真清田神社

一宮市

 一宮市の真清田(ますみだ)神社は、尾張氏の祖神・火明命(ほあかりのみこと)をまつる尾張国の一宮とされる。

 むかし赤染衛門の夫の大江匡衡が、尾張守として赴任してゐたころ、尾張国で何かの理由により里人らが腹を立てて種を蒔かずに干してゐた。赤染右衛門が真清田神社に歌を献納すると、農民は田作りにもどったといふ。

 ○(しづ)()の種ほすといふ春の田を作りますだの神にまかせむ     赤染衛門集

 川の洲だった地に開墾された田に蒔かうとしたのだらうか。



玉の井の霊泉

葉栗郡木曽川町玉の井 加茂神社

 木曽川町の加茂神社の境内に、古代からの清水があり、「玉の井の霊泉」といふ。聖武天皇が光明皇后の病気平癒のためにここに神宮寺を建てたといふ。

 ○思ひつや。みたらし川にせしみそぎ。忘れぬ袖の玉の井の里    飛鳥井雅経

 ○汲み見れば、遠きむかしのおもかげは、心にうつる玉の井の水   秋隆



阿波手の森

海部郡甚目寺町上萱津

 むかし陸奥信夫(しのぶ)の里の藤姫は、京にゐる父を尋ねて、夫とともに尾張の萱津の宿まで来たが、病のために死んだといふ。十六才であった。後日ここへ京の父が訪れて供養したが、逢ふことができなかったことから、以来「あはでの森」といふ。

 ○忘るなよ。我が身消えなば、後の世の暗きしるべに誰を頼まん   藤姫

 ○嘆きのみ繁くなりゆく我が身かな。君にあはでの森にやあるらん  相模



琵琶が池

愛知郡西枇杷島町

 むかし藤原師長(もろなが)といふ人が、無実の罪で、愛知郡井戸田の里(名古屋市瑞穂区)に流されて来た。師長は、なにごとも諦めた寂しい暮らしの中で、琵琶を弾くことだけが慰めだった。そのうちに里長(さとをさ)の娘の横江(よこえ)と親しくなり、結婚しようとも思った。そんなとき都から使ひが来て、無実の罪が晴れたので都に戻るやうにとのことだった。師長は横江のことで悩んではみたが、けっきょく形見の琵琶を横江に預け、都へ去って行った。悲嘆した横江は、師長の後を追ひかけたが、枇杷島(ひ ば しま)川まで来て、届かぬことと悟り、歌を詠んで川の傍らの池に身を投げて死んだ。

 ○よつの緒の調べあはせて三つ瀬川、沈み果てしと君に伝へよ    横江

 横江の胸には、形見の琵琶がしっかりと抱かれてゐたといふ。いつしかその池は、琵琶が池と呼ばれるやうになった。横江は小場塚村(西枇杷島町小場塚)の琵琶塚に葬られたといふ。藤原師長は琵琶の名手で、保元の乱に関って土佐へ配流ともなった。



熱田

名古屋市熱田区

 熱田の西にあった入江を愛知潟といった。アユチは東風の意味である。

 ○愛知潟、潮干にけらし。知多の浦に朝漕ぐ舟も、沖に寄る、見ゆ  万葉集

 ○桜田へ鶴鳴き渡る。鮎市潟潮干にけらし。鶴鳴き渡る       高市黒人

 熱田から東南の入江は、鳴海潟といった。

 ○浦人の日の夕暮になるみ潟、帰る袖より千鳥啼くなり       通光

 むかし日本武(やまとたける)尊の東征のとき、熱田の尾張国造家を宿とし、国造の娘の宮簀姫(みやずひめ)と夫婦の契りをした。そして熱田を出た日本武尊は、船で鳴海潟を渡って行ったといふ。

 ○鳴海らを見やれば遠し、直楫(ひたかぢ)にこの夕潮に渡らへむかも      熱田大神縁起

 大高村(名古屋市緑区)の火上姉子(ひかみあねこ)神社は、宮簀姫をまつる。大高は古代には日高といったといふ。右の歌の直楫は日高路とも読めるが、東路の意味かもしれない。日本武尊がのちに甲斐の酒折宮で宮簀姫を偲んで詠んだといふ歌もある。

