福岡県(筑前、筑後、豊前)

白縫、筑紫の綿は、身に著けて未だは着ねど、暖けく見ゆ  沙弥満誓

白縫

 筑紫の枕詞「しらぬひ」を「不知火」と書くやうになったのは、室町時代に宗祇が肥後国を旅して八代湾の(いさ)り火を見たころからであるらしい。北九州(筑紫国)では綿の栽培が古代から行なはれ、土地の名産であったことから、万葉時代には「白縫」と表記された。

 ○白縫、筑紫の綿は、身に()けて(いま)だは着ねど、暖けく見ゆ   沙弥満誓



宗像神社

宗像郡玄海町田島

 宗像(むなかた)神社には三つの宮があり、辺津宮(へ つ みや)(玄海町田島)に市杵島姫(いちきしまひめ)神、中津宮(なかつみや)(大島)に湍津姫(たぎつひめ)神、沖津宮(おきつみや)(沖島)に田心姫(たごりひめ)神をまつる。宗像三神ともいはれ、天照大神と素戔嗚尊が誓約されたときに生まれた神とされる。宗像神社の旧暦七月の棚機姫にちなむ行事を詠んだ歌。

 ○秋風の吹きにし日より、久かたの天の河原に立たぬ日はなし  古今集



岡の水門

遠賀郡芦屋町

 遠賀川の河口を「岡の水門」といひ、航海には注意が必要だったやうだ。

 ○天霧らひ西南風(ひかた)吹くらし。水茎(みづくき)の岡の水門に、波立ち渡る   万葉集1231

 仲哀天皇の九州行幸のとき、岡の県主(あがたぬし)熊鰐(くまわに)は、周防国の浦から御船を御案内した。船が岡の水門に至ると、何故か船は進まなくなった。県主の熊鰐は「この浦の口に男女二神あり。男神を大倉主(おほくらぬし)、女神を兎夫羅媛(う ぶ ら ひめ)といふ。この神の心なり」と訴へた。そこで天皇は大和国宇陀の伊賀彦を祝部(はふりべ)にしてこの神をまつらせ、船を進めることができた。のち、神功皇后がこの地に二神をまつったのが高倉神社であるといふ。西へ行くと鐘ノ岬がある。

 ○千早振る鐘の岬を過ぎるとも、我は忘れじ岡の皇神(すめがみ)      万葉集1230

 鐘ノ岬には、織幡(をりはた)神社(宗像郡玄海町)があり、神功皇后の朝鮮出兵のとき、武内宿禰が、この地で赤白の旗を織り、その旗を船に立てて異賊を平定したといふ。宿禰の沓をまつった沓塚もある。宗像山から西には、竹内宿禰、応神天皇、神功皇后の伝説が多い。

 ○筑紫なる宗像山の西に住む翁と君と我をこそいへ       歌枕名寄



香椎宮

福岡市東区香椎

 仲哀天皇と神功皇后が、筑紫橿日宮(つくしのかしひのみや)に行幸されたとき、天皇はここで崩御されたが、皇后は、神託により新羅征伐に向かはれた。帰国後、天皇の墓所に社殿を建ててまつったのが香椎宮(かしひのみや)である。のち皇后の霊も合祀された。神亀五年に、太宰帥らが参拝したときの歌。

 ○いざ子ども。香椎(かしひ)の潟に、白妙(しろたへ)の袖さへ濡れて、朝菜摘みてむ 大伴旅人

 ○行き帰り、常にわが見し香椎潟、明日ゆ後には、見むよしも無し 宇努男人

 後の世の歌。

 ○ちはやぶる香椎の宮の綾杉は神のみそぎに立てるなりけり   新古今集



筥崎宮

福岡市東区箱崎

 筥崎宮は、応神天皇、神功皇后をまつる。宇佐、石清水とともに三大八幡ともいふ。

 ○跡たれて幾世経ぬらむ。筥崎の標の松も神さびにけり     新拾遺集

 正月三日の玉取祭は、二個の玉を氏子が奪ひ合ふといふ。神功皇后がわたつみの神から借りたといふ潮満玉、潮干玉にちなむものなのだらう。

 九州の八幡宮には祭神を海神の豊玉彦、豊玉姫とするところも多い。



宇美八幡宮

粕屋郡宇美町

 神功皇后が新羅に渡航されるとき、気比大神(け ひのおほかみ)が船上に舞ひ降りて「我は皇后の国土を守護せん」との神託があったので、帰国後に仲哀天皇の霊とともに気比大神をまつったのが宇美(うみ)八幡宮であるといふ。帰国後に応神天皇が生まれた地とも。

 ○かけまくも畏けれども宇美(うみ)の宮、わがたのむ君に験あらはせ  拾玉集



生きの松原

福岡市西区今宿(旧糸島郡)

