吉備津彦命
出雲と並ぶ古代王国を築いた吉備国は、古代からの鉄の産地で、「真金吹く」といふ枕詞は、製鉄の様子からきた言葉といはれる。
○まかね吹く吉備の中山、帯にせる細谷川の音のさやけさ 古今集
吉備の中山とは、備前と備中の境の山で、左右に吉備津神社と吉備津彦神社がある。備前国と備中国の一宮が寄り添ってゐるが、もとは一つの吉備国であった。
吉備津神社の御釜殿の竃の下には、むかし吉備津彦命が退治した鬼の首が埋めてあるといふ。その上で釜鳴神事と呼ばれる占の神事が現在も行なはれる。桃太郎の伝説もある。
○古の人の
○餅雪や日本一の吉備だんご
牛窓
むかし神功皇后の船が吉備の沖を通ったとき、海中から牛が現はれ、船を転覆させようとした。神に祈ると、住吉の神が翁の姿で現はれて、角をつかんで牛を転ばした。そこでこの土地を
○牛窓の波の潮騒、島
大陸から移住した人が、祭のときに故国のやりかたで牛を殺して土地の住吉の神に捧げたことを物語るものともいはれる。
二万の里
斉明天皇の御代、百済救援のための兵を吉備国で募集したところ、吉備郡のある村から二万人の兵が集まった。天皇はこれを喜ばれて「二万の里」の地名を賜った。しかし天皇が筑紫で崩御されたため、二万の兵は筑紫からそのまま引き返したといふ。(風土記逸文)
○貢ぎ物、運ぶよほろを数ふれば、二万の里人、数そひにけり 藤原家経
吉備の児島
○大和路の吉備の児島を過ぎて行かば、筑紫の児島、思ほえむかも 大伴旅人
児島半島は、「吉備の児島」と呼ばれた島だった。本土との間に瀬戸内の航路が開けてゐたが、高梁川などの堆積作用と海面の後退により遠浅となり、江戸時代の初めごろから干拓が進んで陸続きとなった。それ以来、半島南端の下津井港が、港町として栄え、参勤交代の大名の船や、金比羅参りの船などで賑はった。
○下津井港は入りよて出よて、
小野小町の難病
京の都で、あるとき小野小町が皮膚病を患ひ、顔が腫れ物だらけになってしまった。倉敷の法輪寺に詣でて祈りを続けたが、いっこうに良い兆しは見えなかったので。歌を詠んだ。
○南無薬師、諸病悉除の願立てて、身より仏の名こそ惜しけれ 小野小町
七日目は小雨だったので蓑笠を着けてお詣りをすると、どこからか歌が聞えてきた。
○村雨はただひとときのものぞかし、おのが蓑笠(身の瘡)そこにぬぎおけ
小町が蓑笠を脱いで傍らの松の枝に掛けると、顔の腫れ物はたちまち消えてなくなった。このとき小町が自分の顔を映して見た井戸が、寺の裏山に今も残る「小町姿見の井戸」である。これに似た話は全国にあり、和泉式部の話(日向国など)になってゐる場合が多い。
高松城水攻
毛利氏を屈伏させようと中国進攻を進めてゐた羽柴秀吉は、備中高松城に川の水を流して攻撃した。天正十年(1482)高松城主の清水宗治は、配下の武士の助命を条件に降伏、自刃を決意した。そのころ本能寺の変の知らせが入り、秀吉は急拠毛利氏側との講和を受入れ、清水宗治は自決した。
○浮き世をば今こそ渡れ。武士の名を高松の苔に残して 清水宗治(辞世)
備中松山城主、三村元親が毛利元就に攻められて自害したときの辞世。
○一たびは都の月と思ひしも、我まつ夏の雲にかくるる 三村元親
主基の国
備中国は大嘗祭でしばしば主基国に選ばれてゐる。
天慶九年 財井 宝福寺(雪舟の居た寺)
○吉備の国たから井をきて植ゑし田のまづ大嘗にあひあけるかも
永承元年 鳥羽(倉敷市)
○牧の駒、
