土佐に坐す神

高知市

 高知市の土佐神社は、大国主命の子である「土佐に坐す神」をまつる。この神は、味鋤(あぢすき)高彦根命とも、高鴨(たかかも)神ともいひ、葛木一言主(かつらぎのひとことぬし)神ともいふ。いづれも大和の葛城王朝のころの神である。備後国疫隈の里を訪れた素戔嗚尊は、土佐の神の娘のもとに通ふ途中だったともいふ。室町時代の元亀元年(1570)に土佐六郡を領した長宗我部元親が、社殿をを再興したときの落首。

 ○元親(もとちか)は長き弓矢の家と聞く、さいかうまくを一の宮かな     落書



土御門院

香美郡香北町

 物部川の上流、香美郡香北町猪野々は、鎌倉時代に承久の変ののち、御自ら移られた土御門院の御在所のあった地である。院は周囲のすすめで阿波へ移られたが、そのときの歌。

 ○浮世にはかかれとてこそ生れけめ。ことわり知らぬわが涙かな  土御門院

 ○寂しければ、御在所山の山桜、咲く日もいとど待たれぬるかな  吉井 勇



室戸岬、足摺岬

 高知県東部の室戸岬は空海修行の地とされ、最御崎寺、金剛頂寺などがある。

 ○神の住む室津の崎のありそわに打ち寄る波の音のさやけさ    今村 楽

 ○まれまれに我を追ひ越す順礼の足のとにあらし。遠くなりつつ  釈迢空

 県西部の足摺岬には金剛福寺がある。

 ○なやみの日に我を呼べといふ制札のまばゆさよ愛も岬ゆゑくらし  生方たつゑ

 南へ突き出た岬は、補陀落(ほだらく)渡海への聖地とされた(和歌山県熊野参照)。



雪蹊寺

高知市長浜町 高福山雪蹊寺

 ○旅の道飢ゑしも今は高福寺、のちのたのしみ有明の月      御詠歌

 永禄(1558〜70)のころの雪蹊寺は、妖怪の出没する寺だったといふ。あるとき諸国を巡ってゐた月峰といふ僧が、この寺に泊まると、夜中にすすり泣く声がした。

 ○水も浮世をいとふころかな

 次の夜も同じ歌が聞えたので、月峰は、成仏できないでゐる霊があるのだらうと句を付けた。

 ○墨染めを洗へば波も衣着て

 すると泣き声は止んだといふ。月峰は、領主の長宗我部氏に推薦されて住職となり、寺の再興に大いに貢献したといふ。



竹林寺、播磨屋橋

高知市

 高知の竹林寺は、五台山文珠堂ともいひ、三池水がある。江戸時代の土佐藩主の歌。

 ○くみて知る法の誓の底干なく三の濁りを結ぶ池水        山内豊房

 むかし竹林寺に純信といふ僧がゐた。その弟子に慶全といふ若い僧がゐて、慶全は鋳掛屋新平の娘お馬に恋心を抱いてしまった。ところがお馬は、師の純信に夢中になってゐた。慶全はお馬の気を引かうと、播磨屋橋のたもとで簪を買ひ求めたといふ。

 ○土佐の高知の播磨屋橋で、坊さん簪買ふを見た         よさこい節

 播磨屋橋は播磨屋宗徳といふ豪商が架けた橋である。よさこい節は、お遍路さんが道中で歌った菅笠節の替歌がもとになったともいふ。

 ○破れ菅笠、締め緒が切れて、さらに着もせず捨てもせず     菅笠節



諸歌

高知市、桂浜公園

 ○見よや見よ、みな月のみのかつら浜、海のおもよりいづる月かげ 大町桂月



やなせ杉

奈半利(なはり)

 土佐は森と良材の国で、県東部の安芸郡を流れる奈半利(なはり)川の上流は、県木とされる魚簗瀬(やなせ)杉の産地でもある。

 ○波の穂にうつろふ月の影も見ん。雲吹きはらへ、なはり浦風   今村田主

 県中部の高岡郡戸波村(土佐市)で山林を生業としてきた旧家の主婦の歌。

 ○屋根にまで桧大樹のつづく山、わが山にしてわが子を持たず   松本ふじ子

 県出身の植物学者、牧野富太郎博士は、寿衛子夫人の病死に遇ひ、そのころ発見してまもない笹の新種を、スエコ笹と命名したといふ。博士は東京石神井に住んだ。

 ○世の中にあらん限りやスエコ笹                牧野富太郎



有井の里

道文神社  幡多郡大正町、大方町

 後醍醐天皇の第一皇子、尊良親王は、元弘の変に笠置山で敗れ、土佐へ配流の身となられた。侍臣の(はた)武文(たけふみ)道文(みちふみ)の兄弟は、有井荘米原(幡多(はた)郡大方町有井川上流)の山里に御所を建てて親王をお迎へした。親王は、土佐に移って以来、各地へ配流となった天皇や弟の親王たちを思ひ、また京の情勢を按じて暮す毎日だった。中でも京に残した姫君を思はれるときのお姿は、傍目に見ても気の毒なほどだった。

 ○我が庵は土佐の山風さゆる夜に、軒漏る月も、かげ凍るなり   尊良親王 新葉集

 かくして兄の武文が京へ派遣されて姫をお連れすることになったのである。

 京へ上った武文は、鞍馬山で首尾良く姫を奪還し、淀川を下って難波で宿をとった。その夜、宿に盗賊が乱入した。武文は姫君を背負ひ、賊を蹴散らしながら港へ出て姫君を船に預けた。再び追手の賊どもを追ひ払ひ、ふと振りかへって港を見ると、船は岸を離れて遥か沖合ひを進んでゐた。武文は必死で小舟を漕いで後を追ひかけたが、大きな船に船足が追ひつくはずもない。武文は大声を上げて泣き叫び、そのまま夜の海中に跳び込んで死んだ。

 船は松浦五郎といふ海賊のものだった。船が阿波の鳴戸に至るころ、突然の暴風雨が船を襲った。水夫たちは皆恐怖に陥り、姫君をさらった罪ではないかと騒ぎたてた。この大混乱のさなかに、姫はひっそりと涙を浮かべ、「是は吾が形見なり、父上御在世なれば届け賜へ」と海神に祈り、小袖を海中に投げ入れた。天罰を怖れた海賊どもは、小舟を下ろして姫君を乗せて逃がした。まもなく船は転覆し、一味は全員、海の藻屑と消え去った。

 姫の小袖は、入野浜(大方町)に流れ着き、これを見つけた漁夫たちが、領主の有井氏の元に届けた。有井が親王に献上すると、親王は「吾れ在京時、姫君に授けし小袖なり」と涙を流された。弟の道文は、兄に代はって上京を決意、姫君を探すことにしたが、山越えの旅の途中、打井川の里(大正町)で病に倒れ、歌をのこして死んでいった。

 ○一筋に忠義をつくす道文が、吾が名を後のみ世にとどめん    秦道文

 ここに悲運の生涯を終へた秦道文をまつったのが、道文神社である。その頃から入野月が浜でとれるやうになった貝は、姫の小袖と同じ模様をした美しい貝で、小袖貝と名づけられた。