 神功皇后が松の枝を逆さに挿して、無事帰還できるなら生きよと祈った地である。

 ○命かな、生の松原。いきてなほ心つくしの人のはて見む    菅原道真

 ○むかし見し生の松原。こと問はば忘れぬ人もありと答へよ   橘き平



菅原道真

 菅原道真が筑紫へ向ふ途中、船が嵐に遭って豊前国椎田(築上郡椎田町)の港に漂着したといふ。そこから陸路太宰府へ向かひ、神崎(田川郡金田町)の貴船社で休息したとき、境内の一本の松の木を見て、都を偲んで歌を詠んだ。

 ○生ひ茂る一木の松をここに見て、なほなつかしきこち風ぞふく

 のち、道真の霊を貴船社に合祀して、天満宮と改めたといふ。

 別の話では、早鞆(はやとも)の瀬戸(下関海峡)を過ぎて、神嶽川のほとりの、ある小島で休息し、企救(きく)の浦の景色を賞でたといふ。(次の歌は万葉集の歌であるが)

 ○豊国の企救(きく)の浜辺の真砂路(まさごぢ)の、真直(まなほ)にしあらば、何か嘆かむ  万葉集1393

 菅公没後、この地に菅原神社が建立され、島は「天神島」と呼ばれた。今の北九州市小倉北区古船場町といふ。江戸時代に小倉藩主・小笠原忠真は、菅原神社の社殿を修築し、城下の子女の「教育祈願所」と定めた。

 ○二十五の菩薩引き連れ、出づる雲に、乗りてさき立つ神まつりかな  小笠原忠真

 道真が太宰府へ至る前夜に一泊したといふ額田の駅(福岡市西区野方)には、後世に野方天神社がまつられた。菅公の随臣だった藤氏の子孫が、天文元年(1532)に野方に土着して先祖を偲んで建立したといふ。江戸時代の黒田藩主の歌。

 ○神垣の若木の梅の幾千代の春をこめたる色香とぞ見る     黒田継高



太宰府

太宰府市

 博多の那津(なのつ)にあった筑紫太宰が、白村江(はくすきのえ)の戦の後、今の太宰府市に移転され、律令制下の地方官衙としての太宰府が定められた。その地方長官である太宰帥としてこの地に赴任した大伴旅人は、万葉集に多くの歌を残してゐる。朝倉郡夜須町あたりを詠んだ歌。

 ○君がため醸みし待ち酒、夜須(やす)の野に独りや飲まむ。友無しにして 大伴旅人

 左遷された菅原道真は、太宰権帥(副官)として赴任し、この地で生涯を終へた。無実を訴へた歌といふのが北九州に伝はる。

 ○海ならず(たた)へる水の底までも 清き心は月ぞてらさむ     菅原道真

 太宰府の南門に当る苅萱(かるかや)の関は、斉明天皇が朝倉宮を建てたときに設けられたものといふ。

 ○苅萱(かるかや)の関守にのみ見えつるは、人も許さぬ道辺なりけり    菅原道真

 近くを流れる染川には、道真没後、入水して後を追ったといふ侍女の墓も伝はる。

 ○筑紫なるおもひ染川渡りなば、水やまさらむ。淀むときなく  後撰集

 道真の没後には復権がなされ、延喜十九年に墓所(安楽寺)に社殿が造営されて、太宰府天満宮が創建された。

 ○いにしへの光にもなほまさるらん。しづむる西の宮の玉垣   拾玉集

 大宰府天満宮の梅は京都の菅公の家から飛んで来たものといひ、「飛梅(とびうめ)」と呼ばれる。

 ○飛梅(とびうめ)の香をなつかしみ、立ち寄りて昔しのべば、花のさゆらぐ 西高辻信稚

 ○東風吹かば匂ひおこせよ、梅の花、あるじなしとて春な忘れそ 菅原道真



木のまろ殿

朝倉郡朝倉町

 白村江の戦のころ、中大兄皇子や斉明天皇らの行宮として建てられた朝倉宮は、伐ったばかりの丸太の木で急いで造られたので、木の丸殿とよばれたといふ。用心のため、訪れる人は、声を出して名告ってから入らねばならなかったといふ。(古今集)

