恋が窪

国分寺市

 むかし武州畠山(埼玉県川本町)の荘司、畠山重忠は、鎌倉街道の国分寺宿の遊女夙妻太夫と恋仲となった。寿永二年(1183)、木曽義仲追討のために重忠は京へ出陣し、長く国を離れることになった。その間、太夫に横恋慕した家来の「殿は討死に」の偽りの知らせに、夙妻太夫は悲嘆して「姿見の池」に身を投げてしまった。のち平氏を滅ぼして凱旋した重忠は、国分寺宿を訪れてその事情を聞き、太夫を憐れんで池の傍らに松を植ゑた。この松は、葉が一本しか生へなかったといひ、「一葉松」と呼ばれた。この土地はいつの頃からか「恋が窪」と呼ばれるやうになった。

 ○朽ち果てぬ名のみ残りて恋が窪