白縫
筑紫の枕詞「しらぬひ」を「不知火」と書くやうになったのは、室町時代に宗祇が肥後国を旅して八代湾の
○白縫、筑紫の綿は、身に
宗像神社
○秋風の吹きにし日より、久かたの天の河原に立たぬ日はなし 古今集
岡の水門
遠賀川の河口を「岡の水門」といひ、航海には注意が必要だったやうだ。
○天霧らひ
仲哀天皇の九州行幸のとき、岡の
○千早振る鐘の岬を過ぎるとも、我は忘れじ岡の
鐘ノ岬には、
○筑紫なる宗像山の西に住む翁と君と我をこそいへ 歌枕名寄
香椎宮
仲哀天皇と神功皇后が、
○いざ子ども。
○行き帰り、常にわが見し香椎潟、明日ゆ後には、見むよしも無し 宇努男人
後の世の歌。
○ちはやぶる香椎の宮の綾杉は神のみそぎに立てるなりけり 新古今集
筥崎宮
筥崎宮は、応神天皇、神功皇后をまつる。宇佐、石清水とともに三大八幡ともいふ。
○跡たれて幾世経ぬらむ。筥崎の標の松も神さびにけり 新拾遺集
正月三日の玉取祭は、二個の玉を氏子が奪ひ合ふといふ。神功皇后がわたつみの神から借りたといふ潮満玉、潮干玉にちなむものなのだらう。
九州の八幡宮には祭神を海神の豊玉彦、豊玉姫とするところも多い。
宇美八幡宮
神功皇后が新羅に渡航されるとき、
○かけまくも畏けれども
生きの松原
神功皇后が松の枝を逆さに挿して、無事帰還できるなら生きよと祈った地である。
○命かな、生の松原。いきてなほ心つくしの人のはて見む 菅原道真
○むかし見し生の松原。こと問はば忘れぬ人もありと答へよ 橘き平
菅原道真
菅原道真が筑紫へ向ふ途中、船が嵐に遭って豊前国椎田(築上郡椎田町)の港に漂着したといふ。そこから陸路太宰府へ向かひ、神崎(田川郡金田町)の貴船社で休息したとき、境内の一本の松の木を見て、都を偲んで歌を詠んだ。
○生ひ茂る一木の松をここに見て、なほなつかしきこち風ぞふく
のち、道真の霊を貴船社に合祀して、天満宮と改めたといふ。
別の話では、
○豊国の
菅公没後、この地に菅原神社が建立され、島は「天神島」と呼ばれた。今の北九州市小倉北区古船場町といふ。江戸時代に小倉藩主・小笠原忠真は、菅原神社の社殿を修築し、城下の子女の「教育祈願所」と定めた。
○二十五の菩薩引き連れ、出づる雲に、乗りてさき立つ神まつりかな 小笠原忠真
道真が太宰府へ至る前夜に一泊したといふ額田の駅(福岡市西区野方)には、後世に野方天神社がまつられた。菅公の随臣だった藤氏の子孫が、天文元年(1532)に野方に土着して先祖を偲んで建立したといふ。江戸時代の黒田藩主の歌。
○神垣の若木の梅の幾千代の春をこめたる色香とぞ見る 黒田継高
太宰府
博多の
○君がため醸みし待ち酒、
左遷された菅原道真は、太宰権帥(副官)として赴任し、この地で生涯を終へた。無実を訴へた歌といふのが北九州に伝はる。
○海ならず
太宰府の南門に当る
○
近くを流れる染川には、道真没後、入水して後を追ったといふ侍女の墓も伝はる。
○筑紫なるおもひ染川渡りなば、水やまさらむ。淀むときなく 後撰集
道真の没後には復権がなされ、延喜十九年に墓所(安楽寺)に社殿が造営されて、太宰府天満宮が創建された。
○いにしへの光にもなほまさるらん。しづむる西の宮の玉垣 拾玉集
大宰府天満宮の梅は京都の菅公の家から飛んで来たものといひ、「
○
○東風吹かば匂ひおこせよ、梅の花、あるじなしとて春な忘れそ 菅原道真
木のまろ殿
白村江の戦のころ、中大兄皇子や斉明天皇らの行宮として建てられた朝倉宮は、伐ったばかりの丸太の木で急いで造られたので、木の丸殿とよばれたといふ。用心のため、訪れる人は、声を出して名告ってから入らねばならなかったといふ。(古今集)
