国引き

 太古には島根半島は東西に細長い独立の島だったらしい。この内海を野津左馬之助は素尊水道と名づけた。斐伊川(ひのかは)は北流してこの水道に注いでゐたが、長い年月の間に、川の堆積物や海面の後退によって、次第に平野部が広がって行った。やがて出雲平野ができて島は陸続きとなり、歴史時代に入った。島が次第に近づいて行ったさまは、国引き神話を思はせる。斐伊川は平野部を西流して日本海に注いでゐたが、寛永十三年(1636)の大洪水によって東流し、以来東の宍道(しんぢ)湖の干拓が進んだ。

 ○国引ける神のゑいざや今も見ん、綱手(つなで)なるてふ薗の松山      村田春海

 「薗の松山」とは、半島の西の付け根の「薗の長浜」のことで、八束(や つか)水臣(みづおみ)津野(つの)命といふ巨人が島に綱を掛けて国引きをしたときの綱の名残りだといふ。



出雲大社(杵築大社)

簸川郡大社町

 出雲大社は大国主神をまつり、古くは高さ十六丈の天を突くやうな巨大な社殿だったらしい。

 ○やはらぐる光や空に満ちぬらん。雲に分け入る千木(ちぎ)の片そぎ    夫木抄

 崇神天皇の御代に、兄の留守中に出雲大神の神宝を朝廷に献じた(いひの)入根(いりね)は、兄の振根(ふるね)の怒りを買って殺された(日本書紀)。出雲が大和政権に組み入れられたことを意味するやうだ。兄が祭祀の責任者で、弟が政治の責任者だったのだらう。死んだ弟の入根を憐れんで歌はれた歌が、塩冶郷(出雲市南西部)に伝はる。

 ○やつめさす出雲(たける)()ける太刀、つづら(さは)()きさひなしにあはれ

 この歌からすると、出雲の神宝は刀剣であったやうだ。似た歌が古事記にもあり、倭建命が出雲建を倒した話になってゐる。



素戔嗚尊

 むかし八俣大蛇を退治された素戔嗚(すさのを)命は、須賀の地で、「吾ここに来まして、我が心すがすがし」とおっしゃって、ここに宮を御造りになった。このとき美しい雲が立ちのぼるのを御覧になり、御歌を詠まれた。

 ○八雲立つ出雲八重垣、妻()みに八重垣つくる、その八重垣を

 斐伊川支流の山間の大東町須賀に、須我神社が祀られてゐる。東隣の八雲村には熊野神社{大社}がある。松江市南部の八重垣神社は、もとは佐久佐(さくさ)の神(媒女(さくさめ)の神)をまつってゐたが、中世に須我神社の神を合せてまつり、今の社名になったといふ。さくさめとは酒醸女の意味といふ。

 ○神の世の昔をかくる色なれや、白ゆふ花のさくさめの森      水無瀬氏成



熊野神社

八束郡八雲村

 熊野神社{大社}の御祭神は「伊射那伎日真名子(いざなきひまなご)加夫呂伎(かぶろき)熊野大神(くし)御気野(みけの)命」、すなはち素戔嗚尊の別名とされる。クマはカミ(神)の転であるともいふ。

 出雲国造の子孫の出雲大社宮司・千家(せんげ)家では、代替はりのときに熊野神社から神器の火鑽臼と火鑽杵を拝戴する儀式がある。出雲大社ではこれらの神器で神火を鑽り出して、神への神饌が調理され、神と宮司がともに食する。古代の出雲国造が国造の職につくときに行なはれたことが、古式のまま現在に継承されてゐる。十月十五日の鑽火祭(きりびまつり)には、出雲大社宮司は、神歌と琴に合はせ百番の榊舞を納めるといふ。

