塩竃神社
塩竃神社は、潮流の神・漁業の神である
○塩釜はもとは七つの釜なれど、三つは引かれて、四つは塩釜
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○ちはやぶる神も
(正月初めの「子の日の遊」では、野山で小松を根引いて山づととし、若菜を煮て会食した、その煮炊きの煙を塩焼の煙に喩へた。松は門松の起源、若菜は七草粥の起源ともいふ)
○
塩釜は江戸時代に大きな繁栄を見ることになった。いはゆる伊達騒動(三代藩主が江戸新吉原の遊女高尾に熱をあげたことによるもの)以来、盛り場は仙台から塩釜に移ったためであり、ここの酒席などで歌はれる騒ぎ唄が、塩釜甚句である。
○塩釜街道に白菊植ゑて、何をきくきく、便り聞く 塩釜甚句
多賀城
神亀元年(724) 聖武天皇即位の年に、鎮守府将軍大野
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多賀城や塩釜の近くには「松島」「野田の玉川」「末の松山」などの歌枕がある。
○立ち帰りまたも来て見む。松島や雄島の苫屋、波に荒らすな 藤原俊成
○夕されば潮風越して、陸奥の野田の玉川、千鳥鳴くなり 能因
○契りきな、かたみに袖をしぼりつつ、末の松山、波越さじとは 清原元輔
黄金の山
聖武天皇の天平のころ、陸奥に黄金が産出された。これを祝ふ大伴家持の歌が万葉集にある。
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金の出た所在地については長らく不明とされてゐたが、「大言海」の著者の大槻文彦が、遠田郡涌谷町の地であると考証した。徳川時代に入り、本吉郡本吉町岩尻からも黄金が掘り出され、そのときの仙台藩主が詠んだ歌もある(元禄十年)。
○ふるさとのためしを誰もいはじりに、今を春べと黄金花咲く 伊達綱村
中将実方朝臣
平安時代、藤原摂関家に生まれた藤原実方は、誤解を受けやすい奇行の人で、藤原行成との口論を一条帝に咎められ、しばらく陸奥に左遷されることになった。すぐに許されたのだが、京へは帰らず、
○桜がり雨は降りきぬ。同じくは濡るとも花の陰にかくれむ 藤原実方
○みちのくの阿古耶の松を訪ねわび、身は朽ち人になるぞかなしき 藤原実方
(右の一首は武田静澄『日本伝説の旅』による)
のちに実方の塚を訪れた西行の歌。
○朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて、枯野のすすき形見にぞ見る 西行
東日本では、農作物に被害をもたらす雀は、実方朝臣の亡霊が化したものだともいはれる。小正月の鳥追行事で東日本の子供たちが歌った歌がある。
○おいらが裏の早稲田の稲を、なん鳥がまぐらった。
雀、スワドリ立ちやがれ。ホーイ、ホーイ
頭切って尾を切って、俵につめて海へ流す
武隈の松
平安時代に陸奥守として赴任した藤原元良が、
○植ゑしとき契りやしけむ、武隈の松をふたたびあひ見つるかな 藤原元良
のち源孝義が任国のときに、名取川の橋の架け替へのためにこの松の木が供されたといふ。能因法師が、この松に憧れて訪れて詠んだ歌。
○武隈の松はこのたび跡もなし。千年を経てや吾は来つらむ 能因
能因法師が武隈の松の跡を訪ねたとき、竹馬に乗った童子が現はれた。この童子は武隈(竹駒)神社の神の化身であることがわかり、これに感じた能因は近くに竹駒寺を開基したといふ。
○竹駒の神のみやしろ、詣で来て、ほころびそめし初桜見る 土井晩翠
露無の里
むかし仙台の福沢稲荷神社の境内の脇に尼寺があった。鎌倉時代の初めに、平泉の藤原秀衡家に乳母として仕へた石塚小萩女が移り住み、ここで福沢明神の宮守をしてゐた。庵には藤原秀衡の孫娘や、佐藤継信・忠信(源義経の家臣)の母の梅辰尼も一時住んだらしい。小萩は、この地に観音堂と庵室を建て、近隣の子に学問を教へて、七十才の生涯を終へたといふ。庵の跡に、村民は一本の杉を植ゑて供養した。この杉は八百年後の今も現存するといふ。
○雨も降れ、風の吹くをも厭はねど、今宵一夜は
小萩女の残したこの歌により、後世この地を「露無の里」といふ。(福沢神社由緒)
紅蓮尼
むかし
父母は、諸国をめぐって巡礼を続け、そして帰りの旅の途中で、ふとした縁で、ある夫婦にめぐりあった。その夫婦の話によると、同じやうに観音様に願かけをして男の子を授かり、同じやうに御礼参りの旅に出て、故郷の松島へ帰る途中だといふ。男の子の名は小太郎といった。互に似た境遇に心を引かれあった二組の夫婦は、しばらく一緒の旅をすることにした。やがてどちらからともなく、観音さまの御導きに違ひないのだから、紅蓮と小太郎を一緒にさせてやりたいものだと語りあふやうになった。二組の夫婦は、許嫁の約束をして、それぞれの故郷へ帰って行った。