 ○愛知潟、火上姉子は吾こむととこさるらむや、あはれ姉子を    熱田大神縁起

 伊勢国で世を去った日本武尊は、白鳥となって熱田の地に飛来したといふ。名古屋市熱田区白鳥町に白鳥塚がある。

 ○敷島の大和恋ひしみ、白鳥の翔りいましし跡処これ        本居宣長

 日本武尊の草薙の剣をまつったのが熱田神宮である。



熱田の二十五丁橋

名古屋市熱田区

 ○宮の熱田の二十五丁橋で、西行法師が腰を掛け、東西南北眺むれば、

   これほど涼しいこの森を、誰が熱田と名を付けた。       名古屋甚句

 西行法師が出家して東国の旅に出たとき、夏のある日、熱田の二十五丁橋のたもとまで来て休息をとり、歌をよんだ。

 ○かくばかり木陰すずしき宮立ちを、誰が熱たと名づけ初めけむ   西行

 するとどこから歌が返ってきた。

 ○やよ法師、東の方へ行きながら、など西行と名告り初めけむ

 西行はきまり悪さうにして、そそくさと立ち去ったといふ。この橋は、二十五枚の石板を並べた太鼓橋で、神宮をめぐる堀にかけられてゐた。

 ○ます鏡てる日の影も知らぬまで、熱田の森は繁らひにけり     海量



神戸節

名古屋市熱田区

 寛政の頃、熱田神宮の門前の神戸(かうど)町に私娼がおかれ、女たちを「おかめ」といった。

 ○おかめ買ふ奴ぁあたまで知れる、油つけずの二つ折り。

  そいつはどいつだ、どどいつどいどい、浮世はさくさく

 この歌は神戸節と呼ばれ、江戸でも大流行した。この歌をヒントに都々逸坊扇歌は「どどいつ」を完成させたといはれる。今の名古屋市熱田区伝馬町が、神戸節発祥の地とされる。



野間の長田親子

知多郡美浜町野間

 平治の乱に敗れた源義朝は、東国へ下向の途中、野間に住む臣下の長田忠致の館を宿とした。しかし義朝は湯殿に入ったところを、長田に謀殺された。長田の親子は義朝の首を都の平氏に献上して褒賞を乞うたところ、主君を裏切った者が信用されるはずもなく、壱岐守を与へられただけだった。義朝の遺児、頼朝の挙兵後は、昔を詫びて家来にしてもらったが、そのとき頼朝は「手柄あらば美濃尾張を与へん」と言った。平氏を滅ぼしてのち、頼朝は父の供養のため野間の大御堂寺に七堂伽藍を寄進した。このとき長田親子を捕へてかう言った。「身の終りを与へん」。かうして長田親子は張付けにされて処刑されたといふ。長田親子の辞世の歌といふのがある。

 ○長らへて命ばかりはいきのかみ、みのをはりをば今ぞ給はる    長田親子



織田信孝

知多郡美浜町野間

 本能寺の変ののち、信長の後継争ひに敗れた織田信孝は、羽柴秀吉に追ひ詰められ、岐阜城を捨てて、尾張の内海を経て野間まで敗走して、辞世の歌を残して自刃した。(天正十一年)

 ○昔より主をうつみの野間なれば、報いを待てや。羽柴ちくぜん   織田信孝

 野間は、源義朝が逆臣の長田親子に殺害された地でもあった。信孝が割腹して腸を投げ付けたといふ掛軸は、梅の花を描いたもので、安養院に伝はるといふ。

 ○主を切り聟を(ころ)すは美濃尾張(身の終り)昔は長田今は山城

(長田=長田長致は女婿の源義朝を謀殺した。山城=斎藤山城守道三の国盗りを指す)





八橋

知立市八橋町

 伊勢物語の主人公が東下りのとき、三河国の八橋といふところを通った。川が蜘蛛の手足のやうに複雑に流れて、橋が八つ架かってゐるので、八橋といふらしい。杜若が多く咲いてゐたので、「か、き、つ、ば、た」の五文字を五句の始めに置いて、旅の心を詠んだ。

