因幡の兎
鳥取市の
○
因幡国府
むかし仁徳天皇のころ、老齢の
○新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや
○ふる雪のいやしけ吉事、ここにして歌ひあげけむ。
国府の北の稲葉山は、在原行平が斉衡四年に因幡守として赴任したときに、歌に詠まれた。故郷の大和国葛城に残してきた母へ贈った歌といふ。
○立ち別れ、稲葉の山の峰におふるまつとし聞かば、今帰り来む 在原行平
鳥取部
古代の部民の
○一つひよどり、二つが
七つ長尾に、八つが山鳥、九つ駒鳥、十で
湖山池
鳥取市の西方の
○春来れば花の都を見てもなほ霞の里に心をぞやる 和泉式部
むかし湖山長者が、山に登って領地の田植風景を見てゐると、植ゑきらぬうちに日が沈みかけたので、山の上から扇で夕日を仰いで日没を止めたといふ伝説もある。日を動かしたために神の怒りにふれ、山が沈没してできたのが湖山池だともいふ。湖山長者が建てた摩尼寺のある摩尼山からは、彼岸の中日に限って夕日が後戻りするのが見えるともいふ。
諸歌
○敷島の歌のあらす田、あれにけり、あらすきかへせ歌のあらす田 香川景樹
江戸後期の蘭学者、稲村三伯は鳥取藩医の養子となり江戸へ出て蘭和辞典を作った。
○いく薬くすしき種のひとくさを豊葦原にまきし人これ 稲村三伯
鳥取砂丘を有名にした歌(大正十二年)。
○浜坂の遠き砂丘の中にして、さびしき我を見出でけるかも 有島武郎
倭文神社
○天なるや
御統に 穴玉はや み谷
後醍醐天皇と瓊子内親王
元弘二年、隠岐島へ向かはれる後醍醐天皇の一行は、
○春の日のめぐるも安き尾車のうしと思はで暮らすこの里 後醍醐天皇
御出発のとき、守護職の佐々木某は、お伴の女房が連れてゐた童女に不審を抱いた。童女は身分の低いいでたちではあったが、女房の娘ではなく、皇女の
瓊子内親王はこのとき十六歳で、さる上人のもとにあづけられた。天皇が京に還られて建武の新政を興されてのちも、この地に留まって尼僧となり、天皇から領地を賜って安養寺を開基されたといふ。瓊子内親王と同母兄の尊良親王との歌のやりとりが、新葉和歌集にある。出家の身が羨ましいといふ兄を激励されてゐる。
○いかでなほ我もうき世をそむきなむ。うらやましきは墨染の袖 尊良親王
○君はなほそむきなはでぞ、とにかくに定めなき世の定めなければ 瓊子法内親王
元弘三年、山陰の豪族
○忘れめや、よるべも波の荒磯をみ船の上にとめし心を 後醍醐天皇
大山 楽楽福の神
○大山は雲の上にて。海原に沈み果てたる日に照れるかな 山下陸奥
修験の山、大山の西麓に、楽楽福神社がある。吉備津彦命の父である孝霊天皇が、伯耆に行幸のとき、鬼住山の鬼を退治された。のちこの地に崩御されて、笹で屋根を葺いた社殿にまつられたといふ。ささふくは、「
○たたら内では金屋子神、宮のかかりを見たならば、金の御幣が舞ひ上がる 番子歌
三朝温泉
源義朝の家臣の大久保左馬之祐が、源氏再興のために三徳山(三朝町東部)の三仏寺に参篭したときに、夢によって発見したのが
○泣いて別れりゃ空まで曇る、曇りゃ三朝が雨となる(三朝小唄) 野口雨情