松山鏡

東頚城郡松之山町

 東頚城郡松之山町に伝はる伝説で、人々がまだ鏡を知らなかった頃の話である。

 桓武天皇の勅命を受けて東夷征伐に赴いた大伴家持は、戦に敗れて帝の怒りを買ひ、都を追はれて、篠原刑部左衛門と名を変へて越後の松之山に隠れ住んだ。妻と娘の京子とともにしばらく暮らしたが、妻は不治の病に倒れ、枕元に娘を呼んで、「母に逢ひたくなったらこの鏡を見るがよい。今よりずっと若い姿でこの中に現はれるから」と言って形見の鏡を授けて、息を引き取った。

 やがて家持は土地の女を後妻に迎へたが、後妻は何かにつけて娘を虐待したので、娘は、ことあるごとに鏡をのぞきこんでは母と語り合ひ、慰めとした。

 ある日、継母の折檻に耐へかねて、家の外へとび出した娘は、庭の池のほとりで一人水面(みなも)を眺めてゐると、水面に若き母の姿がありありと映って見えた。娘は懐かしさにかられ、母に呼びかけるやうに水面に顔を近づけ、池に身を投げたといふ。この池を鏡が池といふ。

 数年後に東夷を征伐した坂上田村麻呂が、帰途の道すがら家持を訪れた。家持は、庭の池の石橋を見て都を思ひ出し、このとき詠んだ歌が、有名な「かささぎの」の歌だといふ。

 ○かささぎの渡せる橋におく霜の白きを見れば夜ぞ更けにける    大伴家持

 家持は田村麻呂のとりなしで都へ戻り、継母は尼となって池の畔に庵をいとなんで娘の菩提をとむらったといふ。池の浮島の紅水仙は、鏡に彫られた紅水仙が化成したものといふ。松之山町中尾には、今も鏡が池、お京塚、刑部屋敷跡が残ってゐる。家持が越後に住んだ事実はない。良寛の長歌に、良く似た話があり、土地の名家に生まれた男の話になってゐる。