 ○すめかみをよきひにまつりし、あすよりはあけのころもをけころもにせむ



国府

松江市

 出雲守として国府(松江市大草町)に赴任した門部王が故郷をしのんだ歌(万葉集)。

 ○意宇(おう)の海の川原の千鳥、汝が鳴けば、わが佐保川の思ほゆらくに  門部王

 ○意宇の海の潮干の潟の片思ひに、思ひや行かむ。道の長手を    門部王



神在月

六所神社・佐太神社

 十月になると全国の神さまが出雲へ集り、諸国では神が居なくなるので、十月を神無月といふ。逆に出雲では神有月(かみありづき)といふ。出雲へ来た諸国の神々は、最初に国府近くの六所神社(松江市大草町)に集まり、次に佐太(さだ)神社(八束郡鹿島町)へ行かれるといふ。六所神社で国司の参拝風景を見た出雲大社権宮司の歌。

 ○国司(くにづかさ)袖うちはへてまつりけむ、神の斎庭(ゆには)の思ほゆるかな     清水真三郎

 佐太神社は、佐太大神(猿田毘古(さるだびこ)大神)をまつる古社である。

 ○出雲なる神在月のしるしとて龍蛇の上る江積津の浜       古歌

 神々は、こののち出雲大社へ向かはれるらしい。



松江の菓子

 松江藩主、松平不昧は茶や菓子を好んだので、城下の菓子屋はこぞって新しい菓子を考案して献上し、また土地の名産ともなっていった。

   風流堂の「山川」(竿状の紅白の落雁)

 ○散るは浮き、散らぬは沈む紅葉ばの、影は高雄の山川の水    松平不昧

   彩雲堂の「若草」

 ○曇るぞよ、雨ふらぬうちに摘んでおけ、栂の尾山の春の若草   松平不昧

   三栄堂の「菜種の里」(寛政元年)

 ○春菜さく野辺の朝風、そよ吹けば、飛びかふ蝶の袖そかすそふ  松平不昧



白鹿山

松江市奥谷町 田原神社

 松江城の北方の松江市奥谷町にある田原神社では、むかし祭礼の日は定めず、仲春のころ神主や氏子が宮籠りをして幾日か祈ると、必ず「北山」から二頭の白い鹿が現はれた。この鹿を神前に供へて歌舞をした。

 ○年ごとの今日の祭を告ぐ鹿に、月の白幣掛くる氏人       社伝の神楽歌

 北山とは松江市北部の白鹿山のことだらう。白鹿山は白い神鹿が住むといはれ、近くには「鹿みち」の地名や「鹿の足洗ひ池」といふ泉がある。



山中鹿之介

能義郡広瀬町

 戦国大名の尼子氏の居城の富田(とだ)城(月山城)は今の能義郡広瀬町の地にあった。尼子氏の家臣、山中鹿之介は少年時代からの剣の達人で、数々の一騎打ちを演じるなど、戦国の世にその名をとどろかせた豪勇だった。しかし毛利氏の勢力の前に、尼子氏は衰退を余儀なくされた。永禄八年(1565)、富田城を毛利の大軍に包囲され、山の端にかかる三日月を見て、鹿之介は「三日月よ吾に七難八苦を与へたまへ」と唱へ、闘志をふるひ立たせた。このとき二十一歳。

 ○憂きことのなほこの上に積もれかし。限りある身の力ためさん  山中鹿之介

 翌年富田城は落城、鹿之介はその後も主家再興のために愛用の三日月の兜とともに孤軍奮闘を続けたが、天正七年備中の高梁川で戦死した。



諸歌

 ○関の五本松一本切りゃ四本、あとは切られぬ夫婦松

松江の小泉八雲旧居

 ○喰はれもす八雲旧居の秋の蚊に                虚子



浮布の池

太田市

 太田市三瓶町池ノ原にある「浮布の池」は、三瓶山の噴火で堰き止められてできた湖である。むかし池の原の長者の娘の迩幣姫(に へ ひめ)が、美しい若者に誘はれ、この池に身を投げた。若者は池に棲む大蛇であったといふ。姫の着てゐた衣が水面から浮きあがるかのやうに湖水が白く見え、浮布の池の名となった。池の中の島に迩幣姫(にへひめ)神社がまつられてゐる。

