鹿島神宮 要石
古代の霞ヶ浦は広大な内湾をなし、北は北浦、南は印旛沼、西は手賀沼からさらに今の利根川・鬼怒川流域に広がってゐた。その東の入口に鹿島神宮がまつられた。
○浪高き鹿島が崎にたどり来て、東の果てを今日見つるかな 夫木抄
枕詞に「あられ降り鹿島」ともいひ、鹿島の神(
○み空より跡垂れ初めしあとの宮、その代も知らず神さびにけり 夫木抄
○めぐり逢ふ初め終りの行方かな、鹿島の宮に、かよふ心は 慈円
鹿島神宮の
○揺ぐともよもや抜けじの要石、鹿島の神のあらん限りは 地震除の歌
をとめの松原
鹿島神宮の南方に軽野の里があり「をとめの松原」の伝説がある。
むかし、那賀郡の寒田村に、神に仕へる美しい少年がゐた。海上郡の安是村に、やはり神に仕へる美しい少女がゐた。二人の評判は村々を越えて伝はり、やがてお互ひの耳にも入るやうになると、いつしか二人の間には、密かな思ひが芽生へていった。
ある年のこと、軽野で歌垣の集ひが催され、そこで二人は偶然出会ふことになった。
歌垣の初めに、神を招き寄せた松の木のかたはらに侍してゐた少女は、群集の中に少年の姿を見つけた。目と目が合ひ、少年の口から、これまでの思ひが歌になって出た。
○いやぜるの
歌の意味からいへば、歌垣の中心人物だった少女が、訪れる神の子として少年を指名したことになる。足早に近寄ってくる少年に対して、少女も答へて歌ふ。
○潮には 立たむといへど、
二人は、歌垣の途中で庭を抜け出し、やや離れた松の木の下に人目を避けた。夜の更け行くのも忘れ、語り合ひ、契りあった。二人が目覚めた朝、互ひの顔を見合せ、昨夜の出会ひの意味もわからず、ただただ恥づかしさにかられて、二人は松の木となり果てたといふ。少年の松を
白鳥の里
鹿島神宮の北方に白鳥の里がある。むかし天より飛び来たった白鳥があった。朝に舞ひ降りて来て、乙女の姿となり、小石を拾ひ集めて、池の堤を少しづつ築き、夕べには再び昇り帰って行った。少し築いてはすぐ崩れて、いたづらに月日はかさむばかりだった。さうしてある日のこと、乙女らは歌を残して天に舞ひ昇り、二度と舞ひ降りて来ることはなかったといふ。
○白鳥の
(白鳥の
潮来
北浦を間に鹿島神宮に向かふ行方郡潮来町は、港町として栄えた。徳川時代初めに利根川が改修されて銚子の沖に通じると、東北地方からの船は、まづ潮来に碇泊し、波の荒い外房の海を避けて、利根川から江戸川を経由して江戸に向かった。港町は当然花街としても栄えた。
○潮来出島の真菰の中に、菖蒲咲くとはしほらしや 潮来節
大杉神社
霞ヶ浦の南、東へ突き出した半島伏の地域を、「
神護景雲元年(767)日光の二荒山を開く旅の途中の勝道上人が、この地方の疫病を退散させるため、巨杉の下で祈祷すると、三輪(大神神社)の神が杉の大枝に飛び移り、ここに留まった。これが大杉大神で、以来、「海河守護、悪疫退散」の守護神としてまつられてきた。文治年間(1185〜1190)ごろ常陸坊海存といふ社僧があり、数々の奇跡を興して、巨体で天狗のやうな容姿だったことから、天狗信仰も広まった。江戸時代には、舟運の発達により、関東の河川流域や沿岸地方にまたたくまに分社が拡大し、民謡「あんばばやし」(大杉ばやし)を歌ひながら人々はこの地に詣でた。大杉の神の信仰は、「あんば信仰」ともいはれる。
○あんば大杉大明神、悪魔をはらってヨーイヤセ… あんばばやし
○あんばの方から吹く風は、疱瘡かるくの便り風 あんばばやし
河童碑
稲敷郡牛久町の牛久沼のほとりに、河童の絵を好んで描いた画家・小川芋銭の旧宅「草汁庵」があり、河童碑がある。
○誰知、古人画竜の心 小川芋銭
利根川、鬼怒川流域には河童の伝説も多い。河童が人や馬の足を引っ張らうとして失敗して捕まり、傷に効くといふ河童の妙薬と引き換へに許しを乞ふ話が多いやうだ。
平将門
今の鬼怒川と利根川に挟まれた地は、江戸時代までは下総の国に編入されてゐた。関東地方のほぼ中央に当る。古くは霞ヶ浦から入江が続き、鬼怒川と利根川は江戸湾にそそいでゐたので、船の交通の要の地でもあった。天慶二年、北相馬郡守谷の守谷城を本拠に、関東の王国を樹立したといふ平将門は、船で一気に関八州の国府を占拠したといふ。将門戦死の地(岩井市)には、国王神社がまつられてゐる。将門は全身鉄の肉体で生れ、こめかみだけが生身だったとの伝説がある。
○将門はこめかみよりぞ射られけり。俵藤太がはかりごとにて
女化稲荷
永正(1504〜)のころ、常陸国河内郡根本村の忠五郎が、土浦の町に
ある日、母が末の子に
○みどり子の母はと問はば、をなばけの原になく泣く伏すと答へよ
忠五郎一家がいくら探しても、母を見つけることはできなかったといふ。村の鎮守の女化稲荷にかかはる伝説である。
筑波山
昔、祖先の大神が、諸国を旅したときのこと、駿河の国で日が暮れてしまった。そこで富士の神に宿を請ふと、「今日は
○
(筑波嶺の歌垣で逢はうと約束したあの娘は?)
