奴奈川姫

頚城郡

 むかし大国主神が越の国の頚城(くびき)郡に来たとき、この土地を「国中の日高見(ひだかみ)の国なり」といひ、土地の奴奈川姫の神と結婚した。姫は居多(こた)の浜の西の躬論山(今の岩戸山)で、健御名方(たけみなかた)神(諏訪の神)を生んだといふ(新井市の斐太神社由緒による)。または黒姫山の洞窟で生んだともいふ。奴奈川姫は糸魚川の神ともいひ、翡翠にたとへられる美しい姫である。

 ○渟名(ぬな)川の底なる玉。求めて得し玉かも。拾ひて得し玉かも。

   (あた)らしき君が老ゆらく()しも                万葉集



居多神社「片葉の芦」

上越市五智

 上越市付近に、古代の越後国府があったといはれる。大国主命・奴奈川姫・建御名方命(諏訪神)をまつる居多神社は、越後一宮として栄えた。

 ○天の原、雲のよそまで八島守る神や涼しき沖つ汐風       尭恵

 むかし親鸞が越後へ配流となったとき、居多神社を詣でて歌を詠んだ。

 ○末遠く法を守らせ、居多の神、弥陀と衆生のあらん限りは    親鸞

 かう詠んで歌を神前に供へて祈祷すると、境内の芦の葉は、一夜にして片葉になったといふ。今も居多神社の境内には片葉の芦が群生する。片葉の葦は、全国各地で、神に捧げられたり、また神の依代とされ、神聖なものとされ、各地の「七不思議」の一つに取り上げられることも多い。



諸歌

 ○夜の荒川御神輿が下る、川は万燈の迎へ船、祇園ばやしの笛や太鼓で、夜が明ける



初あられ

上越市

 高田地方では、十一月になると時雨がつづき、やがて霰に変る。霰はトタン屋根を心地よい音で鳴らして地表を白い玉でうづめる。この音を聞くと不思議に明るい気分になるといふ。そして冬を迎へる。高田の四月堂の「初あられ」は、大豆に白い糖衣をかけた素朴な豆菓子である。

 ○色香味、越の高田の初あられ、深雪の里にふるあられ、舌を鳴らして召し上がれ

  堀口大学



松山鏡

東頚城郡松之山町

 東頚城郡松之山町に伝はる伝説で、人々がまだ鏡を知らなかった頃の話である。

 桓武天皇の勅命を受けて東夷征伐に赴いた大伴家持は、戦に敗れて帝の怒りを買ひ、都を追はれて、篠原刑部左衛門と名を変へて越後の松之山に隠れ住んだ。妻と娘の京子とともにしばらく暮らしたが、妻は不治の病に倒れ、枕元に娘を呼んで、「母に逢ひたくなったらこの鏡を見るがよい。今よりずっと若い姿でこの中に現はれるから」と言って形見の鏡を授けて、息を引き取った。

 やがて家持は土地の女を後妻に迎へたが、後妻は何かにつけて娘を虐待したので、娘はことあるごとに鏡をのぞきこんでは母と語り合ひ、慰めとした。

 ある日、継母の折檻に耐へかねて、家の外へとび出した娘は、庭の池のほとりで一人水面(みなも)を眺めてゐると、水面に若き母の姿がありありと映って見えた。娘は懐かしさにかられ、母に呼びかけるやうに水面に顔を近づけ、池に身を投げたといふ。この池を鏡が池といふ。

 数年後に東夷を征伐した坂上田村麻呂が、帰途の道すがら家持を訪れた。家持は、庭の池の石橋を見て都を思ひ出し、このとき詠んだ歌が、有名な「かささぎの」の歌だといふ。

 ○かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける    大伴家持

 家持は田村麻呂のとりなしで都へ戻り、継母は尼となって池の畔に庵をいとなんで娘の菩提をとむらったといふ。池の浮島の紅水仙は、鏡に彫られた紅水仙が化成したものといふ。松之山町中尾には、今も鏡が池、お京塚、刑部屋敷跡が残ってゐる。家持が越後に住んだ事実はない。良寛の長歌に、良く似た話があり、土地の名家に生まれた男の話になってゐる。



