日高見の国

 東北地方全域、または北上川流域を、むかし日高見(ひだかみ)の国といった。または常陸国以北ともいひ、大和政権の支配の充分届かぬ地のことともいふ。「ひたかみ」が訛って北上となり、北上川の名として残ったといふ。

 ○み冬つき春立ちけらし。ひさかたの日高見の国に霞たなびく   賀茂真淵

 稗貫(ひえぬき)花巻(はなのまき)に生まれた宮沢賢治は、県名の「いはて」をもぢってその理想とする国の名を、イーハトーブと名づけた。宮沢賢治が晩年に花巻の鳥谷ヶ崎(とやがさき)神社の「花巻祭」を詠んだ歌。

 ○方十里、稗貫の(みか)も稲()れて、み祭り三日、空晴れ渡る  宮沢賢治

 「方十里」とは田園地帯を賞賛した表現なのだらうが、「方八町」といふのは、延暦二一年(802)に坂上田村麻呂が築いた胆沢(いさは)城(水沢市)の異称である。田村麻呂は、翌二二年(803)には志波(しは)城を築城してゐる。

 上閉伊郡吉里吉里(きりきり)村(現大槌町)は船越湾(吉里吉里湾)に臨む村だが、戦後の井上ひさしの小説では東北弁を国語とするユートピア「吉里吉里国」の首都とされてゐる。



志賀理和気神社(赤石神社)

紫波郡紫波町

 延暦二三年(804)に坂上田村麻呂が、東北開拓の守護神として香取、鹿島の二神をまつったとされるのが、日本最北の延喜式内社・志賀理和気(しがりわけ)神社であり、紫波郡紫波町桜町に鎮座する。境内には三尺余の赤石があることから、通称「赤石神社」ともいふ。

 ○今日よりは紫波と名づけん。この川の石に打つ波、紫に似て   斯波孫三郎詮直

 江戸時代の南部三三代藩主の歌。

 ○御社はとまれかくまれ、志賀理和気、我が十郡の国のみをさき  南部利視

 東北地方には、田村麻呂が創建したといふ神社仏閣は多い。『御伽草子』の話では、田村麻呂の母は、陸奥国はつせ郡田村郷(福島県田村郡)の賤女(下級巫女)だといふ。田村麻呂伝説の流布には、日本の多くの伝説がさうであるやうに、さうした職業の人々の介在が想像される。



理久古多の神

大船戸市赤崎

 延喜式の気仙郡の小社に理訓許段(りくこた)神社の名があるが、陸前高田市の氷上神社のことともいひ、大船戸市赤崎の尾崎神社ともいふ。この尾崎神社に伝はる歌に「理久古多の神」の言葉があり、地方の古い神なのだらう。尾崎神社の神宝はアイヌのイナウ(枝を削った幣)だといふ。(谷川健一・白鳥伝説)

 ○理久古多の神にささげし稲穂にも、えぞの手振りのむかし思ほゆ 尾崎神社神詠

 釜石にある同名の尾崎神社(御崎明神)は、源為朝が伊豆大島に住んだ時の子の為頼が、閉伊頼基と名のって上閉伊郡に移住して、没後に祀られたものといふ伝説もある。



衣川・平泉

 平安初期、北上川の支流の衣川付近に、朝廷による関や館が設けられたといふ。

 ○もろともに立たましものを、陸奥の衣の関を余所(よそ)に聞くかな  和泉式部

 その後この地方は豪族の安倍氏の全盛期を迎へた。前九年の役で源義家が奥州平定に赴いたとき、衣川の柵で安倍貞任と対峙し、連歌を交した。

 ○衣のたてはほころびにけり/年を経し糸の乱れの苦しさに   源義家/安倍貞任

 安倍氏が敗れて滅んでのち、出羽の清原氏が勢力を広げた。清原氏の内紛が起ると、源義家が再び奥州に赴き、これを平定した(後三年の役)。このとき義家に味方したのが、清原清衡である。清衡は姓を元の藤原に戻し、母や妻の出た安倍氏の故郷に近い平泉に居を構へ、東北の牧馬や砂金などを掌握してこの地方を統一して、地方文化の繁栄を極めた。奥州藤原氏である。氏寺の中尊寺は、数百名の僧が営む大規模な寺だったといふが、源頼朝の奥州平定により、当時の繁栄を伝へるのはほとんど金色堂のみとなった。

 平泉に逃れてかくまはれた源義経が、藤原泰衡の攻撃を受けて自害するときの歌。

 ○六道の道のちまたに待てよ君、後れ先立つならひありとて   弁慶

 ○後の世もまた後の世もめぐりあへ、()む紫の雲の上まで    義経(義経記)

