浅草寺

台東区浅草

 推古天皇三六年の三月十八日、宮戸川(隅田川)で三人の漁師が漁をしてゐると、網に観音菩薩の像がかかった。三人の漁師は、もと都の人で、土師(はにしの)真仲知(まなかち)登茂成(ともなり))とその従者、桧隈(ひのくま)浜成・竹成の兄弟だった。像は十人の草刈の童によってあかざ(藜)で屋根を葺いた堂に安置され「日の権現あかざ堂」と呼ばれ、のち浅草寺となった。本堂向かって右の三社権現(浅草神社)には、土師真仲知ら三人がまつられてゐる。浅草神社の三社祭は神田祭、山王祭とともに江戸三大祭といはれる。

 ○浅草や川瀬の淀に引く網も、ひろき誓ひにたぐへてぞ見る

 ○鳩鳴くや大堤燈に春の風

 ○慶応のころに古巣を立ちのけど、雷門と名のみ残れり(土産の色紙)



都鳥

隅田川

 むかし在原業平が東国を旅したとき、隅田川の船から鳥が見えたので、何といふ鳥かと船頭に聞くと、「都鳥」だと答へた。都といふ言葉に京のことが想ひ出されて、歌を詠んだ。

 ○名にし負はばいざ言問(ことと)はむ。都鳥。わが思ふ人はありやなしやと   在原業平

 言問(こととひ)橋、業平橋の付近(向島)の牛島神社や三囲(みめぐり)神社を詠んだ歌句。

 ○牛の御前、言問橋もうつりけり。移りがたしも。わが旧ごころ    釈迢空

 ○夕立や田を三囲りの神ならば    (雨乞の句)         其角



梅若塚

隅田川

 昔(平安時代)、京の公卿の子に、梅若丸といふ少年がゐた。母が近江の山王権現に祈願して授かった子で、美しく利発に育ち、叡山の稚児となってゐた。梅若が十二歳のとき、人買ひにさらはれ、遠く江戸まで連れ去られてしまった。梅若は故郷の母を慕ふあまりに重い病にかかり、隅田川に捨てられて死んだ。

 ○尋ね来て問はばこたへよ都鳥、隅田河原の露と消えぬと

 わが子をたづねて旅に出た母は、気がふれてしまい、一年後に隅田川を訪れて、梅若の塚の前で、嘆き悲しんだといふ。母は尼僧となり、小堂をいとなんで梅若の霊をとむらった。

 ○くみしりてあはれと思へ、都鳥、子に捨てられし母の心を

 梅若丸は山王権現の申し子といはれたことから、塚の背後に、山王権現が祀られた。後にそこに建てられたお寺は、「梅」の字を二つに分けて木母寺といひ、向島の梅の名所となった。(謡曲・隅田川、歌語日本史)



浅茅ヶ原、

一つ家の鬼婆  浅草

 江戸浅草の橋場町あたりは、かつては浅茅ヶ原と呼ばれたさびしい場所であった。

 ○人目さへ枯れてさびしき夕まぐれ、浅茅ヶ原の霜を分けつつ     道興

 この近くに鏡が池といふ池があった。池のそばには袈裟懸松があり、采女(うねめ)塚もあった。采女塚は吉原の遊女を葬ったもので、寛文のころ、采女といふ名の遊女が、僧との悲恋の末に、この松に小袖をかけて、身を投げて死んだ。袖には歌が残してあったといふ。

 ○名をそれと知らずとも知れ、猿沢のあとをかがみが池にしづめば   采女

 「猿沢のあと」といふのは、奈良の猿沢の池に入水した采女(宮廷の女官)に、己をたとへたやうだ。(奈良「猿沢の池」の段参照)

