古四王神社
古四王神社の社記によると、崇神天皇の御代に四道将軍の一人として北陸道を平定した大彦命が、武神である
○広前の雪の白木綿、そのままに手向くる
秋田山形新潟地方などには、「こし王」(古四王、巨四王、越王)の神が広くまつられてゐる。江戸時代に佐竹藩は久保田城に城を移した。古四王神社近くには護国神社が創建された。
錦木
古代の陸奥国(東北地方全域)では、男が女に求婚するとき、一束の薪を毎日女の家の門に立てたといふ。この薪は彩色して飾りたてることから錦木といった。女は、逢ふべき男のものは取り入れるが、さうでない男のものはそのまま置く。男は、千束になるまで、つまり三年続けてだめなら諦めるといふ。
○錦木は
女は、結婚のために、鳥の羽で細布を織って待つ。この布は幅が狭くて短いので、背中は覆ふが前で合せることができず、下着として着るのだといふ。
○錦木は立てながらこそ朽ちにけれ。今日の細布、胸合はじとや
許されなかった恋のために、三年錦木を積んだ末に自ら命をたった男を葬った塚の中で、女が閉ぢこもって細布を織ってゐるといふ伝説もある。(謡曲・錦木)
○錦木のふることしのぶこの夕べ、秋風さむし、
鹿角市十和田毛馬内のほか、各地に伝承地がある。
田沢湖
○吹けや
田沢湖町の
田沢湖は大昔は小さな泉だったといふ。むかし村の少女たちが春の草を採りに山で遊んだとき、村一番の美しい少女の辰子姫(
○わしとお前は田沢の潟よ、深さ知れない御座の石 生保内節
八郎潟の主の八郎太郎が、田沢湖の辰子姫のもとに通ったとき、燃えかけの
ふき姫
○秋田の国では、雨が降っても唐傘などいらぬ、
手ごろのふきの葉さらりと差し掛けさっさと出てゆくわい 秋田音頭
むかし秋田の仁井田の里が、まだ深い森で覆はれてゐたころ、村長の家に、ふき姫といふ一人娘があった。ある年、村長は重い病に臥せり、ふき姫は必死の看病を続けてゐたが、病状は一向に良くならなかった。そんなとき、ふき姫は、仁井田の森の泉のことを思ひ出した。あの泉の水は、どんな病にも聞くといふ。しかし森には、女は近づくなといふ掟があったのである。その年の秋の夜、父の病さへ治れば自分はどうなってもよいと、ふき姫は意を決して水瓶を持って森に出かけた。森をさまよひ、やうやく泉を見つけて、ふき姫が水を汲まうとすると、案の定、泉の底から白い大蛇が現はれ、水は渦となって巻き上がり、ふき姫のからだを飲み込んで行った。
その夜、里に大雪が降り、一足早い冬がやって来た。父は行方不明となったふき姫の身を按じてゐたが、病は日を追って快復して行った。やがて春が来て、父が泉を訪れたとき、泉のそばに見慣れた水瓶を見つけて、父は声を上げて泣いたといふ。永く妻を得ることのできなかった白蛇の祟りは、消え去ったのである。
そのとき泉の畔に、雪の中から顔を出した小さな花は、「ふき」と名づけられ、このときから里に春をもたらす花となった。成長した秋田のふきは人の背丈よりも伸び、食用になって村人の餓ゑを癒し、またせき止め、血止めの薬としても他村にも知られるやうになった。
平田篤胤
国学者の平田篤胤は、晩年に幕府に疎まれ、故郷の秋田藩に帰った。そのころの歌。
○張る弓を放ちもあへず、秋の田にまた立つ足もなき
秋田市の
かまくら
雄物川中流の横手盆地は、太古には湖であったことが地質学によって証明されるといふ。横手地方を中心に秋田県各地に見られる小正月の子供の行事に、かまくらがある。
○城に灯が入りかまくらも、ともるなり 大野林火
象潟
○象潟や雨に