遊女初君

三島郡寺泊町

 鎌倉時代の末頃、京都の公家社会は持明院統と大覚寺統と呼ばれる二派の対立があった。持明院統は後の北朝につながるものであるが、これに近い京極為兼は、永仁六年(1298)に讒言によって佐渡へ流罪の宣告を受けた。越後に送られて寺泊に滞在し、船で佐渡へ渡ることになったのだが、寺泊の遊女・初君の見送りの歌がある。

 ○物思ひ越路の浦の白波も、立ちかへるならひありとこそ聞け    初君

 為兼は五年で許されて京へ戻り、玉葉和歌集の撰集を手がけた。