玉前の神

長生郡一宮町 玉前神社

 九十九里浜の南端、長生郡一宮町の玉前神社は、海神の娘である玉前の神(玉依姫命)をまつったものである。

 むかし玉前の神が懐妊されたとき、三年目にやうやく若宮がお生れになった。その時、浜辺に一個の明珠(あかるたま)が流れ着いたといふ。

 また、里の長者の翁が、ある夜の夢に感じるところがあり、夜の浜に出ると、突然、東風が起り、波間に光り輝く物が見えた。その光の玉は大波とともに浜に流れ着き、翁がこれを拾ひ上げて祠を建てて祀ったのが、玉前神社の始りであるといふ。

 ○玉の浦の清き渚を行きかへり、浪にかがやく月をみるかな     海上胤平

 ○夕潮に月さへみちて、打ち寄する浪もかがやく玉崎の浦      海上胤平



浜に流れ寄る神

長生郡長生町本郷 住吉神社

 江戸時代の初め(元和二年)に、九十九里浜の一松郷蟹道の磯に、一体の神像が漂着した。これを拾った里人が、しばらく自宅の稲荷さまの中にまつっておくと、ある夜、住吉の神が夢に現はれ「吾は摂津の国、住吉大明神なり。高根郷八幡の森は住吉の杜に髣髴たれば彼の地に遷座せられんことを」との御神託があった。驚いて高根郷の神官と里人に告げると、皆喜んでこれを迎へ、八幡社に合祀して社名も住吉大明神と改めた。合祀当時の歌とされるものがある。

 ○あづま沖 青海原の汐路より 現はれ出でし 住吉の神      古歌



蓑作りの翁の乙女

長生郡長南町 笠森寺

 むかし平安時代の中ごろ、冷泉天皇の皇子、五条の宮が上総守として赴任したとき、その従者として蔵人清光とその(いもうと)も東国へ下向した。「少将の君」と呼ばれ、美貌の上に、また美しく琴を奏で、たちまち宮の寵愛を受けるやうになった。あるとき都から天皇の重病が知らされ、宮は都へ戻って行った。残された少将の君は、すでに宮の子を宿してをり、やがて姫が生まれた。少将の君はひたすら宮との再会を十一面観音に祈願したが、その甲斐もなく病にかかり帰らぬ人となった。兄の清光夫婦は、幼い姫をひきとり、市原郡尾野上の里で蓑や笠などを作りながらひっそりと暮らしたといふ。姫は「蓑作りの翁の乙女」と呼ばれた。

 十数年後、後一条天皇が妃をなくされ、東国に美しい妃を求められたとき、使者の嵯峨の中将によって、姫に白羽の矢が立った。清光夫婦とともに都へのぼり、妃となった姫は、故郷の尾野上の里に一寺を建立し、笠森寺と名づけ、本尊として母のゆかりの十一面観音を安置したといふ。笠森寺は奇岩の上に高い柱を組んで建てられてゐる。

 ○五月雨やこの笠森にさしもくさ                 芭蕉

 ○袖に添ふ涙の雨に濡れじとて、今日笠森をたづね来にけり     日蓮

 右の歌の日蓮は、安房郡天津小湊町の誕生寺のある地に生まれた。



阿須波の神

八日市場市 松山神社

 八日市場市の松山神社の境内にある阿須波神社は、万葉時代に西国へ旅立つ防人が、旅の安全と留守宅の無事を祈ったといふ話を伝へる。

 ○庭中(にはなか)阿須波(あすは)の神に小柴さし、吾は(いは)はむ。帰り来るまで     防人の歌



香取神宮

佐原市

 佐原市香取に鎮座する香取神宮は、経津主(ふつぬし)神{別名、伊波比主(いはひぬし)命}をまつる。経津主神は、鹿島神宮の武甕槌(たけみかづち)命とともに、天孫降臨に先立ってこの国土を平定した武神とされ、古代の大和朝廷の東国経営の前進基地として鎮祭されたともいはれる。

 ○大舟の香取の海に碇下ろし、如何なる人か、物思はざらむ     万葉集

 ○香取潟、百船人のぬさ立つる神の宮居は、幾代経にけむ      村田春海

 枕詞は「大舟の」とあるが、香取神宮の午年ごとの式年神幸祭には、神輿は船で利根川を往復する。



神崎の大楠

(なんぢゃもんぢゃの木)

 香取郡神崎(かうざき)町の神崎神社は、天鳥船(あめのとりふね)命ほかをまつり、白鳳二年に、常陸国に近い大浦沼二つ塚より現在の地に遷ったといふ。広大な神崎の森は、常緑の原生林で、その山の形から、ひさごが丘、ひょうたん山、双子山、などとも呼ばれる。

