伊勢国
神武天皇の大和入りの後、天皇の命を受けた
伊勢津彦は信濃国水内郡へ遷ったともいふ。度会氏は豊受神宮(外宮)の禰宜である。
○
右の歌は伊勢神宮の内宮と外宮の千木の片削の向きが異なることを詠んだもの。
伊勢神宮
○蓬莱に聞かばや伊勢の初便り 芭蕉
○神風の伊勢の浜荻、折りふせて旅寝やすらん。あらき浜辺に 新古今集
○天照す月の光は、神垣やひくしめ縄の内外ともなし 玉葉集
○神風や。二つの宮のみや柱。一つ心に世を守るらし 達智門院
伊勢詣り
○春めくや人さまざまの伊勢まゐり 荷けい
徳川時代には全国的に伊勢参りが盛んになった。中でもほぼ六十年に一度、数百万人が移動したといふ「お蔭参り」の年は、宿などの施しがあったお蔭で少ない費用で旅ができたといふ。関東東北では、犬の首に「伊勢参宮」と書いた袋を下げて初穂料を入れておくと、旅人たちの親切によって犬は伊勢まで歩き、神宮で袋におふだを入れてもらって故郷に帰ることができたといひ、「犬の伊勢参り」といはれた。
普通は、村の代表が村の費用で代参して「大神宮様」または「おはらひ」と呼ぶおふだを村の戸数ぶんだけいただいて帰った。組織的にも村祭の延長上の行事であり、村の鎮守社の前では、村に残った者が、代参者の旅の無事を毎日祈った。代表に選ばれた青年たちにとっては、参宮の旅は、村の成人儀礼を兼ねる場合もあった。諸国の一宮は必ず詣で、民衆の教養ともなっていった。
また伊勢からは御師と呼ばれる旅の神職が村々を訪れておふだを広めた。かうして大神宮様のおふだは、江戸時代から全国民くまなく行き届いてゐた。現在でも多くの国民が年末に鎮守社を通しておふだを受けてゐる。
伊勢音頭
○伊勢は津でもつ津は伊勢でもつ、尾張名古屋は城でもつ 伊勢音頭
伊勢音頭に唄はれる「津」とは、港町としても栄えた伊勢市の港のことである(県庁所在地の津市のことではない)。伊勢音頭は、二十年に一度行はれる式年遷宮の御用材を運ぶときの木遣り唄から起こったといふ。それが古市などの花街での座敷唄になり、伊勢参りの道中唄にもなって、その曲や節は全国各地に持ち帰られ、諸国の民謡に影響を与へたといふ。
伊勢音頭の元歌は、伊勢の
○いにしへのお杉お玉が面影をうつせし女の
志摩国
太古に伊勢国と三河国の間の海に大きな島があり、志摩国といったが、島がほとんど海中に没したために、伊勢国の東を分割して志摩国としたとの伝説もある。
○旅ごころもろくなり来ぬ。志摩のはて安乗の崎に燈の明り見ゆ 釈迢空
「
松阪の一夜
本居宣長は伊勢松阪の木綿問屋に生まれたが、十一歳で父を亡くし、医学を志した。小児科を開業するかたはら、賀茂真淵らの歌学や国学にも親しんでゐた。宝歴十三年(1763)に、松阪の旅館に真淵を訪ねたことは、「松阪の一夜」として知られる。このとき既に万葉研究の業績をあげてゐた真淵は、宣長に古事記の研究を強くすすめた。以後三十五年をかけて『古事記伝』が完成される。古来の日本のこころを窮めようとした学問は、国学と呼ばれた。寛政二年に還暦を迎へた本居宣長の歌。
○敷島の やまと心を人問はば、朝日に匂ふ山さくら花 本居宣長
宣長は享和元年に没したが、前年に遺書をしたため、墓地は伊勢湾を東に望む山室山とし、葬式の細かなやりかたまで書き記してあったといふ。
○今よりは、はかなき世とは嘆かじよ。千代の棲家を求め得つれば 本居宣長
○なきからは何処の土に成りぬとも、魂は翁のもとに往かなむ 平田篤胤
おほをそどり
雄烏を失った雌烏が、巣を捨てて他の雄と飛び回ってゐるうちに、卵を腐らせてしまふ。それを見てゐた伊勢の郡司は歌を詠んで出家する
○烏とふおほをそ鳥の心もてうつし人とは何名告るらむ
隼総別王と雌鳥王
仁徳天皇のころ、謀反の疑ひをかけられた
○
古事記では、二人は、宇陀郡の
若宮八幡神社は、雲出川の水源地に鎮座し、仁徳天皇と
○今朝汲む水は福くむ水くむ宝くむ、命長くの水をくむかな
◇