 ○から衣、きつつ馴れにし、つましあれば、はるばる来ぬる たびをしぞ思ふ

 主人の歌に一同は涙にかきくれたといふ。

 八つの橋がどのやうな配置で架かってゐたかは不明だが、尾形光琳は「八橋屏風絵」に折れ曲って互ひ違ひに架かる八枚の板橋を描いた。

 ○来ぬ人をまつやつ橋の食ひ違ひ 元禄ごろの川柳



犬頭糸伝説

安城市

 安城市の矢作(やはぎ)川の西岸地域を、もと藤野郷といひ、藤の名所でもあり、絹糸の産地として知られた。

 ○紫の糸くりかくと見えつるは、藤野の村の花盛りかも      宗国 夫木集

 むかし三河国の郡司に新しい妻ができたので、古い妻の家には通はなくなった。古い妻の家はそのころから貧しくなり、飼ってゐた蚕も一匹を残して皆死んでしまった。残りの一匹さへも白犬に喰はれてしまったが、虫一匹のために犬を叱りつけるべきでないと、ただ悲しんでゐると、犬の鼻の穴から二本の糸が出てきた。引いても引いても糸は出てきて、十束、百束と増え、四五千束になったときに犬は死んだ。妻は桑畑に犬を葬って祠を建ててまつった。その糸は白く輝き、この世のものとは思へぬ美しい糸で、都に献上されて天皇の装束に織られたといふ。郡司も元の妻のところに戻り、幸福に暮らしたといふ。(今昔物語)

 犬をまつった祠が、犬頭神社(岡崎市上和田町)となったらしい。



浄瑠璃姫

岡崎市明大寺

 むかし源義経が奥州下向のとき、三河国の矢作(やはぎ)長者の家の近くを通ると、夕暮にどこからか美しい琴の音色が聞えてきた。琴の音にあはせて義経が笛を吹きながら歩いて行くと、長者の娘、浄瑠璃姫の家の窓の下に行き着いた。姫は義経を部屋に導き入れ、いつまでも曲を和してゐたが、翌朝、義経が旅立つとき、再会の約束に「薄墨」と名づけたその笛を姫に預けて別れた。しかし義経は奥州衣川で戦死し、その知らせを聞いた浄瑠璃姫は、菅根川に身を投げて死んだといふ。この話が「浄瑠璃物語」として語られ、浄瑠璃の起源となった。

 ○笛の音は垣根ごしから問薬(とひぐすり)       (川柳)



奥三河

 南設楽郡鳳来町の鳳来寺に、むかし矢作長者が子授けの願掛けをすると、薬師瑠璃光如来が白鹿となって現はれ、珠を授けた。月満ちて生まれたのが浄瑠璃姫であるといふ。浄瑠璃姫は、白鹿の子なので足の指が二本しかなく、母は足袋を考案して姫にはかせたといふ。

 北設楽郡の花祭は、霜月神楽ともいひ、もと旧暦十一月に行なはれ、翌年の豊作を予祝するものといふ。花山院の御霊をとむらふともいふ。

 ○熊野山、切目が森のなぎの葉をかざしになして御前まゐるら    神詠

 ○いやはてに鬼はたけびぬ。怒るときかくこそ古へびとはありけり  釈迢空



姫街道

豊川市御油

 東海道は、豊川市御油(ごゆ)の先で、浜名湖の南の海路を通る東海道と、北の山路を通る姫街道が別れる。ある特定の場所で男女が別の道を行くのは、古代からある習俗で、ここの道を古くは「二見の道」と呼び、万葉歌にもある。

 ○(いも)も吾も一つなるかも。三河なる二見の道ゆ別れかねつる     高市黒人



引馬野

飯郡御津町

 三河湾(渥美湾)にのぞむ宝飯郡御津町御馬の引馬神社の付近を「引馬野(ひきまの)」といったらしい(引馬野は静岡県浜松市付近ともいふ)。大宝二年十月、持統上皇の三河行幸に従った長奥麻呂の歌に詠まれる。

 ○引馬野(ひきまの)に匂ふ榛原(はりはら)、入り乱れ、衣匂はせ。旅のしるしに      長奥麻呂

 このときの持統上皇の行宮は、少し内陸へ入った音羽町赤坂の宮道天神社の地に建てられたといふ。亡くなった皇子の草壁皇子が滞在したことのある地であるらしい。

 同じ行幸の時に高市黒人の詠んだ歌。

 ○いづくにか船泊てすらむ。安礼(あれ)の崎漕ぎ()み行きし棚無し小舟   高市黒人

 この行幸の二か月後に持統上皇は崩御されてゐる。



諸歌句

 ○鷹一つ見つけてうれし伊良虞崎                 芭蕉

 ○名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ……         島崎藤村