信夫地方
はるか古代、
その湖の片隅に浮かぶ小さな孤島であった鹿島山(福島市小田)の山頂に、常陸国から鹿島の神が勧請されたといふ。この付近は古くは小倉郷といはれ、神域の前を流れる濁川に架かる石橋をたたへた歌にも詠まれてゐる。(鹿島神社由緒)
○よろづ世にかけて朽ちせじ。里の名の小倉の橋の名さへ橋さへ
信夫のもぢずり絹
みちのく信夫の絹織物「もぢずり絹」は、「みだれ染め」といはれる模様に特色がある。模様染めの型に使ふ石を、文知摺石といひ、この石に草木の色を付着させて、さらに布に写して染める。古く天智天皇のころから土地の名産として都に献上されたといふ。
むかし中納言河原大臣
○みちのくのしのぶもちすり、誰ゆゑに乱れそめにし我ならなくに 源融
(陸奥の信夫を思ひ文知摺の模様のやうに思ひ乱れる我は、他のどの女のせいでもない)
虎女は中納言の心が嘘でなかったことを知り、安らかに息を引き取ったといふ。長者は娘を哀れんで、願を掛けた観音堂近くに塚をつくって埋葬したといふ。
○早苗とる手もとや昔しのぶ摺 芭蕉
吾妻嶽の荒駒
むかし吾妻嶽には荒駒が住み、里に出ては田畑を荒らした。大同四年、空海が出羽国湯殿山を詣でてのち、吾妻嶽の麓を通ったとき、里人の訴へを聞いて、荒駒を捕へようと吾妻嶽に向かった。折しも秋の台風の季節で、俄かに空を黒雲が覆ひ、暴風雨となった。松川も洪水であふれ、川岸で空海の一行が立ち往生してゐると、突然いななきとともに荒駒が現はれた。さっそく空海たちが駒を生け捕りにしようと構へると、どこからか白髪の神人か現はれて告げた。「我は当地の氏神なり。今汝の捕ふる荒駒を我に与へよ。我これを宥め、永く駆使せん」といって、藁に握り飯を包んで空海に与へ、更に歌を詠んだ。
○陸奥の吾妻の嶽の荒駒も、飼へばぞなつく。なつけばぞ飼ふ
かうして白髪の老人は駒を引いて立ち去って行った。
空海は、握り飯の包みの藁で祠を建ててまつり、嶽駒大神と名づけ、祈祷を続けた。まもなく洪水は止み、いつのまにか地表の川の流れは消えて、地底を通って流れてゐた。今でもこの川は秋以降は社の付近の地底を通り、流れの末まで魚は住まない。よって「祭川」といふと社記にあり、この地を馬除とも魔除ともいふ。(嶽駒神社由緒)
西根堰
江戸時代の初め、信夫に名代官とよばれた人があり、古河善兵衛といった。関ヶ原の合戦以前から上杉氏に仕へ、上杉氏の米沢転封後も、伊達・信夫二郡の代官をつとめ、治水工事にとりくんで西根堰を完成させた。この堰は、土地の豪族佐藤新右衛門の作った下堰(三里十九丁)と、善兵衛が作った上堰(七里三丁)からなり、善兵衛の上堰は、距離も長く、また岩盤を貫くトンネル工事を含む大工事となった。善兵衛は一代官にすぎず、富豪ほどの財力はなく、私財を全て投げうっても資金は足りなかった。そこで年貢をつかさどる代官の特権を利用して藩主へ納めるべき年貢の一部を工事費に流用し、寛永二年に堰を完成させた。年貢の不足分は毎年私費を充当してゐたが、とても追ひつく額ではなく、寛永十四年十二月、突如米沢への召還の命を受けた。以前の年貢未納の詮議が目的であることがわかると、道中の李平村(福島市庭坂)で辞世を残し、雪道の馬上で自害した。
○巌が根を通さざらめや、ひとすぢに思ひとめにし矢竹心を 古河善兵衛
○ますらをが身は砕きても、国のため尽くす誠の花や咲くらん 古河善兵衛
福島市飯坂町湯野の西根神社は、善兵衛と新右衛門をまつったものである。
安達ヶ原
安達ヶ原には古くから鬼が住むといふ伝説があり、拾遺和歌集にも詠まれた。
○みちのくの安達の原の黒塚に鬼こもれりと聞くは、まことか 平兼盛
むかし熊野の山伏が旅の途中、安達ヶ原で日暮れになり、一つ家に宿を乞ふと、老婆が一人で住んでゐた。夜中に物音が聞こえ、山伏が老婆の部屋をのぞくと、部屋は人の死骸の山だった。これまでに宿をとった旅人たちのなれの果てのやうだった。驚いて逃げ出す山伏を、老婆は鬼女の正体を現して追ひかけ、食ひ殺さうとしたが、山伏は必死で祈祷を続け、鬼女を倒すことができたといふ。(謡曲「安達原」)
安積山
京の大納言の家に、たいそう美しい姫がゐた。この家に内舎人として仕へ始めた男は、姫を一目見たときから恋に悩んだ。死ぬほどに思ひつめ、とうとう侍女に頼んで気持を告げてもらふと、姫は、男を憐れんで部屋へ入れた。
逢瀬は重ねても、かなふ恋ではない。男は意を決して姫をかき抱いて東国へ逃げた。長い旅の果てに陸奥の安積山に至り、山に隠れ住むことにした。平穏な幾年かが過ぎ、やがて姫は身ごもった。
ある日、男はいつものやうに食物を求めて里へ出かけた。男の帰りを待ちながら、姫がふと山の井を見ると、水に映る自分の姿は、都で華やかな暮らしをしてゐたころとは似ても似つかぬものだった。哀れな姿を恥ぢた姫は、歌を詠んで息絶えたといふ。