  ◇

 ○涙をば衣川にぞ流しつる、古き都を思ひ出でつつ       西行

 ○夏草やつはものどもの夢の跡                芭蕉

 ○時うつり人亡び失す。いみじくも金色堂をいとなみにける   佐々木信綱



横山の禰宜

宮古市宮町 横山八幡宮

 平安時代の寛弘三年(1006)、阿波の鳴門が突然鳴動し、怒涛逆巻く天変地異が起こった。時の一条帝は諸国に募ってこれを鎮める者を捜した。横山八幡宮の禰宜も、日夜祈祷をして、一首の御神歌を得て、さっそく阿波の鳴門に赴いた。

 ○山畠に作りあらしのえのこ草 阿波の鳴門は誰かいふらむ   (御神歌)

 (山畑に作ったえのこ草は粟に似てゐるが、粟が成ると誰が言ふだらう)

 御神歌を詠じると、たちまち怒涛は止み、静かな海にもどったといふ。和泉式部が禰宜の宿を訪れてこの歌を真似、式部が詠んで鎮めたともいふ。ともかく、帝は波静かとなったことを喜ばれ、この地方に「宮古」といふ地名を賜ったといふ。宮古には猿丸太夫の伝説もあり、横山の禰宜は地方有数の歌道の名門だったらしい。

 宮古は、源義経が衣川から落ちのびて来た地ともいひ、東北各地には同様の伝説が多い。



不来方城(盛岡城)

盛岡市

 南部藩は、三戸(さんのへ)の南部信直が、豊臣秀吉の天下統一に協力して以来の藩で、徳川家康の統一のころ盛岡城を築城して南部藩の首都とした。盛岡城は不来方城ともいふ。

 ○不来方(こずかた)のお城の草に寝ころびて、空に吸はれし十五の心     石川啄木

 石川啄木は岩手郡玉山村渋民に生まれた。

 ○かにかくに渋民(しぶたみ)村は恋しかり。おもひでの山。おもひでの川   石川啄木



岩手山 ちゃぐちゃぐ馬こ

岩手郡

 岩手山麓の滝沢村の駒形神社では、旧暦五月五日に、農耕馬を衣装で飾り、幼児を乗せて行列を組んで参詣する「ちゃぐちゃぐ馬こ」の行事がある。二百年の歴史があるといひ、馬の産地らしい田の神の祝福行事なのだらうが、民謡の「ちゃぐちゃぐ馬こ」は昭和三十年代に新作されたものである。お山とは岩手山のこと。啄木の歌も同じ。

 ○馬こ嬉しか、お山へ詣ろ、金の(くつわ)に染め手綱          小野金次郎作詞

 ○ふるさとの山に向ひて言ふことなし。ふるさとの山はありがたきかな 石川啄木

 滝沢村にある岩手山神社(岩手権現、田村神社)は、坂上田村麻呂将軍が、岩手山に立て篭った賊・赤頭の高丸を討伐したときの御陣小屋の跡にまつられたといふ。登山のときには「田村の権現、野木の王子」と唱へるといふ。



早池峰山

遠野物語

 むかし女神があり、三人の娘とともに早池峰の高原に来て、来内(らいない)村の伊豆権現の社で宿をとった。その夜、母の神は、「今夜よい夢を見た娘に、よい山を与へませう」と語り、皆で寝た。その夜更けに天から霊華が降って、姉の姫の胸の上に舞ひ降りた。末の姫は、眼が覚めてこれを見て、内緒で霊華を取って、自分の胸の上に載せた。それで末の娘は一番美しい早池峯の山を得て、姉たちは六角牛(ろっかうし)山と石神山を得た。三人の姫神は今も三つの山に住んでゐる。遠野の女たちは姫神たちの嫉妬をおそれてこれらの山に遊ぶことはないといふ。(遠野物語より)

 ○冬ちかみ、あらしの風と、はやちねの山のかなたや時雨そめけむ 菅江真澄

 早池峰の神は岩手山の妻だが、玉山村の姫ヶ岳(姫神山)が本妻だともいふ。

 遠野地方は、明治の末に柳田国男が「遠野物語」で紹介して以来、昔話の里として全国に知られるやうになった。「遠野物語」の序文の端に記された歌。

 ○翁さび飛ばず鳴かざる、をちかたの森のふくろふ笑ふらんかも  柳田国男



沢内甚句

和賀郡沢内村

 和賀川上流の沢内盆地は米の産地として知られる。沢内村には、江戸時代に年貢を納めることができなかった庄屋(名主)が娘のおよねを領主に差し出して、免除してもらったといふ話がある。およねは、およね地蔵尊にまつられてゐる。

 ○沢内三千石お米の出どこ、桝ではからねで箕(身)ではかる   沢内甚句

 およねを歌った沢内甚句はこの地方の盆踊唄である。年貢が納められなかったのは飢饉が原因だといふが、盆地の複雑な地形に作られた隠田の問題やらがあったのではないかと思ふ。沢内産の米は、南部牛を飼ひ慣らす牛方(うしかた)によって運ばれ、南部牛追唄に同じ歌詞が唄はれる。