浅茅ヶ原、

一つ家の鬼婆  浅草

 江戸浅草の橋場町あたりは、かつては浅茅ヶ原と呼ばれたさびしい場所であった。

 ○人目さへ枯れてさびしき夕まぐれ、浅茅ヶ原の霜を分けつつ     道興

 この近くに鏡が池といふ池があった。池のそばには袈裟懸松があり、采女(うねめ)塚もあった。采女塚は吉原の遊女を葬ったもので、寛文のころ、采女といふ名の遊女が、僧との悲恋の末に、この松に小袖をかけて、身を投げて死んだ。袖には歌が残してあったといふ。

 ○名をそれと知らずとも知れ、猿沢のあとをかがみが池にしづめば   采女

 「猿沢のあと」といふのは、奈良の猿沢の池に入水した采女(宮廷の女官)に、己をたとへたやうだ。(奈良「猿沢の池」の段参照)

 浅茅ヶ原には、姥が池、石の枕、一つ家の伝説があった。野寺とは観音様のこと。

 ○武蔵には、霞が関や、一つ家の石の枕や、野寺あるてふ       伝白河院

 むかし浅茅ヶ原に老夫婦がゐた。夫婦は、娘の器量の良いことに遊女に仕立て、道を行く男を誘った。男と娘が里のはづれの石を枕に共寝をしたころ、夫婦は男の頭を打ち砕いて殺し、衣類や持ち物などすべてを奪って、生計を立ててゐた。娘はかうした暮らしがいやになり、父母をだまさうと思って、客を取ったふりをして、自分は男のなりをしていつもの枕に寝た。いつもの通り夫婦が頭を打ち砕き、着物を脱がしてみれば、わが娘であったといふ。悪事を恥ぢた老婆は、竜に化身して池に身を投げた。その池は、姥が池(姥が淵)といふ。老婆の悪事を憐れんだ浅草の観音さまが、草刈の童の姿で笛を吹くと、その音は歌に聞えたといふ。

 ○日は暮れて野には臥すとも、宿借らじ。浅草寺の一つ夜(家)のうち

 不思議なこの笛の音は、道を行く旅人の行く末を守ったものといふ。。