 浅茅ヶ原には、姥が池、石の枕、一つ家の伝説があった。野寺とは観音様のこと。

 ○武蔵には、霞が関や、一つ家の石の枕や、野寺あるてふ       伝白河院

 むかし浅茅ヶ原に老夫婦がゐた。夫婦は、娘の器量の良いことに遊女に仕立て、道を行く男を誘った。男と娘が里のはづれの石を枕に共寝をしたころ、夫婦は男の頭を打ち砕いて殺し、衣類や持ち物などすべてを奪って、生計を立ててゐた。娘はかうした暮らしがいやになり、父母をだまさうと思って、客を取ったふりをして、自分は男のなりをしていつもの枕に寝た。いつもの通り夫婦が頭を打ち砕き、着物を脱がしてみれば、わが娘であったといふ。悪事を恥ぢた老婆は、竜に化身して池に身を投げた。その池は、姥が池(姥が淵)といふ。老婆の悪事を憐れんだ浅草の観音さまが、草刈の童の姿で笛を吹くと、その音は歌に聞えたといふ。

 ○日は暮れて野には臥すとも、宿借らじ。浅草寺の一つ夜(家)のうち

 不思議なこの笛の音は、道を行く旅人の行く末を守ったものといふ。。



神田明神

千代田区外神田

 神田神社の社記によると、奈良時代には千代田区大手町の将門塚の付近に最初の宮があったらしい。それから約二百年後に、平将門の乱がおこり、将門は敗れて首を京都のはづれに晒されたが、一族がその首を奪って神田に塚を築いて葬った。のち鎌倉時代の末に塚の近くに社殿が建てられ、土地の神とともに将門の霊もまつられたといふ。徳川時代に入り江戸の町が開けたころ、神田明神は江戸の鎮守として将軍家にも信仰され、将門に対しても八所御霊(早良親王以来の八柱の御霊)の例にならって、国家鎮護の神として朝廷に認められたといふ。

 ○泣きつれて声よりこゑもますらをの心にかへる夜半の雁がね     太田道潅



笠森お仙

台東区谷中

 谷中の笠森稲荷のそばの茶屋に、お仙といふ評判の美人の娘がゐた。お仙見たさに江戸中から男たちが集まり、稲荷さまも茶屋もたいへんな繁昌だったらしい。お仙はもと武州草加の貧しい名主の生れで、茶屋に売られて養女となった。養父に横恋慕され、若い男とかけおちしたともいふ。

 ○向う横丁のお稲荷さんへ一銭あげてざっと拝んでお仙の茶屋へ   (手鞠唄)





諸歌

 ○亀戸の藤も終りと、雨の日をから傘さして、ひとり見に来し     伊藤左千夫

亀戸の龍眼寺(萩寺)

 ○萩寺の萩おもしろし。露の身の奥津城(おくつき)どころ此処(ここ)と定めむ      落合直文

千代紙塚  王子駅前

 ○千代紙のうつくしき見れば、忘れゐし幼きときにあふ心地する    東久迩宮総子

秋色桜  上野清水堂の井戸端にある桜。女流俳人の秋色が植ゑたといふ。

 ○井戸ばたの桜あぶなし酒の酔                   秋色





竹芝の里

港区三田(または埼玉県大宮市)

 以下は亀塚神社由緒記よりほぼそのまま引用する。更級日記が元になってゐるやうだ。

《---- 武蔵国住人某(竹芝某)、衛士にて禁中奉仕せるが、或る時御庭にてふと古郷のことども思ひ浮かべて、我ともなく、

 「鳴呼、我が古里に七つ三つ造りし酒壷にさしわたしたるひた柄のひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびく。今は如何にあらん」

 と東の空眺めて望郷の涙に目を曇らす折柄、時の御帝最愛の皇女宮、唯御ひとり御簾の際に立ち出で給ひて、柱に寄掛かり、御庭を御覧じおはしませしが、今衛士の独言をもの珍しく聞こし召されて、御簾を押し明けられ、「彼の男こちへ寄れ」と召されければ、衛士は高欄のつらに参りてかしこまりぬるに、宮は「そなたの言ひつる事、今一度我に言ひて聞かせよ」と仰せられければ、彼の酒壷の事どもまたさらに一返し申し上げたりけるに、宮は如何思ひて召し給ひけるにや、「我を連れ行きてその壷見せよ。我に思ふ仔細あり」と仰せられけり。衛士は畏こく恐ろしと思ひけれども、過ごし世の縁にや、終に心を決してひそかに宮を背負ひ奉りて武蔵国へ下向せり。便りなく人の追ひや来らんと思ひて、その夜幾多の橋の本に宮を居たてまつりて橋をこぼち、また揆き負ひ奉りて七日七夜といふに無事に古里に行き著きにけり。