親不知子不知

西頚城郡青海町

 兄の清盛と対立してゐた平頼盛は、京から越後へ逃れ、五百刈村で落人として暮らしてゐた。京でこの噂を聞いた妻は、二才の子を連れて、越後へ向かって慣れぬ旅に出た。越中を過ぎ、越後の入口に入ると、道は波の打ち寄せる絶壁の下の狭い砂浜だけだった。この浜を、波が引いては進み、波が来ては岸壁に身を寄せて波の引くのを待って進んだが、とうとう波に足をすくはれて、子どもの手が離れ、その子は波に呑み込まれてしまった。そのとき詠んだといふ歌。

 ○親知らず、子はこの浦の波枕、越路の磯の泡と消え行く

 この歌から、越後のこの難所を、親不知子不知といふやうになったといふ。



お光吾作

柏崎市番神

 浪曲「佐渡情話」で知られるお光、吾作は、本名は おべん、藤吉といふ。

 柏崎の藤吉は、佐渡通ひの船頭だった。海が荒れて佐渡に長居をしたとき、おべんと恋仲となった。藤吉が別れを惜しみつつも柏崎へ帰ってから、おべんは、日増しにつのる思ひを堪へきれず、たらひ舟にのり、荒海の中を柏崎へと漕ぎ出した。やがて日が暮れて岬も見失ひ、つひに波に飲まれて帰らぬ人となったといふ。

 ○たらひ舟、荒海も越ゆ、うるたがはず番神堂の灯かげ頼めば    与謝晶子

 柏崎市番神の諏訪神社に、お光吾作の墓と、お光のたらひ舟がある。



出雲崎

三島郡出雲崎町

 三島郡出雲崎町は、良寛の生まれた土地であり、芭蕉が佐渡を詠んだのもこの地である。

 ○荒海や佐渡に横たふ天の川                   芭蕉

 ○たらちねの母が形見と朝夕に佐渡の島べをうち見つるかな     良寛



遊女初君

三島郡寺泊町

 鎌倉時代の末頃、京都の公家社会は持明院統と大覚寺統と呼ばれる二派の対立があった。持明院統は後の北朝につながるものであるが、これに近い京極為兼は、永仁六年(1298)に讒言によって佐渡へ流罪の宣告を受けた。越後に送られて寺泊に滞在し、船で佐渡へ渡ることになったのだが、寺泊の遊女・初君の見送りの歌がある。

 ○物思ひ越路の浦の白波も、立ちかへるならひありとこそ聞け    初君

 為兼は五年で許されて京へ戻り、玉葉和歌集の撰集を手がけた。



弥彦山の周辺

西蒲原郡

 新潟市に鳥屋野潟、東どなりの豊栄市に福島潟が残ってゐるが、新潟は昔は秋田県の八郎潟のやうな大きな潟だったのだらう。地名から想像すると、北の豊浦町から弥彦山の東の月潟村あたりまで入江があり、中ほどの新津市あたりが良い港だったのだらう。弥彦山の南の山を国上(くがみ)山といふが、「くが」といふ地名は、水上から見て目印となるやうな地をいふらしい。

 ○足引の国上(くがみ)の山の山吹の花の盛りにとひし君はも         良寛

 弥彦山の東から東北には越後獅子と毒消売りの本拠地がある。蒲原郡月潟村は、戦後美空ひばりの歌に「笛に浮れて逆立ちすれば」と歌はれた越後獅子の本拠地である。越後獅子は子供ばかりの獅子舞の曲芸で諸国を歩いたが、子供たちは皆普通の農家の子であったといふ。西蒲原郡巻町には宮城まり子の歌に「わたしゃ雪国薬売り」と歌はれた毒消の里がある。こちらは未婚女性による行商で、ゴム紐などの日用品も売り歩いた。

 越後一宮の弥彦神社は、古代からの土地の神である。

 ○弥彦(いやひこ)。おのれ神さび、青雲の棚引く日すら、小雨そぼ降る     万葉集



越後の親鸞

新潟市ほか

 建永二年(1207)親鸞は越後へ配流となった。新潟で親鸞が法話を説かうとしたとき、まともに聞く人もなかった。そこで親鸞は竹の杖を地面に突き刺して歌をよんだ。

 ○この里に親の死したる子はなきか、御法の風になびく人なし    親鸞

 すると杖から根を生じて竹林ができた。挿した杖は下向きだったので、その一本は逆さまの枝をつけたといふ。「西方寺の逆さ竹」といふ(新潟市鳥屋野 西方寺)。

 さて、親鸞が赦免となって越後を去るときの宴の席で、別れを惜しむ里人が鮒を焼いてすすめると、親鸞は鮒を食べずに歌を詠んだ。

 ○わが真宗の御法仏意に叶ひなば、この鮒かならず生き返るべし   親鸞

 そしてその鮒を山王神社の池に投げ入れると、鮒は生き返って泳ぎ出したといふ。(西蒲原郡黒崎村 山王神社)