(いったい誰の誘ひを受けて、もう神山に籠ってしまってゐるのだらう)
筑波山には男体山と
○筑波嶺の嶺より落つるみなの川、恋ぞつもりて淵となりぬる 陽成院
昔、西行法師が筑波山に登らうとすると、岩の上に若い女が立ってゐたので、不思議に思って、歌を詠んだ。
○磯遠く海辺も遠き山中に、わかめあるこそ不思議なりけり 西行
女は実は
○つくばとは波つく山といふなれば、わかめあるとも苦しかるまじ
歌に負けた西行は、恥ぢ入って、その場から引き返して下山したといふ。その地を「西行戻し」といふ。「西行戻し」と呼ぶ地は全国に分布し、西行が女や子供に歌で負ける滑稽な話になってゐる。
新治
○筑波嶺に黒雲かかり、
「衣手」は常陸の枕詞であり、右のやうな物語が篭められた言葉として、古くは使はれた。
桜川
むかし長暦(1037-40) のころ、筑紫に桜子といふ美少年がゐた。商人に拐かされて東国に売られて来たが、運良く桜川のほとりの磯辺明神の社僧の神宮寺に拾はれて、稚児となってゐた。筑紫の母は、わが子をたづねて東国をさまよひ、探し疲れて桜川の岸辺にたたずみ、桜の花びらの流れる川水をすくってみては、わが子はこの水底に眠ってゐるに違ひないと、大声で泣いた。これを見た里人が憐れんで、女を連れて神宮寺に相談にゆき、母子は再会をはたしたといふ。(謡曲「桜川」)
○つねよりも春べになれば、桜川、波の花こそまなく寄すらめ 紀貫之
磯部稲村神社(西茨城郡岩瀬町磯部)は、祈雨の神、安産守護などの神として信仰される。
蚕になった金色姫
むかし天竺に金色姫といふ美しい姫があり、継母に迫害されて桑の木で作ったうつぼ舟で流された。その舟は日本の豊浦の浜(日立市川尻町)に流れ着き、姫は村人に助けられたが、まもなく姫はこの里で息を引きとった。その翌朝、姫の棺の中を見ると、姫は一匹の蚕と化してゐた。村人は、桑の舟のことを思ひ出してこの蚕に桑の葉を与へたといふ。これがわが国における養蚕の始りとされる。日立市川尻町(旧豊浦町)の
○里人が飼ふこの糸の一筋に祈らば、神もうけひまじやは 本居豊頴
養蚕神社では、毎年五月五日に近くの
○筑波嶺の
東北地方では、養蚕を伝へた神はオシラ様といひ、馬に乗った姫の話になってゐる。
諸歌
元禄のころの、伊勢神社(久慈郡金砂郷町)の祠官と、西山荘(常陸太田市)に隠居してゐた徳川光圀との贈答歌。
○ちはやぶる神と言ふ神の有るが中に、恵みも深き西山の月 鈴木宗興
○西山の峰にとどくる月かげの光ぞうつる、国の花房 徳川光圀
常陸太田市は、江戸で都々逸節を完成させた都々逸坊扇歌の生誕地でもある。
○磯辺たんぼのばらばら松は、風も吹かぬに気がもめる 都々逸坊扇歌
福島県境の北茨城市磯原には、野口雨情が生まれた。
○松に松風、磯原は、磯の蔭にも波がうつ (磯原節) 野口雨情
北茨城市大津町の五浦海岸には、明治の末、岡倉天心により日本美術院が移設された。
○碑文棒書「亜細亜は一つ」冬の涛 中村草田男
天保のころ水戸に藩校の弘道館が建てられた。
○行末もふみなたがへそ、蜻蛉島、大和の道ぞ、要なりける 徳川斉昭
筑波山麓四六のガマ
がまの油を主成分とするといふ軟膏を大道で売りさばく香具師の口上。がまの油売りは関東の筑波山、関西の伊吹山が知られる。
「サアサアお立合ひ、ご用とお急ぎのない方、ゆっくりと聞いてらっしゃい。遠出山越え笠のうち、聞かざるときは物の白黒、出方、善悪がトンとわからない。山寺の鐘がゴンゴンと鳴るといへど、童子きたってしゅもくをあてざれは、トンと鐘の音色がわからない。
サテお立合ひ、手前ここに取り出だしたるは万金膏ガマの油、ガマと申しましても普通のガマとは違ふ。これより北、北は筑波山の麓、オンバコといふ露草を食って育った四六のガマだ。四六、五六はどこで見分けるか。前足の指が四本、後足の指が六本、これを合はせて四六のガマ。山中深く分け入って捕へましたるこのガマを、四面鏡ばりの箱に入れたるときほ、ガマは己が醜き姿の鏡にうつるを見て驚き、タラーリ、タラーリと油汗を流す。この油汗をば柳の若葉にて、三七と二一日の間、煮つめましたるが万金膏はガマの油。
このガマの油の効能は、ひび、あかぎれ、しもやけの妙薬。まだあるよ。大の男が七転八倒する虫歯の痛みもピッタリ止まる。しかし、お立合ひ、口上だけではわからない。刃物の切れ味をとめてみせようか。取り出だしたる夏なほ寒き氷のやいば。一枚の紙が二枚、二枚が四枚、四枚が八枚、八枚が十六枚、一六枚が三二枚、三二枚が六四枚、ホレこの通りフッと散らせば比良の暮雪は雪降りの型。これなる名刀もひとたびガマの抽をつけたるときは、たっちまちなまくら。押しても引いても切れはせぬ。サア、ガマの油の効能がわかったら買っていきな。」(「茨城県の歴史散歩」より引用)