 都にては皇女の宮の失せ給ひぬと思し迷ひて、厳しく探し求め給ふに、武蔵国より召されたる衛士のいと麗はしきものを首に引きかけて飛様に逃げたると、申し訴へたるものあり。衛士を尋ぬるに無かりければ、論なく本国にこそ行きしならむと、公よりの使ひ下りて追ふに、幾多の橋こぼれて得行きやらず。三月といふに武蔵国に行きつきて此男尋ぬるに、宮は公の使ひを召して仰せけるは、「我いかなる縁にや、此男の家ゆかしく思ひて、連れていけと言ひしかば、連れて来りてみれば、思ふにまして住み心地よく覚ゆ。若し此男罰せらるれば、我はいかで世にあらむ。是れも此国に跡垂るべき前の世の約束にあるらん。早く帰りて公に此由を奏し奉れ」と仰せられ、動かし給はねば、御使ひもせんかたなく空しく帰り上りて、帝にかくとありのままを奏しければ、今はいひかひなし。

 竹柴の男に世にあらん限り武蔵国を預けとらせ、宮を預け奉るのよし宣旨下りければ、此男の家を内裡のごとく造りて宮を住まはせ奉りける。宮失せたまひぬる後、寺になしたるを竹芝寺といふなり。

 其頃より彼の酒壷のもとに白色の霊亀あり。国人崇め敬ひて神に祀り、和合豊熟を祈り奉るに、立願立ちどころに成就し、霊験響きの物に応ずるが如し。是れぞ亀塚稲荷神社の間輿なりとぞ。 --- 》

 ○月見酒、下戸と上戸の顔見れば、青山もあり赤坂もあり       から衣橘州

 更級日記にいふ竹芝寺は、港区三田の済海寺の場所にあったといふ。ところが別の説もあって、埼玉県大宮市の氷川神社付近だともいふ。竹柴の男と皇女(宮)の間の子は、武蔵国を預り、武蔵の姓を賜ったと更級日記にある。武蔵姓の一族が氷川神社周辺に住んだらしい。



烏森稲荷

港区新橋

 天慶三年(940)、平将門の乱のとき、藤原秀郷(俵藤太)が、武蔵国のある稲荷明神に戦勝を祈願したところ、白狐が現はれて白羽の矢を授けた。この矢で秀郷は将門のこめかみを射たといふ。のち秀郷の夢に現はれた白狐が、神烏の群れるところが稲荷神の霊地だと告げたので、秀郷はその地を求めて武州桜田村の森に至り、森の上空に烏の群を見て社殿を建ててまつった。これが烏森(からすもり)稲荷(烏森神社)の起りであるといふ。

 明暦三年(1657)の大火(振袖火事)では、不思議にも烏森稲荷だけは類焼を免れた。

 ○くろやきになるべき烏森なれど、やけぬは神のいとく成りけり



塵塚お松

港区三田

 宝暦(1751-64) のころ、三田の三角といふところの岡場所に、お松といふ私娼がゐた。塵塚(ごみ捨場)の近くだったので、塵塚お松、別名はきだめのお松とも呼ばれ、賎しい男たちを相手にしてゐた。ところがお松は場所に似合はぬ美貌で、そのものごしの和らかさからも育ちの良さをうかがはせ、美しい筆跡で和歌も詠んだ。ある武士が珍しがってお松のところをを訪れ、題に困って「塵塚お松」を題に歌を求めたが、お松はさらっと詠んで見せたといふ。

 ○塵塚の塵にまじはる松虫も、声は涼しきものと知らずや       お松

 お松は阿波藩の武士と結婚したともいふが、その後の消息は不明のやうだ。



暗闇坂むささび変化

港区麻布十番

 ○所は東京麻布十番、折しも昼下がり、暗闇坂は蝉時雨……      松本隆

 麻布界隈には坂が多く、麻布十番には狸穴坂(まみあなさか)がある。江戸のころまで坂の周囲に鬱蒼とした森があり、その中に狸の穴があったといふ。明治以来外国領事館などが建ち並び、麻布は高級住宅街となっていった。歌や詩は、本来は音声や音楽やそのほかの文字以外のものをともなふものである。音楽といへば欧米音楽のその圧倒的な影響力の中で、戦後の詩人はおぼろげな何かを見たらしい。暗闇坂は実在するともいふが、故郷であったはずの地に見た仮装都市の中の暗闇坂が、その入口だったのだらう。「暗闇坂むささび変化」の作曲は細野晴臣。



