしてゐる女が見えた。女の裾がめくれてふくらはぎが見え、これを見た久米は神通力を失って墜落してしまった。

 ○久米と黒主洗濯で名を汚し                   江戸川柳

 久米はこの女と夫婦となり平凡に暮らしてゐたが、新都造営の夫役に出たとき、仙術を利用して吉野の材木を素早く運んだことから、褒賞を賜り、それをもとに久米寺(橿原市)を開いたといふ。



葛城

御所市

 神武天皇即位の地のカシハラは、御所(ごせ)柏原(かしはら)の地だらうと、鳥越憲三郎はいひ、「葛城王朝説」を証明した(鳥越『神々と天皇の間』朝日新聞社)。地名辞書その他によると、所在地としては古くからとなへられてゐたやうで、また橿原は柏原とも表記され、南朝の後村上天皇の御製にもある。

 ○高みくらとばり掲げて、柏原(かしはら)の宮の昔もしるき春かな       後村上天皇

 大和三山を見下ろす葛城台地の奥に鎮まる高天彦(たかまひこ)神社(御所市)の由緒にも、「葛城王朝」の語が見え、「本社は大和朝廷に先行する葛城王朝の祖神、高皇産霊(たかみむすひ)尊を奉斎する名社であります」と書かれる。高天彦神社の「背後にひろがる広大な台地を、神々のいますところと信じて高天原と呼び、その名称が神話として伝」はったとも書かれる。

 ○葛城の高間(たかま)草野(かやの)、はやしりて(しめ)ささましを、今ぞくやしき    万葉集





葛城一言主大神

御所市

 むかし雄略天皇が葛城山で狩りをされたとき、天皇と同じ姿をして歩いてゐた人があった。天皇が不審に思って名を問ひただすと、その人は「吾は悪事も一言、善事も一言に言ひはなつ神、葛城の一言主(ひとことぬし)の大神ぞ。」といった。これを聞いた天皇は、

 ○(かしこ)しや、我が大神、(うつ)し臣、かくあらむとは、さとらざりきを

と言って、弓矢などを献上すると、一言主大神は、手を打ってそれを受けとり、ともに狩りを楽しんだといふ。(古事記)

 ○み狩する君かへるとて、久米川に一言主ぞ出でませりけり     夫木抄

 この神は御所市の葛城一言主神社にまつられる。里人には「いちごんさん」と呼ばれ、一言(ひとこと)だけ願ひを叶へてくれるといふ信仰になってゐる。二代綏靖天皇の葛城高岡宮址が近くにある。

 葛木坐火雷(かつらぎにますほのいかづち)神社(笛吹神社)の歌。

 ○笛吹の社の神は音に聞く遊びの岡や、ゆきかへるらん       藻塩草



中将姫

北葛城郡当麻町 当麻寺

 むかし右大臣藤原豊成に、中将姫といふ娘があった。姫が九歳のころ、継母の照夜の前は家来の山下藤内に姫を殺害するやうに命じた。藤内の子の小次郎は、偶然この話を知ってしまひ、悩んではみたがやはり姫を護らうとして、屋敷に忍び込まうとする父に斬りかかった。しかし逆に父に殺されてしまった。

 ○しねばとて心残りはなかりけり。忠と孝とに覚悟しぬれば     山下小次郎

 姫は、十六歳で当麻寺の尼僧となった。お告げにより蓮茎を集めて糸を抜き、染井の井戸にひたして桜の木にかけると糸は五色に染まった。この糸を使って日夜機を織り続け、気がつくと一丈五尺四方の大曼陀羅が織りあがってゐたといふ。

  ◇

 当麻寺の裏の二上山を詠んだ歌。

 ○うつそみの人にある吾や、今日からは二上山をいろ()とわが見む   大伯皇女



立田越え

 むかし葛城に住む男女があったが、生活が貧しくなり、男はこの女を捨てて、河内国高安の女のもとに通ふやうになった。女はそれを知ってか知らずか、毎晩、男の夜の山越えを気遣ふ歌を歌ってゐた。

 ○風吹けば沖つ白波たつた山、夜半にや君が一人越ゆらむ      古今集

 陰でこれを聞いた男は、河内へ通ふのをやめて元の女に戻ったといふ。(大和物語)

 女は毎晩髪を洗って、気持を冷やしてゐたともいふ。

 ○春柳、葛城山に立つ雲の、立ちてもゐても、(いも)をしそ思ふ     万葉集2453



竜田の神、広瀬の神

生駒郡三郷町、北葛城郡河合町

 天武天皇のころ、美濃王の佐伯広足をつかはして、竜田の社に風神(かぜのかみ)をまつらせ、また間人(はしひと)大蓋をつかはして川の合流する広瀬に大忌神(おほいみのかみ)をまつらせたといふ。竜田風神祭と広瀬大忌祭は風と水の神をまつることによって農耕の豊饒を祈るものといふ。

 ○から錦あらふと見ゆる竜田川、大和の国の(ぬさ)にぞありける     兼輔集

 ○みそぎして神の恵みも広瀬川、幾千代までか、すまむとすらむ   千五百番歌合



片岡山

生駒郡王寺町

 推古天皇二一年十二月、聖徳太子が片岡山を巡遊されたとき、道端に乞食(こつじき)のやうな、しかしどことなく気品をただよはせる男が臥してゐた。そこで太子は歌を詠まれた。

