諏訪の神
むかし近江国甲賀郡の甲賀三郎
冬の始めに諏訪湖が凍るとき、湖を横断する氷の堤ができる。御神渡といひ、大蛇の渡った跡だともいふ。
○諏訪の湖の氷の上の通ひ路は、神の渡りて解くるなりけり 顕伸
○諏訪の海や氷を踏みて渡る世も神し守らば危ふからめや 宗良親王
諏訪神社{大社}は
白糸温泉
松本市東部の入山辺温泉は、またの名を白糸温泉、
○出づる湯のわくにかかれる白糸は、くる人絶えぬものにぞありける 源重之
日本書紀に天武天皇の行幸の計画があった「
ものぐさ太郎
○まれまれはここに集ひていにしへのあたらし人のごとくはらばへ 釈迢空
むかし梓川のほとりの新村(松本市新村)に、太郎といふ男があり、ものぐさで働くこともせず、ただ道端に寝ころんで人に食べ物を乞うて暮らし、ものぐさ太郎と呼ばれてゐた。
あるとき村に、都から賦役の命令が来た。割当の人数だけ出せばよいので、村の役に立ってゐない太郎が行くことになった。太郎が都できちんと働いたかどうかわからないが、期間が終ったので、信州へ帰ることになった。太郎は賦役の仲間におだてられ、都の女を妻にして帰らうと思った。清水寺の前で、やはり乞食同然の姿でごろごろして道行く人を眺めることにした。そこへ、とある貴族の女房が通りかかった。太郎は突然立ち上がって女房に近寄って手をつかみ、求婚してみた。驚いた女房は、しかし平静を装って歌を詠んだ。
○から竹を杖につきたるものなれば、ふし添ひがたき人を見るかな 女房
太郎はすぐに歌を返した。
○万代の竹のよごとに添ふふしの、などから竹にふしなかるべき 太郎
身なりのわりに、みごとな歌の返しなので意外に思はれたが、女房はとにかく手を離してもらひたいと詠んだ。
○離せかし。あみの糸目の繁ければ、この手を離せ。物語りせむ 女房
この場だけは立ち去りたかったので、女房は住ひを教へた。
○思ふなら訪ひても来ませ。わが宿は、からたちばなの紫の門 女房
そこで太郎が手を離すと、女房は大急ぎで走って逃げた。
その日の夕、太郎は、歌で教へられた紫の門のある家を捜して忍び込んだ。庭にゐる太郎に気づいた女房は、柿など果物を与へれば帰るだらうと山盛りにして差し出すと、太郎は歌を詠んだ。
○津の国の浪花の浦のかきなれば、うらわたらねど、しほはつきけり 太郎
上等の紙の束を与へると、紙に歌を書いてよこした。
○ちはやぶる神を使ひにたび(賜)たるは、吾を社と思ふかや。君 太郎
根負けした女房は、歌の才のある男でもあるし、とうとう部屋に入れてしまった。
風呂に入れてみると、なかなかの美男子であった。何日か作法も学んで、都へ出仕して、帝の前で歌を披露したりもした。
○鴬の濡れたる声の聞こゆるは、梅の花笠もるや春雨 太郎
その後、太郎は、むかし信濃に流された二位の中将の子であることがわかった。歌の才と学問が認められ、信濃の中将に任命された。かの女房を妻として故郷へ帰り、死後は穂高大明神としてまつられた。妻はあさひ大権現としてまつられ、縁結びの神とされた。
姨捨山
昔ある男が、母親同様に面倒を見て来た老いた姨(乳母)を、妻に責め立てられて、山に捨てた。家に帰って、姨捨山から昇る月を見ると、悲しみがこみ上げて歌に出た。
○わが心なぐさめかねつ。更級や、をばすて山に照る月を見て 大和物語
男はさっそく姨を連れ戻したといふ。この姨捨山は更埴市の冠着山のこととされ、山麓の長楽寺で詠んだ芭蕉の句もある。
○おもかげや姨ひとり泣く月の友 芭蕉
吉田東伍は、姥捨山は長野市笹ノ井塩崎長谷の長谷寺の裏山の長谷寺山のこととする。この山は古くは
○事しあらば小初瀬山の石城にも、
姨捨山は、かつての葬場であった記憶と、大陸の説話が結び付いたものらしい。風習としての「姥捨」は日本にはなかったやうだ。
戸隠山
○久方の天の岩戸のあけしより、雲井にのこる有明の山 香川景樹
諸歌句
○そば時や月の信濃の善光寺 一茶
○跡しのぶ川中島の朝あらし。いぶきのさ霧、おもかげに見ゆ
○ちくま川古城に添ひていにしへを語り顔なる水の音かな 入江為守
中野市出身の中山晋平作曲の歌。
○信州中野は気立てで知れる。横に車は押しゃしない(中野小唄) 野口雨情
牛に引かれて善光寺参り
昔、小諸に慾の深い婆がゐた。四月八日の観音さまの祭礼の日は、機を織ったり布を干したりしてはいけない日とされてゐたが、婆は観音さまの信仰もなく、勝手に布を干してゐた。するとどこからか一頭の牛が現はれて、二本の角で婆の布を引っかけて走り去った。婆は牛を追ひかけて何里も走り、善光寺まで来て牛を見失った。あくる日、婆はとぼとぼ小諸まで帰ってくると観音堂の前で寝込んでしまった。夢に観音さまが現はれて歌を詠んだ。