○朝倉や、木のまろ殿に吾が居れば、名告りをしつつ行くは誰が子ぞ 天智天皇
○名告りして夜深く過ぎぬ。ほととぎす。われを許さぬ朝倉の関 小侍従
○君みれば、朝倉山に隠れにし人に、吾こそ逢ふ心地すれ 能因
濡衣塚
奈良時代に、佐野近世といふ人が、筑前の国司として赴任した。近世は妻や娘の春姫とともに筑前に住んだが、妻に先立たれたので、土地の女を後妻に迎へた。後妻にも娘が生まれたが、後妻は夫が春姫ばかりを可愛がってゐると考へ、春姫を嫉んで、殺害することをたくらんだ。漁師に偽りの訴へをさせて「春姫が夜毎に通って来て、浜着を盗んで行くので、返してほしい」と言はせた。これを聞いた近世が、春姫の部屋を覗くと、春姫は濡れた衣を着て眠ってゐた。この衣も、後妻が仕組んだことであったが、逆上した近世は、春姫の言ひ訳も聞かずに、姫を斬ってしまった。姫の霊は、夜毎父の夢枕にあらはれては、泣いて無実を訴へたといふ。
○ぬぎ着するそのたばかりの濡れ衣は長きなき名のためしなりけり
○濡れ衣の袖よりつたふ涙こそ無き名を流すためしなりけれ
姫の無実を知った近世は、罪を悔いて出家し、姫を葬った石堂川の畔に濡衣塚を作って供養した。この地に濡衣山松源寺がある。この話から「濡れ衣を着せられる」といふ言葉が生まれたといふ。石堂川には、高野山へ入った石童丸の伝説もある。
唐船塔
むかし箱崎には箱崎殿と呼ばれた豪族があり、唐との貿易を仕事として栄えてゐた。あるとき、港で唐人との諍ひがあり、唐人の祖慶といふ男が捕虜になり、箱崎殿の下働きで使はれることになった。祖慶は良く働き、日本人の妻と結婚して二人の子を設けた。唐の国にも妻子があったのだが、あるとき、唐に残してきた二人の子が、生き別れになった父を捜して、筥崎の港にやってきたのである。親子の再会を喜んだ祖慶は、故郷への思ひを募らせ、日本の二人の子と、合せて四人の子とともに、帰国が許されたといふ。
○筥崎の磯辺の千鳥、親と子と泣きにし声をのこす唐船
菊池神社
元弘三年、肥後の菊池武時は、後醍醐天皇の綸旨を奉じ、九州探題の北条英時を討たんとして、百数十騎を率ゐて肥後国菊池の居城を出発したが、大友貞経の裏切りにより、北条軍との挟み撃ちにあって、奮戦やむなく自害を決意。嫡子の武重を故郷に帰らせるときに歌を託した。
○故郷に今宵限りの命とも知らでや人の我を待つらん 菊池武時
武時の戦死の地に明治二年に建てられたのが、菊池神社(祭神菊池武時公)である。
鏡の山
太宰帥の河内王を鏡の山に葬ったときの歌が万葉集にある。鏡山の近くには、ほふき原の地名もあり、古代の葬地だったのだらう。
○
○豊国の鏡の山の岩門立て、隠もりにけらし。待てど来まさず 手持女王
速戸の迫門
下関海峡は、満干の潮の流れが早く、「
○
門司の和布刈( め かり)神社は、速戸にちなんで「隼人神社」といってゐたが、薩摩隼人との混同を避けて、神事の名を社名としたやうだ。
諸歌
○小次郎の眉涼しけれつばくらめ 村上元三
京都郡豊津町
○母とともに花しほらしい薬草の千振つみし故郷の野よ 堺利彦
久留米市高良山 洋画家
○わが国は筑紫の国や、
柳川市
○色にして老木の柳うちしだる、わが柳河の水のゆたけさ 北原白秋
河童の本場
むかし奈良の春日神社の造営のとき、工事がなかなかはかどらなかった。そこで
○
九州は河童の本場で、長崎市の諏訪神社には河童の狛犬もあるらしい。