父母が象潟へ帰ってそのことを紅蓮に伝へたところ、紅蓮は観音さまの御縁を素直に信じ、まだ見ぬ小太郎に心を引かれてゆくのだった。幾日かかかって嫁入りの身仕度をととのへ、親子は松島へ旅立った。
しかし松島へ着いてみると、悲しい事実が待ち受けてゐた。小太郎はすでにこの世の人ではなかったのである。非情な運命にもかかはらず、紅蓮の選んだ道は、観音さまのお引き合はせくださった小太郎のために松島にとどまり、小太郎の供養をしながら、小太郎の両親とともに暮すことだった。
小太郎が幼き日に植ゑたといふ梅を見て、紅蓮が詠んだ悲しみの歌。
○植ゑ置きし花のあるじははかなきに、軒端の梅は咲かずともあれ 紅蓮
すると明くる年の梅は咲かなかったといふ。その咲かない梅を見て詠んだ歌。
○咲けかしな。今はあるじと眺むべし。軒端の梅のあらむかぎりは 紅蓮
すると梅はたくさんの花を咲かせたといふ。かうして幾年月が過ぎ、老父母の死を見とった後、紅蓮は円福寺(瑞巌寺)の尼僧となったといふ。
宮城野・しのぶの姉妹
○さまざまに心ぞとどまる宮城野の花のいろいろ、虫の声々 源頼家
むかし宮城野、しのぶといふ名の姉妹があった。姉妹の父は、田の中から偶然に鏡を見つけたが、その鏡を狙ってゐた男に殺されてしまった。姉妹は、一時は遊女に身をやつしたこともあったが、剣術を習ひ、白鳥明神の境内で見事仇討をとげたといふ。仇の男の名は、志賀台七といふ。事件の原因となった鏡は、志賀台七が、妖術の師であった楠原普伝を殺して奪ったものが紛失してゐたもので、妖術の秘伝に関るものであったらしい。(浄瑠璃「碁太平記白石噺」)
宮城野の萩は歌枕ともされ、宮城県花でもある。
○宮城野の露吹きむすぶ風の音に、小萩がもとを思ひこそやれ 源氏物語桐壷
○宮城野の元あらの小萩、露重み風を待つごと君をこそ待て 古今集
伊達正宗、さんさ時雨
天正十七年、伊達正宗が、宿敵だった会津の芦名義弘を磐梯山の裾野の摺上ヶ原で破ったとき、一族の伊達五郎重宗が戦勝を祝って歌を詠んだといふ。
○音もせで
正宗はこの歌に感じ入って、七七七五に整へて家臣に節をつけさせたのが、仙台地方の祝唄の「さんさ時雨」であるといふが、民謡研究家はもっと新しい時代のものだといふ。
○さんさ時雨か茅野の雨か、音もせで来て濡れかかる (さんさ時雨)
○わしが国さで見せたいものは 昔しゃ谷風、今伊達模様 民謡
右の歌の谷風とは、四代横綱のことで、七郷村(現仙台市)出身。
回文の名手 仙代庵
幕末のころ、仙台城下の荒町に、麹屋勘左衛門といふ酒と学問を好んだ風流人があり、仙代庵と号し、和歌・俳諧の回文の名手でもあった。明治二年没(七十四才)
○今朝見たし徳利ぐっとしたみ酒 仙代庵
○頼むぞのいかにも二階のぞむのだ 仙代庵
○ほかの酒のんで貴殿の今朝の顔 仙代庵
○嵯峨の名は宿りたりとや花の笠 仙代庵
○わが身かも長閑かな門の最上川 仙代庵
○
○はかなの世しばしよしばし世の中は、 (江戸の居候先の主人が死んだとき)
長し短(ミジ)かししかし短(ミジ)かな
○題目よどんどこどんとよく燃いた 仙代庵(お寺の火事のとき)
仙台と
○みな草の名は
古川
古川市の緒絶川にかかる
○陸奥のをだえの橋やこれならむ、踏みみ踏まずみ、心まどはす 藤原道雅
古川市の周辺の仙北地方は、穀倉地帯として知られる。
○古川名物、何かと聞けば、米のなる木に黒いつら
この歌の「黒いつら」とは炭焼を生業とする者のことで、岩手県境の栗原郡金成町には、炭焼藤太といふ炭焼の長者が住んだ。藤太の子が金売吉次だともいふ。
鳴子
仙北地方を流れる荒雄川(
○久しくもわが飼ふ駒の老い行くを惜しむは人に代はらざりけり 明治天皇
○鞭打つもいたましきまで早くより馴らしし駒の老いにけるかな 明治天皇
金華山号は死後、剥製にされ、現在は明治神宮外苑の聖徳記念絵画館にあり、鳴子の地には等身大の木像がまつられてゐる。
鳴子町は、鳴子こけしの産地としても知られる。鳴子こけしは、むかし武蔵坊弁慶が静御前の生んだ子をかくまひ、その子をあやすために考案したものといふ。
○陸奥は遥かなれども、夢にまでこころの山々、こころのこけし 深沢要
諸歌
寛政三年(1791)、仙台の浪人、林子平は『海国兵談』の出版を差し止められ版木も没収されたといふ。
○親も無し、妻無し、子無し、版木無し、金も無けれど、死にたくも無し 林子平
気仙沼生れの国学者・歌人
○置くところよろしきをえて置きおけば皆おもしろし庭の庭石 落合直文
○そよとだにたよりばかりのあれかしと花にも風を祈るころかな 鮎貝槐園(実弟)
明治の文芸批評家(旧制第二高校教授)高山樗牛を偲ぶ歌
○いくたびかここに真昼の夢見たる高山樗牛瞑想の松 土井晩翠