長和五年 上房郡北房町 高岡神社
○はふり子が祈るもしるく高岡の社の神も君を守れる 善滋為政
永承三年 柏島 乙島(倉敷市)
○しじに生ふる柏の島の青柏、祈りわたりて卯月にぞ採る 藤原家経
○天のはら明けて戸島を見渡せば 渚静かに波ぞ寄せくる 藤原家経
玉島
右の柏島、乙島は、倉敷市玉島地方にあった島である。玉島地方は、もとは幾つかの小島が並ぶ浅い海で、江戸時代の初めに干拓がなされた。柏島には柏島神社、乙島には戸島神社がまつられる。
備中松山藩主の水谷勝隆が、玉島の海の干拓を始めるにあたり、氏神である出羽の神を勧請して新開地の守護神とした。今の羽黒山の羽黒神社(倉敷市玉島中央町)である。以来、玉島は、瀬戸内の商港として栄えた。江戸中期の玉島出身の歌人の歌。
○民の戸をまもるや世々の羽黒山 かげしく海の ふかきちかひに 澄月
諸歌
○放たれし野辺のくだかけ岡山の大城恋しく朝夕に啼く 平賀元義
・人見絹枝 岡山県出身陸上選手
○草深き道の彼方の辻堂の小さきあかしをなつかしく見る 人見絹枝
久米の皿山
西日本に広く伝はる昔話である。
娘は、継母の言ひつけで、毎日川で洗ひものをさせられた。ある日、娘が川で笊(ざる)を洗ってゐると、殿様が馬で通りかかった。殿様は一目で娘を気に入り、妻に迎へることにした。殿様が娘の家を訪ねると、継母が二人の娘を前にして、実の子である
○盆の上に皿ある、皿の上に塩ある、塩の上に松ある
次に継子の姉が詠んだ。
○盆さらや、さらてふ山に雪ふりて、それを根として育つ松かな
姉の勝ちとなり、姉娘は駕篭で揺られて、お輿入れとなった。娘の里にある山を、皿皿山と呼ぶやうになったのは、このときからであるといふ。
○美作や久米の皿山、さらさらにわが名は立てじ、万代までに 古今集
古今集の歌の「久米の皿山」は、津山市中島の佐良山を歌ったものといふ。
院ノ庄
元弘二年、後醍醐天皇が隠岐へ向かはれる途中、久米郡
○春来れば桜咲くなり。いにしへのすめらみことのいでましどころ 平賀元義
そのころ児島高徳は、院ノ庄の行在所に先まはりし、館の前の桜の幹に
○天勾践を空しうするなかれ、時に范蠡なきにしもあらず
の詩を刻んだといふ。この地は今の津山市神戸のあたりで、美作の守護職の館が行在所とされた。館跡には明治二年に後醍醐天皇をまつる
○跡見ゆる道のしをりの桜花、この山人の情けをぞ知る 六条少将
蛇淵
作州高貴山菩提寺城の城主、菅原実兼は、寺に参籠中に美しく高貴な姫君と知りあった。妻として迎へ、子の太郎をまうけたが、ある嵐の夜、妻は一首を書き残して姿を消してゐた。
○恋しくば那岐の谷川棲む身なり、変る姿も一目さはるな
妻恋しさに実兼が那岐谷の蛇淵を訪ねると、青々とした水底に巨眼を光らせて蠢いてゐる大蛇を見た。美しい妻は大蛇の化身だったのである。
大歳神社
寛永十五年、出雲国造職の北島氏が京へ上るとき、美作国へ入って新庄宿で暴風雨に遭遇した。雨風を避けようと大歳神社の前まで来ると、神門は固く閉ざされてゐた。国造職が困ってゐると、どこからか声が聞え、鍵がはづれて扉が開いた。国造職は大いに感じるところがあって歌を詠まれた。
○火をえらび水を清むるみつぎもの、風にまかせてそなへてぞ置く
のち国造職からは神社に特別の奉賽があったといふ。
鳥取県から新庄村へ入る四十曲峠は、その名の通りのつづら折りの道が続く。
○名だたるもうべなりけりな。伯耆山この世に知らぬつづら折り道 出雲路日記