国引き

 太古には島根半島は東西に細長い独立の島だったらしい。この内海を野津左馬之助は素尊水道と名づけた。斐伊川(ひのかは)は北流してこの水道に注いでゐたが、長い年月の間に、川の堆積物や海面の後退によって、次第に平野部が広がって行った。やがて出雲平野ができて島は陸続きとなり、歴史時代に入った。島が次第に近づいて行ったさまは、国引き神話を思はせる。斐伊川は平野部を西流して日本海に注いでゐたが、寛永十三年(1636)の大洪水によって東流し、以来東の宍道(しんぢ)湖の干拓が進んだ。

 ○国引ける神のゑいざや今も見ん、綱手(つなで)なるてふ薗の松山      村田春海

 「薗の松山」とは、半島の西の付け根の「薗の長浜」のことで、八束(や つか)水臣(みづおみ)津野(つの)命といふ巨人が島に綱を掛けて国引きをしたときの綱の名残りだといふ。