面影橋

新宿区早稲田

 明応のころ、高田の里に生まれた於戸姫(おとひめ)といふ美しい女が、嫁いだ夫と、横恋慕してきた夫の友人との争ひから二人を死なせ、里へ帰って、神田川の橋のたもとで行きつ戻りつして、橋から身を投げたといふ。新宿区早稲田の面影橋である。

 ○変りぬる姿見よとや、行く水のうつす鏡の影にうらみし       於戸姫

 ○限りあれば月も今宵は出でにけり。今日見し人も今は亡き世に    於戸姫

 面影橋のたもとには太田道潅ゆかりの「山吹之里」の碑がある。

 ○七重八重花は咲けども、山吹のみの一つだになきぞかなしき



成就庵

品川区 戸越八幡神社

 むかし戸越村(品川区戸越)の籔清水の池の傍らに小さな草庵があった。大永六年(1526)八月、諸国行脚の僧・行永法師がこの庵に立ち寄った夜のことである。法師が十五夜の月を眺めてゐると、突然、池から清水が激しく湧き出して、水中から何か像のやうなものが現はれた。掬ひあげてよく見ると、八幡大菩薩の神像である。法師はこれを草庵に安置してまつった。以来、願ひごとがよく成就するので「清水の上の成就庵」といはれ、江戸からの参詣人も多かったといふ。

 ○江戸越えて、清水の上の成就庵。ねがひの糸のとけぬ日はなし    古歌

 「江戸越え」から、戸越の地名が起ったといふ。元禄元年に社地を遷して鎮守としてまつったのが戸越八幡神社である。



千束の松

大田区 千束八幡神社

 千束八幡神社は、貞観二年(860)に豊前国の宇佐八幡を勧請して、千束郷の総鎮守として創祀されたものといふ。約八十年後の平将門の乱のとき、鎮守副将軍として都から派遣された藤原忠方は、乱の平定後に、洗足池(千束池)のほとりに館を建てて土着し、八幡宮を氏神とした。忠方の館は池の上手なので、池上氏を名告った。境内には大松があったといふが、大正十三年に枯衰したらしい。

 ○日が暮れて足もと暗き帰るさに、空に映れる千束の松



恋が窪

国分寺市

 むかし武州畠山(埼玉県川本町)の荘司、畠山重忠は、鎌倉街道の国分寺宿の遊女夙妻太夫と恋仲となった。寿永二年(1183)、木曽義仲追討のために重忠は京へ出陣し、長く国を離れることになった。その間、太夫に横恋慕した家来の「殿は討死に」の偽りの知らせに、夙妻太夫は悲嘆して「姿見の池」に身を投げてしまった。のち平氏を滅ぼして凱旋した重忠は、国分寺宿を訪れてその事情を聞き、太夫を憐れんで池の傍らに松を植ゑた。この松は、葉が一本しか生へなかったといひ、「一葉松」と呼ばれた。この土地はいつの頃からか「恋が窪」と呼ばれるやうになった。

 ○朽ち果てぬ名のみ残りて恋が窪



諸歌

 ○玉川の流れを引ける小金井の桜の花は、葉ながら咲けり       正岡子規

青梅市沢井

 ○西多摩の山の酒屋の鉾杉は、三もと五もと青き鉾杉         北原白秋

多摩川べりに住んだ画家の川合玉堂は、ある日、孫が桂川(山梨県)で拾ってきた石が、色、形ともよい凹みのある石なので、そのまま硯にしたといふ。「白頭翁の硯」と名づけた。

 ○河狩りに孫の拾ひしこの小石、すずりになりぬ。歌書きて見し    川合玉堂

小河内村 小河内ダムがある

 ○水底とつひに沈まむ。み湯どころ、小河内の村に一夜寝にけり    北原白秋