因幡の兎

鳥取市

 鳥取市の千代(せんだい)川の西の地域を、古くは高草(たかくさ)郡といった。高草とは竹のことである。昔この地の竹林に、老いた兎が住んでゐた。あるとき千代川の大洪水がおこり、竹林は根こそぎ流されたが、兎は竹につかまって漂流し、隠岐島に流れ着いたといふ。この兎が、のちに大国主命に助けられる因幡の兎である。(風土記逸文)

 ○(わに)の背に似たる岩見ゆ、(がま)ならぬ浪の花ちる気多(けた)の岬に     北里蘭翁



因幡国府

宇倍神社  岩美郡国府町

 むかし仁徳天皇のころ、老齢の竹内宿禰(たけうちのすくね)が因幡国を訪れ、二つの沓を残したままどこかへ姿を消したといふ。その地に建てられたのが、岩美郡国府町の宇倍神社(因幡国一宮)であり、竹内宿禰をまつってゐる。近くに因幡国府跡があり、万葉時代には大伴家持が因幡守として赴任した。家持が因幡で新年を迎へたときの歌が、万葉集の巻末にある。

 ○新しき年の初めの初春の、今日降る雪のいや()け。吉言(よごと)     大伴家持

 ○ふる雪のいやしけ吉事、ここにして歌ひあげけむ。言祝(ことほ)ぎの歌  佐々木信綱

 国府の北の稲葉山は、在原行平が斉衡四年に因幡守として赴任したときに、歌に詠まれた。故郷の大和国葛城に残してきた母へ贈った歌といふ。

 ○立ち別れ、稲葉の山の峰におふるまつとし聞かば、今帰り来む  在原行平



鳥取部

鳥取市

 古代の部民の鳥取部(とっとりべ)が、鳥取郷(鳥取市)に住んで、その沼沢地帯で鳥を取ったらしい。垂仁天皇の御代に、言葉をしゃべらぬ皇子の本牟智和気(ほむちわけ)王のために(くぐひ)を追ひかけた山辺(やまべの)大鷹(おほたか)は、因幡国で向きを変へて、更に東へ追ったといふ。後世、鳥取地方の初春の祝狂言で歌はれる「さいとりさしの歌」は、殿様の鷹狩の餌にする小鳥をとるときの歌といふ。

 ○一つひよどり、二つが(ふくろふ)、三つ木菟(みみずく)、四つが夜鷹、五ついるかに、六つが百舌鳥(もず)

  七つ長尾に、八つが山鳥、九つ駒鳥、十で(とび)  さいとりさしの歌



湖山池

鳥取市

 鳥取市の西方の湖山(こやま)池の周辺を「霞の里」といった。和泉式部の生誕地ともいひ(ただし伝承地は諸国にあり)、式部は父の大江定基が因幡守だったときに生まれたともいふ。

 ○春来れば花の都を見てもなほ霞の里に心をぞやる        和泉式部

 むかし湖山長者が、山に登って領地の田植風景を見てゐると、植ゑきらぬうちに日が沈みかけたので、山の上から扇で夕日を仰いで日没を止めたといふ伝説もある。日を動かしたために神の怒りにふれ、山が沈没してできたのが湖山池だともいふ。湖山長者が建てた摩尼寺のある摩尼山からは、彼岸の中日に限って夕日が後戻りするのが見えるともいふ。



諸歌

 ○敷島の歌のあらす田、あれにけり、あらすきかへせ歌のあらす田 香川景樹

 江戸後期の蘭学者、稲村三伯は鳥取藩医の養子となり江戸へ出て蘭和辞典を作った。

 ○いく薬くすしき種のひとくさを豊葦原にまきし人これ      稲村三伯

 鳥取砂丘を有名にした歌(大正十二年)。

 ○浜坂の遠き砂丘の中にして、さびしき我を見出でけるかも    有島武郎



倭文神社

鳥取県東伯郡東郷町

 倭文(しとり)神社(伯耆国一宮)は、健葉槌(たけはづち)命、下照姫(したてるひめ)命をまつる。健葉槌命は、当地で倭文(しづをり)を広めた倭文部(しとりべ)の祖神である。下照姫命は大国主命の娘神で、出雲から移り住んだとされ、倭文神社の経塚は、下照姫の墓ともいふ。

 ○天なるや 弟棚機(おとたなばた)の (うな)がせる 玉の御統(みすまる)

   御統に 穴玉はや み谷 二渡(ふたわた)らす 阿遅志貴(あぢしき)高彦根神(たかひこねのかみ)    下照姫

 阿遅志貴(あぢしき)高彦根神とは下照姫の兄であり、死んだ姫の夫の天稚彦(あめのわかひこ)と間違へられて泣き叫んだ神である。「み谷二渡らす」とは蛇体であったらしい。



後醍醐天皇と瓊子内親王

米子市車尾

 元弘二年、隠岐島へ向かはれる後醍醐天皇の一行は、車尾(くつも)村(米子市車尾)の深田長者の家を宿として、数日の滞在をされた。そのとき天皇の詠まれた御歌。

 ○春の日のめぐるも安き尾車のうしと思はで暮らすこの里     後醍醐天皇

 御出発のとき、守護職の佐々木某は、お伴の女房が連れてゐた童女に不審を抱いた。童女は身分の低いいでたちではあったが、女房の娘ではなく、皇女の瓊子(たまこ)内親王であった。鎌倉幕府の沙汰では同行が許されたのは、わづかの女房蔵人だけであり、まして皇族がともに行くことができるものではなかった。天皇は、内親王を車尾に残して隠岐へ旅立たれた。

 瓊子内親王はこのとき十六歳で、さる上人のもとにあづけられた。天皇が京に還られて建武の新政を興されてのちも、この地に留まって尼僧となり、天皇から領地を賜って安養寺を開基されたといふ。瓊子内親王と同母兄の尊良親王との歌のやりとりが、新葉和歌集にある。出家の身が羨ましいといふ兄を激励されてゐる。

 ○いかでなほ我もうき世をそむきなむ。うらやましきは墨染の袖  尊良親王

 ○君はなほそむきなはでぞ、とにかくに定めなき世の定めなければ 瓊子法内親王

 元弘三年、山陰の豪族名和(なわ)長年が、船上山で賜った後醍醐天皇の御製。

 ○忘れめや、よるべも波の荒磯をみ船の上にとめし心を      後醍醐天皇



大山 楽楽福の神

日野郡溝口町

 ○大山は雲の上にて。海原に沈み果てたる日に照れるかな     山下陸奥

 修験の山、大山の西麓に、楽楽福神社がある。吉備津彦命の父である孝霊天皇が、伯耆に行幸のとき、鬼住山の鬼を退治された。のちこの地に崩御されて、笹で屋根を葺いた社殿にまつられたといふ。ささふくは、「砂鉄(ささ)吹く」の意味で、古代の製鉄神だともいふ。

 ○たたら内では金屋子神、宮のかかりを見たならば、金の御幣が舞ひ上がる 番子歌



三朝温泉

東伯郡三朝町

 源義朝の家臣の大久保左馬之祐が、源氏再興のために三徳山(三朝町東部)の三仏寺に参篭したときに、夢によって発見したのが三朝(みささ)温泉であるといふ。

 ○泣いて別れりゃ空まで曇る、曇りゃ三朝が雨となる(三朝小唄) 野口雨情