常安寺の杖梅

栃尾市

 永禄(1558〜70)のころ、寺を開いた門察和尚のところへ、ある日、老翁が入門を乞うてきたので、和尚はそのしるしの書付け(血脈)を授けた。老翁は大喜びで境内を浮かれ廻り、庭の築山のもとに杖を突きさすと、そこから清水が湧き出した。さらに塀のわきに杖を挿して歌を詠んだ。

 ○植ゑ置きし梅の主を人問はば、自ら在ます神とこたへよ

 老翁はそのまま去ったが、自在神とは、菅原天神のことである。翌朝、杖は青葉をつけた梅の木となってゐたといふ。



佐渡の順徳院

佐渡

 承久の変で佐渡へ移られることになった順徳院は、佐渡へ向かふ船の上から、不運にも小刀を海に落とされた。その無念さを御身になぞらへて御歌を詠まれた。

 ○つかの間も身もはなたしと思ひしに、海の底にもさや思ふらん   伝順徳院

 すると竜神があらはれ、院に刀を献じたといふ。

 佐和田町二宮(にくう)の二宮明神は順徳院の皇女の忠子姫をまつるといふ。忠子姫の歌が伝はる。

 ○またも見む、しづが五百機、織りはしのをりな忘れそ、山吹の花  二宮

 ○青柳の糸引き添ふるはた川は、波の綾織るひまやなからむ     二宮



安寿と厨子王と母

佐渡

 安寿や厨子王と生き別れになり、目が見えなくなった母は、佐渡の鹿ノ浦に売られ、気がふれて、毎日悲しげな歌を歌ひながら鳥を追ひかけて暮らしてゐたといふ。

 ○安寿恋しやほうやれほ、厨子王恋しやほうやれほ

   鳥も生あるものなれば、疾う疾う逃げよ追はずとも

 村の子どもが、悪戯に「安寿です、厨子王です」とからかった。母はそれが嘘とわかると、怒って棒きれを振り回した。やがて本当の安寿と厨子王が母の前に現はれたが、母は既にすっかり狂ってしまってゐて、振り回した棒きれが安寿に当たって、安寿は死んでしまった。驚いて正気に戻った母は、厨子王とともに中の川の上流に行き、安寿を葬った。死んだ安寿の涙は、毒になって中の川を流れたといふ。

 ○片辺、鹿の浦、中の水は飲むな、毒が流れる日に三度

 安寿を葬った後、母が金泉村の泉で目を洗ふと、目が開いた。厨子王と母は感謝をこめてここに地蔵を建て、「眼洗ひ地蔵」といはれた。



村雨の松

佐渡

 むかし佐渡の両津にお松といふ美しい女がゐた。両津橋のたもとで夜毎男を惑はしたが、なぜか誰にも肌を許すことはなかった。そこでお松のからだには欠陥があるといふ噂になった。お松といちばん親しくしてゐた番所の若者が、ある晩お松に言ひ寄ると、「そんなに思ってくれるなら、わたしを背負って川を渡ってください」といふので、お松を背負って川に足を踏み入れた。翌朝、若者は川原で死体となって発見された。皆は、お松がからだのことを知られるのを恐れて殺害したに違ひないとささやきあった。

 お盆の祭の日、若者の一団がどかどかと両津橋に来て、お松を担ぎ上げて、橋の上からお松を逆さ落しに川へ投げ入れた。

 ○お松むごいもんだ御番所の橋で、落とす釣瓶の逆落し

 それ以来、御番所の黒松にはお松の霊が宿り、悲しげな泣き声を出したといふ。この声を耳にしたものは必ず橋から落ちて死んだともいふ。いつもしぶきに濡れてゐることから「村雨の松」といふ。



諸歌

佐渡

 林不忘(丹下左膳の作者)は佐渡の生れで、本名は長谷川海太郎といふ。命名のときに父の淑夫が詠んだといふ一首。

 ○たをたをと波にただよへるただ中に生まれし男の子、名は海太郎  長谷川淑夫