 ○しなてるや、片岡山に飯に飢ゑてふせる旅人、あはれ、親な し  聖徳太子

 男は返し歌を詠んだ。

 ○いかるがや、富の小川の絶えばこそ、わが大君の御名を忘れめ 

 太子は自分の衣装を脱いで与へ、食物も与へて帰ったが、男は翌日に死んだ。太子は、人を使はして男を手厚く葬らせた。ところが、葬儀のとき棺の中に男の遺体は無く、太子の衣装があるのみだったといふ。里人は、死んだ男は達磨大師の化身だとして、棺だけを葬り、達磨塚を築いて寺を建てた。寺には太子が自ら刻んだ達磨大師の像を安置したといふ。

  ◇

 法隆寺の夢殿を詣でたときの歌。

 ○(おほきみ)の御名をば聞けどまだも見ぬ夢殿までにいかで来つらん    道長 扶桑略記





つみのえ

吉野

 むかし吉野の味稲(あぢしね)といふ漁夫が、谷川で梁を打ってゐると、川上から(つみ)の枝が流れてきた。枝は仙女と化し、男は仙女と結婚したといふ。(万葉集)

 ○霰ふり吉志美(きしみ)が岳を(さか)しみと、草取りかねて、(いも)が手を取る    万葉集385

 ○この夕べ、(つみ)のさ枝の流れ来ば、梁は打たずて取らずかもあらむ  万葉集386



吉野水分神社

吉野町吉野山

 吉野水分(みくまり)神社は、大和盆地の水源をつかさどる神・天之水分(あめのみくまり)大神をまつる。俗に「子守明神」の名で幼児の守護神とされるのは、社記によれば数柱の祭神が親子の神だからといふ。本居宣長の父母は、三度当神社に詣で、子の宣長を授かったといひ、宣長自身も京と松坂の往復の折りによく参詣した。

 ○吉野山、花は見ぬとも、水分(みくまり)の神のみ前を、をろがむがよさ    本居宣長

 ○水分の神のちかひのなかりせば、これのあが身は生れこめやも   本居宣長



浄見原神社

吉野町南国栖

 壬申の乱のときに天武天皇が住んだ地に、天皇をまつる浄見原(きよみはら)神社が建てられた。

 ○乙女子が乙女さびすも。唐玉を、乙女さびすも。その唐玉を    天武天皇

 持統天皇(天武天皇の皇后)の行幸のときに柿本人麻呂が歌を詠んだ。

 ○見れど飽かぬ吉野の川の、常滑の、絶ゆる事無くまたかへり見む  柿本人麿

 吉野には神武天皇以前に国栖(くず)と呼ばれた土着民があり、朝廷の行事に鮎や栗などの山の幸を献上し「国栖の奏」といふ歌笛を奏した。国栖奏は現在も浄見原神社に伝はる。

 ○かしのふに横巣(よくす)を作り、横巣にかめる大神酒(おほみき)(うま)らに聞こしもち食せ、まろがち  国栖奏の歌(応神紀)



吉水神社

吉野町吉野山

 文治元年(1185)源義経は、京を追はれて一時吉野に潜んだ。今の吉水(よしみづ)神社の地である。やがて義経は奥州へ旅立ち、静御前とはここで別れたといふ。静御前が鎌倉に連行されて鶴岡八幡宮で舞ったときの歌。

 ○吉野山、峯の白雪踏み分けて、入りにし人の跡ぞ恋しき     静御前

 吉水神社は古くは吉水院といふ名の修験の寺だったが、南北朝時代に後醍醐天皇がここに行宮を置いたことから、明治初期に後醍醐天皇をまつる神社となった。

 ○花にねて、よしや吉野の吉水の、枕の下に石走る音       後醍醐天皇

 文禄三年には豊臣秀吉が、ここで盛大な花見の宴を催したこともある。

 ○年月を、心にかけし吉野山、花の盛りを今日見つるかな     豊臣秀吉



吉野の神

 十津川村玉置川の玉置神社(玉置山)の弓神楽は、本木といふ木で作った白い弓矢を持ち、巫女の衣装をつけた男子の神子が奏する珍しい舞楽で、白河院の御前でも奉納されたといふ。

 ○熊野なる玉置の宮の弓かぐら、つる音すれば悪魔しりぞく    弓神楽の歌

 東吉野村の丹生川上神社は、水の神の罔象女(みつはのめ)神をまつり、天武天皇の御代の創建といふ。祈雨のときは黒毛馬を、雨を止めるには白馬を奉納するといふ。

 ○この里は丹生の川上ほど近し 祈らば晴れよ五月雨の空     後醍醐天皇

 黒滝村粟飯谷の粟飯谷妙見神社(稲荷神社)は、子安神、宇迦之御魂神ほかをまつり、安産の神ともされる。幕末の国学者の歌。

 ○うみの子をうら安かれと守るこそ、神のみたまのしるしなりけれ  鈴木重胤