菅原道真

 菅原道真が筑紫へ向ふ途中、船が嵐に遭って豊前国椎田(築上郡椎田町)の港に漂着したといふ。そこから陸路太宰府へ向かひ、神崎(田川郡金田町)の貴船社で休息したとき、境内の一本の松の木を見て、都を偲んで歌を詠んだ。

 ○生ひ茂る一木の松をここに見て、なほなつかしきこち風ぞふく

 のち、道真の霊を貴船社に合祀して、天満宮と改めたといふ。

 別の話では、早鞆(はやとも)の瀬戸(下関海峡)を過ぎて、神嶽川のほとりの、ある小島で休息し、企救(きく)の浦の景色を賞でたといふ。(次の歌は万葉集の歌であるが)

 ○豊国の企救(きく)の浜辺の真砂路(まさごぢ)の、真直(まなほ)にしあらば、何か嘆かむ  万葉集1393

 菅公没後、この地に菅原神社が建立され、島は「天神島」と呼ばれた。今の北九州市小倉北区古船場町といふ。江戸時代に小倉藩主・小笠原忠真は、菅原神社の社殿を修築し、城下の子女の「教育祈願所」と定めた。

 ○二十五の菩薩引き連れ、出づる雲に、乗りてさき立つ神まつりかな  小笠原忠真

 道真が太宰府へ至る前夜に一泊したといふ額田の駅(福岡市西区野方)には、後世に野方天神社がまつられた。菅公の随臣だった藤氏の子孫が、天文元年(1532)に野方に土着して先祖を偲んで建立したといふ。江戸時代の黒田藩主の歌。

 ○神垣の若木の梅の幾千代の春をこめたる色香とぞ見る     黒田継高