 高田与清の『鹿島日記』に、社前の御神木のことが書かれ、歌もある。

 ○神代より繁りて立てる湯津桂(ゆ つ かつら)、栄え行くらむ限り知らずも    高田与清

 歌にある湯津桂(斎つ桂)の木は「なんぢゃもんぢゃ」の名で呼ばれる。むかし水戸光圀が参詣したとき、「この木はなんといふかな、さて何といふもんぢゃろか」と自問自答して感嘆されたことにより、その名となったといふ。今は「神崎の大楠」ともいふ。「なんぢゃもんぢゃ」の名で呼ばれる巨木は関東などの各地に存在し、欅、椋、楡、榎、楠など種類はまちまちだが、巨樹を神聖視しての呼び名なのだらう。神崎の大楠は「樹齢は約二千年(牧野富太郎博士推定)」と社記にある。



手賀沼の高田堤

南相馬郡手賀沼

 利根川に近い南相馬郡の手賀(てが)沼は、江戸時代以降干拓がすすめられた。享保のころ、江戸の豪商の高田友清は、私財を投じて堤防を作り干拓をすすめて、二百町歩、二万石の新田を開墾した。友清が築いた堤防は、千間堤といひ、また高田堤ともいはれる。高田家の養子となった幕末の国学者の小山田(高田)与清(ともきよ)が、先祖を偲んだ歌。

 ○築きなせし手賀沼堤、つつむとも、いさを高たの名はや隠るる   高田与清



真間の手児奈

市川市真間町

 万葉集の高橋虫麻呂の歌をそのまま口語訳する。

 鳥が鳴く東の国の昔語として、今に伝はる話である。葛飾の真間の手児奈は、粗末な麻衣に青黒い衿で、地味な麻の裳を着て、髪も束ねず、沓さへ履かずに水汲みに行くのだが、錦綾に身を包む都の斎女だって及びはしない。望月のやうに明るくふくよかな面立ちに、花のやうな笑みをたたへて港に立てば、夏虫の火に入るが如く、港に舟の押し寄せる如く、男たちが寄り集まって声をかける。そんなとき、どうせ人は長くは生きられないといふのに、すでに死ぬときを悟ったといふのだらうか、波の音の騒く港に身を投げてしまった。その奥津城の前に立てば、遠い昔の出来事だといふのに、つい昨日のことのやうに思へてならない。

 ○葛飾の真間の井見れば、立ち(なら)し、水汲ましけむ手児奈し思ほゆ  高橋虫麻呂

 「立ちならし」とは、歌垣で歌はれた古歌では常套句になってゐて、男女のダンスのやうにも受けとめられるが、巫女などの呪的な行為なのであらう。

 ○葛飾や、昔のままの継橋を忘れず渡る春霞かな          慈円



千葉の妙見さま

千葉市中央区

 千葉神社は「千葉の妙見様」とも呼ばれ、八月の妙見大祭で歌はれる盆歌がある。

 ○千葉の妙見さんの孔雀の鳥が、稲穂くはへて羽根ばたき      盆歌

 妙見様は武士の間では弓矢の神として信仰され、平安時代以降、東国の平氏やその子孫の千葉氏、相馬氏などの代々の守護神として崇敬された。

 ○月星を手にとるからに、この家の栄えんことは恒河砂の数     妙見御本誓の歌

 放牧の民が星をまつるのは東洋に多いといふ。日本の近世の妙見信仰は富士講と関係するものも多いらしい。富士の女神は養蚕の神ともされた。



お富・伊三郎

木更津(君津郡)

 むかし江戸深川の芸者お富は、木更津の貸元源左衛門に身請けされて、木更津に住むことになった。ある秋、八幡さまの祭礼で、江戸育ちの三味線弾き、与三郎と知り合った。以来、浜で逢ひ引きを重ねてゐたが、貸元に知られるところとなり、二人は半殺しのめにあった。二人はなんとか逃れて江戸で再会し、夫婦となったといふ。

 ○誰がひくやら明け烏、ついてくるきかお富さん



諸歌

 ○牛飼が歌よむ時に、世の中の新しき歌、大いに起る        伊藤左千夫

 ○天地の四方の寄合を垣にせる九十九里の浜に玉拾ひ居り      伊藤左千夫

鴨川市細野 古泉千樫生誕地

 ○わが家の古井の上の大き椿、かぐらにひかり梅雨はれにけり    古泉千樫



安房神社

館山市

 天太玉(あめのふとだま)命の孫の天富(あめのとみ)命は、阿波国(四国)の忌部(いむべ)氏の一部を率ゐて東方に土地を求め、安房の地に移住し、祖神の天太玉命を安房神社にまつり、房総半島に麻穀の栽培を広めた。天富命は房総開拓の神として下の宮に祀られてゐるといふ。

 ○安房峯()ろの峯ろ田に生はるたはみ(づら)。引かばぬるぬる、()(こと)な絶え  万葉集



房総の頼朝

山武郡蓮沼村

 伊豆で平家追討の兵を挙げた源頼朝は、最初の戦に敗れて安房へ逃れた。安房では多くの里人が頼朝を匿って世話をしたといひ、頼朝公から苗字を賜ったと今に伝へる家は数知れない。頼朝が九十九里浜の景観に見せられて浜の長さを測ったときに、一里毎に矢を挿し、ちょうど九十九里の中央にあたる山武郡蓮沼村に祠を建てて弓矢の神をまつったといふ。今の箭挿(やさし)神社である。

 ○まん丸や、箭挿(やさし)が浦の月の的                  源頼朝