山中鹿之介

能義郡広瀬町

 戦国大名の尼子氏の居城の富田(とだ)城(月山城)は今の能義郡広瀬町の地にあった。尼子氏の家臣、山中鹿之介は少年時代からの剣の達人で、数々の一騎打ちを演じるなど、戦国の世にその名をとどろかせた豪勇だった。しかし毛利氏の勢力の前に、尼子氏は衰退を余儀なくされた。永禄八年(1565)、富田城を毛利の大軍に包囲され、山の端にかかる三日月を見て、鹿之介は「三日月よ吾に七難八苦を与へたまへ」と唱へ、闘志をふるひ立たせた。このとき二十一歳。

 ○憂きことのなほこの上に積もれかし。限りある身の力ためさん  山中鹿之介

 翌年富田城は落城、鹿之介はその後も主家再興のために愛用の三日月の兜とともに孤軍奮闘を続けたが、天正七年備中の高梁川で戦死した。