中将実方朝臣

名取市笠島

 平安時代、藤原摂関家に生まれた藤原実方は、誤解を受けやすい奇行の人で、藤原行成との口論を一条帝に咎められ、しばらく陸奥に左遷されることになった。すぐに許されたのだが、京へは帰らず、阿古耶(あこや)の松(山形県の項参照)の故事を尋ねてその所在を探し歩いたといふ。塩釜神社で白髪の老人に所在を教へられ、すぐさま馬を急がせたが、笠島(名取市)の道祖神の前で急に馬が荒れ狂ひ、馬から落ちて死んだといふ。永祚十年(998)のことで、実方はこの地で葬られ、「中将実方朝臣の塚」が現存する。辞世の歌といはれる歌がある。

 ○桜がり雨は降りきぬ。同じくは濡るとも花の陰にかくれむ     藤原実方

 ○みちのくの阿古耶の松を訪ねわび、身は朽ち人になるぞかなしき  藤原実方

 (右の一首は武田静澄『日本伝説の旅』による)

 のちに実方の塚を訪れた西行の歌。

 ○朽ちもせぬその名ばかりを留め置きて、枯野のすすき形見にぞ見る 西行

 東日本では、農作物に被害をもたらす雀は、実方朝臣の亡霊が化したものだともいはれる。小正月の鳥追行事で東日本の子供たちが歌った歌がある。

 ○おいらが裏の早稲田の稲を、なん鳥がまぐらった。
   雀、スワドリ立ちやがれ。ホーイ、ホーイ
    頭切って尾を切って、俵につめて海へ流す