 ○朝倉や、木のまろ殿に吾が居れば、名告りをしつつ行くは誰が子ぞ  天智天皇

 ○名告りして夜深く過ぎぬ。ほととぎす。われを許さぬ朝倉の関 小侍従

 ○君みれば、朝倉山に隠れにし人に、吾こそ逢ふ心地すれ    能因



濡衣塚

福岡市石堂町

 奈良時代に、佐野近世といふ人が、筑前の国司として赴任した。近世は妻や娘の春姫とともに筑前に住んだが、妻に先立たれたので、土地の女を後妻に迎へた。後妻にも娘が生まれたが、後妻は夫が春姫ばかりを可愛がってゐると考へ、春姫を嫉んで、殺害することをたくらんだ。漁師に偽りの訴へをさせて「春姫が夜毎に通って来て、浜着を盗んで行くので、返してほしい」と言はせた。これを聞いた近世が、春姫の部屋を覗くと、春姫は濡れた衣を着て眠ってゐた。この衣も、後妻が仕組んだことであったが、逆上した近世は、春姫の言ひ訳も聞かずに、姫を斬ってしまった。姫の霊は、夜毎父の夢枕にあらはれては、泣いて無実を訴へたといふ。

 ○ぬぎ着するそのたばかりの濡れ衣は長きなき名のためしなりけり

 ○濡れ衣の袖よりつたふ涙こそ無き名を流すためしなりけれ

 姫の無実を知った近世は、罪を悔いて出家し、姫を葬った石堂川の畔に濡衣塚を作って供養した。この地に濡衣山松源寺がある。この話から「濡れ衣を着せられる」といふ言葉が生まれたといふ。石堂川には、高野山へ入った石堂丸の伝説もある。



唐船塔

福岡市東区箱崎

 むかし箱崎には箱崎殿と呼ばれた豪族があり、唐との貿易を仕事として栄えてゐた。あるとき、港で唐人との諍ひがあり、唐人の祖慶といふ男が捕虜になり、箱崎殿の下働きで使はれることになった。祖慶は良く働き、日本人の妻と結婚して二人の子を設けた。唐の国にも妻子があったのだが、あるとき、唐に残してきた二人の子が、生き別れになった父を捜して、筥崎の港にやってきたのである。親子の再会を喜んだ祖慶は、故郷への思ひを募らせ、日本の二人の子と、合せて四人の子とともに、帰国が許されたといふ。

 ○筥崎の磯辺の千鳥、親と子と泣きにし声をのこす唐船



菊池神社

福岡市城南区七隈

 元弘三年、肥後の菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨を奉じ、九州探題の北条英時を討たんとして、百数十騎を率ゐて肥後国菊池の居城を出発したが、大友貞経の裏切りにより、北条軍との挟み撃ちにあって、奮戦やむなく自害を決意。嫡子の武重を故郷に帰らせるときに歌を託した。

 ○故郷に今宵限りの命とも知らでや人の我を待つらん      菊池武時

 武時の戦死の地に明治二年に建てられたのが、菊池神社(祭神菊池武時公)である。



鏡の山

田川郡香春町

 太宰帥の河内王を鏡の山に葬ったときの歌が万葉集にある。鏡山の近くには、ほふき原の地名もあり、古代の葬地だったのだらう。

 ○(おほきみ)の睦魂あへや、豊国の鏡の山を、宮と定むる       手持女王

 ○豊国の鏡の山の岩門立て、隠もりにけらし。待てど来まさず  手持女王



速戸の迫門

北九州市門司

 下関海峡は、満干の潮の流れが早く、「速戸(はやと)迫門(せと)」といった。

 ○隼人(はやと)迫門(せと)の巌も、鮎走る吉野の滝に、なほ及かずけり    大伴旅人

 門司の和布刈( め かり)神社は、速戸にちなんで「隼人神社」といってゐたが、薩摩隼人との混同を避けて、神事の名を社名としたやうだ。





諸歌

 ○小次郎の眉涼しけれつばくらめ               村上元三

  京都郡豊津町

 ○母とともに花しほらしい薬草の千振つみし故郷の野よ     堺利彦

  久留米市高良山  洋画家

 ○わが国は筑紫の国や、白日別(しらひわけ)、母います国、(はじ)多き国     青木繁

  柳川市

 ○色にして老木の柳うちしだる、わが柳河の水のゆたけさ    北原白秋



河童の本場

 むかし奈良の春日神社の造営のとき、工事がなかなかはかどらなかった。そこで内匠頭(たくみのかみ)の男が九十九体の人形を作って祈ると、人形は童子の姿となって不思議の力を発揮し、たちまちのうちに社殿を完成させた。落成の後、人形を川に流したのが河童になったとのだいふ。河童はのちに人に害を及ぼすやうになったので、匠工奉行の兵主(ひょうず)太夫島田丸が、河童と交渉して河童をなだめしづめたといふ。水辺を通るときなどに河童に足を取られぬために歌ふ歌が、九州に伝はる。

 ○兵主部(ひょうずべ)に約束せしを忘るなよ、川立ち男、氏も菅原      伝菅原道真

 九州は河童の本場で、長崎市の諏訪神社には河童の狛犬もあるらしい。