○牛とのみ思ひはなちそ、この道に汝をみちびくおのが心を
目覚めると堂の中の観音さまの首に、婆の布が懸かってゐた。観音さまが牛と化って導いてくれたことがわかり、この日から信心深い婆さんになったといふ。
追分
中山道と北国街道の分岐点の追分(軽井沢町追分)は、近世に宿場町として栄えたが、古代の宿駅・長倉駅の地ともいはれる。各地の民謡の追分節は、ここから広まったといふ。
○西は追分、東は関所、せめて峠の茶屋までも 追分節
○さらしなは右みよしのは左にて、月と花とを追分の宿
軽井沢町長倉の
○信濃なる浅間の山に立つ煙、遠近人の見やはとがめぬ 伊勢物語
古代の式内社・長倉神社も追分付近にあったといはれる。沓掛の今の長倉神社は元は八幡神社といってゐたやうだ。その沓掛の長倉神社には長谷川伸の歌碑がある。沓掛は、長谷川伸の股旅物の出世作「沓掛時次郎」の舞台となった地で、今は軽井沢町に編入されて「中軽井沢」といふらしい。
○千両万両狂けない意地も、人情搦めば弱くなる
浅間三筋のけむりの下で、男沓掛時次郎
望月の駒
名馬の産地だった望月の里の長者の娘に、
○むかしより変らぬ顔をうつしきや、月毛の駒の旅の道芝 浅井洌
これに似た話は、東北地方ではオシラサマの話になってゐて、死んだ姫と馬が翌朝桑の木に登って蚕になったといひ、養蚕の起源の話になってゐる。
高遠の絵島
上伊那郡
○向ふ谷に陽かげるはやし、この山に絵島は生きの心堪へにし 今井邦子
信濃宮(宗良親王)
後醍醐天皇の皇子、宗良親王は、南北朝時代に東国を転戦し、主に伊那谷の大鹿村大河原に御在所を置き、
○散らぬまに立ちかへるべき道ならば、都のつとに花も折らまし 宗良親王
宗良親王の皇子といはれる
若き日の釈迢空が伊那を旅したときの歌(下伊那郡阿南町)。
○遠き世ゆ守り伝へし神いかり、この声を吾、聞くことなかりき 釈迢空
箒木
箒木とは、園原の伏屋といふところに生へるといふ木で、遠くから見ると箒のやうに見え、近づくと何も見えないといふ峠の木である。木の下の小屋で行なはれた忌籠りについての伝承だらうともいはれる。園原は伊那郡阿知村智里の台地をいふらしく、現在は中央高速道のインターチェンジの名にもなった。
○園原や、伏屋に生ふる帚木の、ありとは見れど逢はぬ君かな 坂上是則
○ありと見て尋ねばこれもいかならむ。伏屋に咲ける山の初花 宗良親王
木曽路
古代の東山道は伊那谷を通ったが、奈良時代の和銅のころ、美濃国恵那郡から信濃へ入る木曽路が開通したといふ。険しいところと思はれたやうだ。
○おそろしや木曽のかけ路の丸木橋、ふみみるたびに落ちぬべきかな 空仁法師
○出づる峯、入る山の端の近ければ、木曽路は月の影も短し
○「木曽路はすべて山の中にある」 島崎藤村
朝日将軍・木曽義仲
木曽義仲の愛妾の山吹と
○山吹も巴も出でて田植かな 許六
木曽郡日義村の山吹山には、お盆迎へのころ、里の子供たちが行列を組んで行進し、山頂で花火をあげる。行進するときに歌ふ歌を「だっぽしょう」といふ。「らっぽしょう」ともいひ、「乱舞しょう」の訛ともいふ。
○朝日将軍義仲と、おらが在所は一つでござる、
巴御前、山吹姫も、おらが隣の姉さぢゃないか。
○送られつ送りつ果ては木曽の秋 芭蕉
諸歌
○ふるさとの信濃を遠み、秋くさのりんだうの花は摘むによしなし 若山喜志子
○鉦鳴らし信濃の国を行き行かば、ありしながらの母見るらむか 窪田空穂
信濃の国
1 信濃の国は十州に 境連ぬる国にして
聳ゆる山はいや高く 流るる川はいや遠し
松本伊那佐久善光寺 四つの平は肥沃の地
海こそなけれ物さわに よろづ足らわぬ事ぞなき
2 四方に聳ゆる山々は 御岳乗鞍駒ヶ岳
浅間は殊に活火山 いづれも国の鎮めなり
流れ淀まずゆく水は 北に犀川千曲川
南に木曽川天竜川 これまた国の固めなり
3 木曽の谷には真木茂り 諏訪の湖には魚多し
民の稼ぎも豊にて 五穀の実らぬ里やある
しかのみならず桑とりて 蚕飼ひの業の打ちひらけ
細きよすがも軽からぬ 国の命を繋ぐなり
4 尋ねまほしき園原や 旅の宿りの寝覚の床
木曽の桟かけし世も 心してゆけ久米路橋
来る人多き筑摩の湯 月の名に立つ姨捨山
著き名所と風雅士が 詩歌に詠みてぞ伝へたる
5 旭将軍義仲も 仁科五郎信盛も
春台太宰先生も 象山佐久間先生も
皆此国の人にして 文武の誉類なく
山と聳えて世に仰ぎ 川と流れて名は尽きず
6 吾妻はやとし日本武 嘆き給ひし碓氷山
穿つトンネル二十六 夢にも越ゆる汽車の道
道一筋に学びなば 昔の人にや劣るべき
古来山河の秀でたる 国は偉人のある習ひ