竹芝の里

港区三田(または埼玉県大宮市)

 以下は亀塚神社由緒記よりほぼそのまま引用する。更級日記が元になってゐるやうだ。

《---- 武蔵国住人某(竹芝某)、衛士にて禁中奉仕せるが、或る時御庭にてふと古郷のことども思ひ浮かべて、我ともなく、

 「鳴呼、我が古里に七つ三つ造りし酒壷にさしわたしたるひた柄のひさごの、南風吹けば北になびき、北風吹けば南になびき、西吹けば東になびき、東吹けば西になびく。今は如何にあらん」

 と東の空眺めて望郷の涙に目を曇らす折柄、時の御帝最愛の皇女宮、唯御ひとり御簾の際に立ち出で給ひて、柱に寄掛かり、御庭を御覧じおはしませしが、今衛士の独言をもの珍しく聞こし召されて、御簾を押し明けられ、「彼の男こちへ寄れ」と召されければ、衛士は高欄のつらに参りてかしこまりぬるに、宮は「そなたの言ひつる事、今一度我に言ひて聞かせよ」と仰せられければ、彼の酒壷の事どもまたさらに一返し申し上げたりけるに、宮は如何思ひて召し給ひけるにや、「我を連れ行きてその壷見せよ。我に思ふ仔細あり」と仰せられけり。衛士は畏こく恐ろしと思ひけれども、過ごし世の縁にや、終に心を決してひそかに宮を背負ひ奉りて武蔵国へ下向せり。便りなく人の追ひや来らんと思ひて、その夜幾多の橋の本に宮を居たてまつりて橋をこぼち、また揆き負ひ奉りて七日七夜といふに無事に古里に行き著きにけり。

 都にては皇女の宮の失せ給ひぬと思し迷ひて、厳しく探し求め給ふに、武蔵国より召されたる衛士のいと麗はしきものを首に引きかけて飛様に逃げたると、申し訴へたるものあり。衛士を尋ぬるに無かりければ、論なく本国にこそ行きしならむと、公よりの使ひ下りて追ふに、幾多の橋こぼれて得行きやらず。三月といふに武蔵国に行きつきて此男尋ぬるに、宮は公の使ひを召して仰せけるは、「我いかなる縁にや、此男の家ゆかしく思ひて、連れていけと言ひしかば、連れて来りてみれば、思ふにまして住み心地よく覚ゆ。若し此男罰せらるれば、我はいかで世にあらむ。是れも此国に跡垂るべき前の世の約束にあるらん。早く帰りて公に此由を奏し奉れ」と仰せられ、動かし給はねば、御使ひもせんかたなく空しく帰り上りて、帝にかくとありのままを奏しければ、今はいひかひなし。

 竹柴の男に世にあらん限り武蔵国を預けとらせ、宮を預け奉るのよし宣旨下りければ、此男の家を内裡のごとく造りて宮を住まはせ奉りける。宮失せたまひぬる後、寺になしたるを竹芝寺といふなり。

 其頃より彼の酒壷のもとに白色の霊亀あり。国人崇め敬ひて神に祀り、和合豊熟を祈り奉るに、立願立ちどころに成就し、霊験響きの物に応ずるが如し。是れぞ亀塚稲荷神社の間輿なりとぞ。 --- 》

 ○月見酒、下戸と上戸の顔見れば、青山もあり赤坂もあり       から衣橘州

 更級日記にいふ竹芝寺は、港区三田の済海寺の場所にあったといふ。ところが別の説もあって、埼玉県大宮市の氷川神社付近だともいふ。竹柴の男と皇女(宮)の間の子は、武蔵国を預り、武蔵の姓を賜ったと更級日記にある。武蔵姓の一族が氷川神社周辺に住んだらしい。