佐賀の大楠

佐賀市

 むかし佐賀郡に大楠があり、朝日の陰は杵島郡の蒲川山を覆ひ、夕日の陰は養父郡の草横山(九千部山)を覆ったといふ。日本武尊がこの楠の茂り栄えるさまを見て、「この国は(さか)の国」といったので佐賀の郡名となったといふ。

 ○我に迫る三千年の(くす)若葉                  青木斗月

 ○(くす)の木の若枝ゆすりてこのあした声あげやまぬかちがらすあり 中島哀浪



魚釣の石

東松浦郡浜玉町 旧玉島村

 神功皇后が新羅征伐のときに、戦勝を占って、玉島川で鮎釣りをした。そのときに座った石が「魚釣の石」である。以来玉島地方では、四月に女性が、豊作豊漁を占って釣をするのだといふ。(肥前国風土記)

 ○帯姫(たらしひめ)神の(みこと)の、()釣らすと、御立たしせりし石を、誰見き  山上憶良

 神功皇后ゆかりの玉島川で大伴旅人の詠んだ連作歌物語から。

 ○松浦なる玉島川に、鮎釣ると立たせる子らが家路知らずも     大伴旅人

 ○君を待つ松浦の浦の少女(をとめ)らは、常世の国の海少女(あまをとめ)かも     大伴旅人



淀姫

佐賀郡大和町

 神功皇后の新羅出兵のとき、皇后は(いもうと)の淀姫を松浦に遣はして、兵と船を集めた。淀姫は、沙伽羅竜王から借りた潮満玉(しほみつたま)潮干玉(しほひるたま)を携へ、三百七十五人の船に乗って松浦を出航したといふ。淀姫命は与止日女(よどひめ)神社にまつられる。別名を世田姫とも、豊玉姫ともいふ。

 ○帯姫(たらしひめ)御船泊てけむ、松浦の海。(いも)が待つべき月は、経につつ  万葉集3685



松浦佐用姫

東松浦郡浜玉町

 宣化天皇の御代に朝鮮半島南部の任那を救ふために松浦(まつら)の港に来た将軍大伴狭手彦(さ で ひこ)は、しばらく松浦の篠原村に滞在し、村の長者の娘の弟姫子(おとひめこ)を妻とした。やがて出航の日がきて、狭手彦は姫に形見の鏡を与へて任那に向かった。別れを悲しむ姫が、船を追って玉島川を渡ったとき、鏡の小紐が切れて、鏡は川に落ちた。姫は、さらに高山の峰に登って、離れて行く船を望み見て、領巾(ひれ)を振り続けたといふ。この山を領巾振(ひ れ ふり)山といふ。弟姫子は、佐用姫(さ よ ひめ)ともいふ。

 ○遠つ人、松浦佐用姫、(つま)恋ひに領巾振りしより、負へる山の名 山上憶良

 ○海原の沖行く舟を帰れとか、領巾振らしけむ。松浦佐用姫   山上憶良

 それから五日後の夜、姫のもとに通ってきた男があった。容姿は狭手彦にうり二つで、その日から夜毎に来ては朝目覚めると去ってゐた。不審に思った弟姫子は、寝る前に男の衣に麻糸を縫ひ付けておいた。翌朝その糸をたどってゆくと、山の沼に至った。沼には、頭が蛇で身は人間の形をした蛇が横たはり、たちまち男の姿になって歌を詠んだ。

 ○篠原の弟姫の子を、さ一夜(ひとゆ)も、率寝(ゐね)てむ(しだ)や、家にくださむ (肥前風土記)

 それきり弟姫子の姿は見えなくなり、数日後に沼の底に遺体となって発見されたといふ。



杵島曲

鹿島市など

 昔杵島(きしま)郡の村では、春秋に男女が杵島山に集まり、酒などを神に供へて歌舞をしたといふ。

 ○あられふり杵島(きしま)が岳をさかしみと草とりかねて(いも)が手を取る  肥前風土記

 この歌を杵島(きしま)(ぶり)といひ、常陸国でもこの歌舞がなされたといふ。



和泉式部の足袋

杵島郡有明町大字田野上字泉 旧錦江村

 むかし杵島郡の和泉村の福泉寺の僧が、仏に供へた茶を裏山に撒かうとすると、白鹿が飲んでしまった。鹿は毎日現はれて茶を飲んだ。ある日、堂の裏で赤子の泣く声がしたので、僧が行って見ると、鹿が人の子を産んで(ちち)を与へてゐた。この子は、寺で子授けを祈願してゐた大黒丸の夫婦に引き取られ、九歳のときに京へ上って宮仕へをしたといふ。娘は和泉式部と呼ばれ、あるとき故郷の錦浦に歌を送って来た。

 ○ふるさとにかへる衣の色朽ちて、錦の浦や、きしまなるらん  和泉式部

 和泉式部は、鹿から生れた鹿の子であったので、生れながらに足の指が二つに割れてゐた。それを隠すために母は足袋を発明して娘にはかせたといふ。(柳田国男・和泉式部の足袋)

 丹後国での話だが、翌日の狩猟に備へて和泉式部の夫の藤原保昌らが準備をしてゐると、夜更けに鹿の声が聞えた。和泉式部が鹿を憐れんで歌を詠むと、保昌らは心を打たれて狩りを中止したといふ。(古本説話集)

 ○ことわりや、いかでか鹿の鳴かざらん。今宵ばかりの命と思へば 和泉式部



鍋島藩の追腹禁止令

佐賀市

 佐賀鍋島藩主・鍋島勝茂の嫡子の忠直が、江戸の藩邸で天然痘により病死した。このとき忠直の側近四名が殉死したが、同じ側近の江副金兵衛だけが行方をくらまし、不忠義者と罵られた。実は金兵衛は、高野山に隠って亡君の菩提を弔ひつつ、その姿を像を刻んでゐた。一年後、佐賀の高伝寺で一周忌の法要が行なはれると、そこへ金兵衛が現はれ、忠直の像を献じ、庫裡へ退いて自害した。

 ○去年(こぞ)の今日なくなりし君弔ひて今年の今日は跡したひゆく   江副金兵衛

 忠直の子の光茂は、藩主となって寛文元年(1661)に追腹(おひばら)禁止令を出してこれを戒めた。徳川幕府もこれにならひ、二年後に殉死の禁止を定めた。のちの鍋島藩士の山本常朝は、主君の死に際して出家の道を選んだ。常朝が晩年に語った言葉が『葉隠(はがくれ)』として編纂されたといふ。



岳の新太郎さん

多良岳

 むかし多良(たら)岳の山頂近くの金泉寺に、新太郎といふ若い修験僧がゐた。麓の里の娘たちに評判の美青年だったが、山は女人禁制なので、娘たちは近づくことができない。新太郎は時折り寺の使ひで里に降りて来ることがあったが、そのときは山道に水を撒いて、道が滑って戻れなくなればいいと、娘たちは歌った。

 ○岳の新太郎さんの登らす道にゃ、道にゃ水かけ、滑らかせ 民謡:岳の新太郎さん



諸歌

 ○年に一度は有田の町に、七日七夜の市が立つ         野口雨情

東松浦郡鎮西町の名護屋城は秀吉の朝鮮出兵の拠点だった。

 ○太閤が睨みし海の霞かな                  青木斗月