立山・雄山神社
大宝元年(701)、景行天皇の後裔であるといふ越中国司・佐伯有若の子、有頼少年が山に狩りに行き、白鷹に導かれて熊を追って岩窟に至ると、どこからか神の声が聞えた。「我、濁世の衆生を救はんがため此の山に現はる。或いは鷹となり、或いは熊となり、汝をここに導きしは、この霊山を開かせんがためなり」。この雄山の神の神勅により、開山されたのが立山であり、雄山の神をまつったのが雄山神社であるといふ。有頼少年は末社の若宮にまつられてゐる。
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月訪ひの桜
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大伴家持
大伴家持は、天平十八年(745)から天平勝宝三年(754)までの九年間、越中守として国府(今の高岡市伏木)に赴任し、数多くの歌を残してゐる。国府に近い今の新湊市付近の海を、
○あゆの風いたく吹くらし。
新湊市の
射水郡大門町の豪族の真田家を家持が訪れたとき、真田家は清水川の葦附(海苔のやうなもの)を調理してもてなしたといふ。そのときの家持の歌。
○雄神川。
家持と真田家の娘の深雪の間に生まれた子は、為信といひ、越中大伴氏の初代となった。また、家持とともに赴任した子、明麻呂が家臣とともに越中に残って大伴氏となり、後、北海道へ移ったともいふ。
氷見市周辺には、大伴家持ゆかりの物を御神体とする神社も多い。氷見市大浦の「日の宮神社」は、家持の玉と鏡を御神体とする。大浦は往時「耳浦」といったらしい。
○久米山の木の間さやかに照らせるは耳浦につく有明の月 伝大伴家持
高岡市上牧野には南北朝のころ、宗良親王が三年ほど住んだといふ。有磯海とは越中の沖の広い海をいふ。
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○今はまた訪ひ来る人も奈呉の海に、しほたれて住むあまと知らなん 宗良親王
雀の長者
呉羽山麓・長岡村の雀の長者と、礪波郡別所の七山長者とが、お互ひの財宝の自慢をしあったとき、なかなか勝負がつかないので、宝の隠し場所を当てる賭けをすることになった。二人は謎かけ歌を示した。
○一月また一月、両月ともみな半遍、何ほどの無量のつみかあるとても、
みのほどまゐれ、助けたまふぞ 七山長者
○うるし千杯種千杯、黄金の鶏がひとつがひ、
朝日かがやく夕日さす、みつはうつぎの下にある 雀の長者
雀の長者は、歌の謎を見破られて隠し場所を当てられ、全財産を取られて一夜のうちに滅びたといふ。
山田男と白滝姫
婦負郡山田村に山田温泉がある。昔この村のある男が、京の公家の家に奉公に出て、屋敷の庭を掃いたり薪を割ったりして仕へてゐた。家には白滝姫といふ美しい娘がゐた。男がある日、風呂をわかしたところ、白滝姫が入らうとして熱いとわかり、男は桶で水を運んだ。その水がこぼれて姫の袖を濡らした。そこで姫が歌を詠んだ。
○雨さへもかかりかねたる白滝に心かけたる山田
すかさず山田男は歌を返した。
○照り照りて苗の下葉にかかるとき山田に落ちよ白滝の水 山田男
姫は、山育ちの男が意外にも見事な歌を返したのに感心した。この歌が縁で、男は身分を越えて姫との結婚を許され、故郷に帰り、姫と終生仲睦まじく暮らしたといふ。姫の輿入れのとき京から持参した二枚の鏡のうちの一枚は、山田村の鎌倉八幡宮に今もあるといふ。「山田」といふ地名の各地に似た話があり、他所では姫が泉に入水する悲恋の話が多い。群馬県桐生市(旧山田郡)では、白滝姫が機織を伝へたとされる。
佐々成政
天正のころ、越前越中の一向一揆の鎮圧の功績を織田信長に認められ、富山城主となった佐々成政に、早百合といふ愛妾があった。あまりの溺愛ぶりに他の側女たちが嫉妬し、早百合と家臣の岡島某とが密通したとの噂を宣伝した。これを聞いて怒り狂った成政は、二人を神通川(磯部町)の榎に逆さ吊りにして斬り殺した。早百合の怨霊は国中をさまよひ歩き、立山の黒百合の花となったといふ。
成政は、本能寺の変の後、秀吉に従ふことをよしとせず、三河の徳川家康に同盟をはたらきかけるために、冬の立山を越えて三河に赴いたが、成果はなかったやうだ。
○みすず刈る信濃路さして一百騎、佐々成政の越えし峠か 川田順
五箇山
○麦や菜種は二年で刈るが、米はお禄で年はらみ 麦や節
○屋島出る時ゃ涙で出たが、住めば都の五箇の山 麦や節
諸歌
○小矢部川、雪解けをもる吾妹子の矢羽根紫、袂香ふも 棟方志功