 ○身はかくてうきぬの池のあやめ草、引く人もなきねこそつきせめ  藤原知家



諸歌

 ○大汝(おほなむぢ) 少彦名(すくなひこな)のいましけむ、しづの岩屋は、幾世経ぬらむ     生石真人

・石見銀山(大森鉱山)

 太田市大森に戦国時代に銀山が発見され、銀山防衛のための山吹城が築かれた。

 ○城の名もことわりなれや、まぶ(坑道)よりも掘る白銀を山吹にして 玄旨



袂の里

浜田市

 浜田市生湯町の「(たもと)の里」は和泉式部ゆかりの地で、生誕地との伝承もある。

 ○うき時は思ひも出づる石見がた、袂の里の人のつれなさ      和泉式部



烈女お初

浜田市

 享保のころ、浜田藩の江戸屋敷で、岡本道女といふ娘が腰元として働いてゐた。ある日道女は、急ぎの用があって、人の草履を履き違へてしまった。草履の持ち主は落合沢野といふ老女のもので、怒った沢野は道女を草履で打ちすゑた。道女もそこは武士の娘、死んで汚名をはらさうと、辞世を詠んで自害した。このとき二一才といふ。

 ○藤の花、長き短き世の中に、散り行く今日ぞ、思ひ知らるる    岡本道女(辞世)

 道女の召使のお初(松田察)は、主人の無念さを思ひ、沢野に対して仇討を決行した。このお初の行ひは、お咎めを受けるどころが、かへって忠節を賞賛され、道女の後継に召し抱へられたといふ。歌舞伎「鏡山旧錦絵」に作られた。

 ○浜田育ちは気立てがちがふ。烈女お初の出たところ



柿本神社

益田市上高津町

 石見国小野郷は、古代の小野氏の一族が住んだ地といひ、小野氏の分かれが、柿本氏である。柿本人麻呂は、石見の小野郷に生まれともいひ、天武三年に石見守に任ぜられたともいふ。人麻呂は石見国の鴨山で没した。

 ○鴨山の岩根し枕ける吾をかも、知らにと、(いも)が待ちつつあるらむ  柿本人麻呂

 この歌にある鴨山とは、益田市高津の沖にあった鴨島のことで、人麻呂の死後、勅命によってここに社殿が建立されたといふ。のち万寿三年(1026)の断層地震により、島は海中に陥没した。このとき人麻呂公の神像が松崎に漂着し、ここに社殿が再建されたが、延宝九年(1681)、亀井藩主により現在地の高津に移して再建された。

 江津市黒松の海岸を、底干浦といひ、人麻呂夫妻の歌が伝はる(八重葎)。

 ○天地の底干の浦に我ごとく君に恋ふらん。人はさねあらじ     伝依羅娘子

 ○みち潮の底干の浦にくらぶれば、我が衣手は猶や沈まん      伝柿本人麻呂



諸句

 ○それゆゑに津和野なつかし鴎外忌                虚子



ちぶり神

隠岐郡西ノ島町浦郷 由良比女神社

 隠岐の西ノ島町の由良比女(ゆらひめ)神社は、由良比女命をまつる。この神は「ちぶり神」ともいはれ、海上安全守護の神として信仰されてきた。隠岐国の一宮。

 ○わたつみのちぶりの神に手向けするぬさの追ひ風、やまず吹かなん

 ○行く今日も、帰らんときも、玉鉾のちぶりの神を祈れとぞ思ふ   袖中抄



隠岐神社

隠岐郡中ノ島

 隠岐神社は中ノ島(海士町)の後鳥羽上皇の御廟にまつられた。

 ○髪挿(かざ)し折る人もあらばや、事問はむ。隠岐のみ山に杉は見ゆれど  後鳥羽上皇