○安積山。影さへ見ゆる山の井の、あさくは人を思ふものかは
里から戻った男は、冷たい姫のなきがらにすがり、ただ嘆き悲しむばかりであった。男はそのまま姫に添ひ伏して死んだといふ。(今昔物語、大和物語)
◇
奈良時代のこと、葛城王(橘
○安積山。影さへ見ゆる山の井の、あさき心をわが思はなくに
それで、やっと王はご機嫌を取り戻して、楽しく宴の主役を勤められたといふ。(万葉集)
白河の関
陸奥の入り口に置かれた白河の関は、「歌詠まば逢坂の関、白河の関、衣の関、不破の関などを詠むべし」(能因歌枕)といはれ、歌枕としても有名であった。
○都をば霞とともに立ちしかど、秋風を吹く、白河の関 能因法師
右の歌を詠んだ能因法師は、旅に出たやうに見せかけて、しばらく庵に篭って人前に出ず、顔を黒く塗って日焼けしたやうな顔で現はれて、陸奥国に修業の折りに詠んだのだといって、歌を披露したといふ。歌は京の都で作ったものである。
むかし白河で連歌の大会があるといふので、飯尾宗祇が白河の関まで来ると、魚売りの女が通りかかった。女に「綿を売るか」と聞くと、女は、歌で答へた。
○阿武隈の川瀬にすめる鮎にこそ、うるかといへるわたはありけれ (女)
「うるか」とは鮎のはらわたのこと。女の歌に感服した宗祇は、白河は歌の上手な者ばかりに違ひないと、道を引き返したといふ。同類の話は西行の話として各地にある。綿の打ち直しなどをする職人が諸国を巡って伝へた話ではないかと柳田国男はいふ。
白河藩主の養子となった松平定信(徳川吉宗の孫)は、のち幕府老中となって寛政の改革を進めた。白河市の南湖を詠んだ歌がある。
○みづうみのその手ところも末遠し、伝ふしるしの岸の石ふみ 松平定信
会津地方
十代崇神天皇のころ四道将軍のうちの二人、つまり北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した
○会津嶺の国をさ遠み、逢はなはば、偲ひにせもと紐結ばさね 万葉集
天正十八年(1590)小田原攻めの功績で九十万石の大名として会津に入った
○かぎりあれば、吹かねど花は散るものを。心短き春の山風 蒲生氏郷(辞世)
以後数代の藩主が入れ替り、二代将軍徳川秀忠の子、正之が、保科正光の養子に入り会津藩主となった。保科正之は、朱子学を学び神道を信仰して、『家訓』を著はし、耶麻郡総社の磐椅神社の再興、『会津神社誌』の編纂などを手がけた。晩年の寛文十二年(1672)に、神道家の吉川惟足とともに磐梯山の麓を訪れ、
○よろづ代といはひ来にけり。会津山。高天の原にすみかもとめて 保科正之
○君ここに千歳の後のすみところ、二葉の松は雲をしのがむ 吉川惟足
戊辰戦争については歌語日本史を参照。
相馬野馬追ひ
相馬氏は下総の千葉氏の別れで、下総国相馬郡に勢力を持ち、源頼朝の奥州平定への功績で奥州相馬地方に所領を得た。鎌倉時代の末に、相馬氏は亀甲城(原町市)に移住して、代々の氏神である妙見社(太田神社)をまつった。南北朝のころは北朝の足利氏に属し、小高城(相馬郡小高町)に居城を移し、小高神社をまつった。 江戸時代には、相馬利胤が中村城(相馬市)に移住して藩主となり、中村神社をまつった。太田神社、小高神社、中村神社を相馬妙見三社といふ。また、相馬氏は下総国相馬郡の守谷城を拠点とした平将門の子孫ともいふ。
相馬
○相馬恋しや妙見さまよ、離れまいとの繋ぎ駒 (相馬流山)
○竹に雀は仙台様の御紋、相馬六万石、九曜星 (相馬流山)
○陸奥の荒野の牧の駒だにも、取らば取られて馴れ行くものを
宇多の尾浜
相馬市黒木の諏訪神社の社頭の松は「桃井の松」と呼ばれる。諏訪神社は、もと宇多郡尾浜村(相馬市の松川浦北部)にあり、天文七年(1538)に西方の黒木に遷座になったといひ、当時の歌が伝はる。桃井とは神官の名前らしい。(諏訪神社由緒)
○陸奥の宇多の尾浜の浪風の音だに
宇多の尾浜を詠んだ古歌。
○陸奥の宇多の小浜のかたせ貝、あはせても見む。伊勢のつまじろ
神明橋
延宝(1673-)のころ祐天和尚が帰京の道すがら、
○冬おきて夏かれ草を刈りに行く
と発句すると、神明社の前の神明橋の上から、一人の里人が振り返って、
○神明橋はゆるぎなく成り
と、下句を付けた。神明橋は毎年のやうに大水で流されてゐたが、この歌の功徳により、以後は流されることはなくなったといふ。
勿来の関
陸奥の磐城国の入り口にあった関を、
○東路は勿来の関もあるものを、いかでか春の越えて来つらん 源師賢
○みるめかる海人の行き交ふ湊路に、なこその関も我は据ゑぬを 小野小町
○のど病みて旅は勿来のせきに来て、はな散るかぜをたれかしるらん 狂歌
白河天皇の御代に、源義家が、奥州を平定した帰途に、勿来の関で詠んだ歌はよく知られるところである。
○吹く風を、勿来の関と思へども、道も