天武天皇のころ、皇女の十市皇女が伊勢神宮へ参拝したとき、雲出川の下流の八太といふところ(一志町)で、従者が詠んだ歌。
○川上の
藤原千方の反乱
天智天皇の御代に、伊賀・伊勢の二国で、藤原
友雄は、和歌を書いた紙を矢につけて射たといふ。
○土も木も我が大王の国なるを、いづくか鬼のすみかなるらん 紀友雄
すると四鬼はこれを読んで、己が住むべき国ではないと、たちまち本物の鬼に化生して、奈落に落ちたといふ。その穴の跡は今も四つ残ってゐて、四つとも風が吹き抜け、どこかでつながってゐるらしい。今の名賀郡青山町付近だといふ。
首謀者の藤原千方は、
この地方では節分に「鬼は外」とは言はない。鬼は人と神の仲取り持ちをする眷族とされるからで、伊勢・伊賀地方では鬼に関はる行事も多いといふ。
阿漕が浦
○逢ふことを阿漕の島に曳く鯛のたびかさならば、人も知りなん 古今和歌六帖
○伊勢の海、阿漕が浦に引く網もたびかさなれば人もこそ知れ 源平盛衰記
また、阿漕の平太といふ漁師が、母の難病にきくといふ魚をこの海で取ったために、殺されたといふ浄瑠璃の話もある。「阿漕」といふ言葉は、憐れさを離れて今はしつこく貪欲なことをいふやうになった。
鈴鹿山
近江から伊勢に抜ける鈴鹿山は、平安初期には、逢坂、不破とならぶ三関の一つとされた。難所と知られ、たびたび山賊が出没し、坂上田村麿の山賊退治の伝説もある。
○鈴鹿山うき世をよそにふり捨てて、いかになりゆく我が身なるらむ 西行
○坂は照る照る鈴鹿は曇る、あひの土山雨が降る 鈴鹿馬子唄
鈴鹿郡関町は、古代の鈴鹿関のあった地で、東海道の宿場町としても栄えた。参宮街道へも通じてゐた。関町の深川屋の「関の戸」といふ菓子を詠んだ歌がある。
○ふりし名をここにとどめて鈴鹿山、世に音高き関の戸の餅 加茂秀鷹
尾津の一つ松
日本武尊が東征に出たとき、尾津崎の松の木の下で食事をされ、松の木に太刀をかけてそのまま置き忘れて出発した。帰還のとき、再びこの地に立寄ると、松の木にかけた剣が、そのままあるのを御覧になって、感じ入って歌を詠んだ(古事記)。
○尾張に
一つ松人に在りせば 太刀
日本武尊の終焉地となった
○はしけやしわぎへの方ゆ雲居立ち来も 日本武尊
猪田神社
社殿の東方にある真名井は、垂仁天皇の皇女・倭姫命が、伊勢神宮の鎮座すべき地を求めて、天照大神を奉じて神戸の穴穂の宮に滞在されたときに掘られた深い井戸で、「天の長井」ともいふ。この水を浴びれば諸病に効能ありといふ。
○すむ
○久かたの天の長井田くむ
射手神社
○あづさ弓、引きし袂もちからなく、射手の社に 墨染の袖 西行法師
芭蕉
松尾芭蕉は今の上野市赤坂町に生まれた。父は阿山郡柘植郷(伊賀町)の人といふ。
○古里や臍の緒に泣く年の暮れ 芭蕉
○山里は万歳遅し梅の花 芭蕉
同郷の弟子の服部土芳の新しい庵を訪れて、芭蕉が詠んだ句。
○みの虫の音を聞きに来よ草の庵 芭蕉
服部は、右の師の句から蓑虫庵と名づけ、土芳と名告ったといふ。
○さを鹿のかさなり臥せる枯野かな 土芳
土芳は服部家に養子に入ったのだが、服部氏とは、阿拝郡服部郷に興った氏族で、服部半蔵などとも無関係ではないのだらう。柘植を名告る忍者も多い。
○限りなく思ふ心をつげの山、やまくちをこそたのむべらなれ 松葉集
名賀郡
名賀郡青山町には四鬼の伝説がある(前掲、藤原千方の反乱)。青山町
江戸川乱歩は名張市新町の出身。
○うつし世は夢よるの夢こそまこと 江戸川乱歩
種まき権兵衛
旧紀伊国北牟婁郡の上村権兵衛は鉄砲の名人で、畑ももってゐたが、おもに山で狩りをして暮しを立ててゐた。あまり畑に出ないものだから、子どもの歌に歌はれた。
○権兵衛が種まきゃ烏がほじくり……
そのころ天倉山に大蛇が住み、村の畑や家畜を荒らした。権兵衛は村のために鉄砲をもって山に入った。権兵衛の笛の音に誘はれて大蛇が現はれると、権兵衛は蛇ののどもとに二発三発と鉄砲を撃ち、大蛇は息絶えた。権兵衛はこのとき蛇の毒気にあてられたのがもとで、病気になり、元文元年(1736)に大往生をとげたといふ。