八十島祭

難波

 八十島祭(やそしままつり)とは、天皇の即位礼の翌年に行なはれた皇位継承の儀式の一つで、平安時代から鎌倉中期まで行なはれた。難波(大阪市北区・福島区のあたり)には大小多数の島々があり、これらの島々を大八洲(おほやしま)に見立て、島々の霊を招き寄せて大八洲の主としての天皇の資格を祝福するものといはれる。後鳥羽院の八十島祭にしたがった津守経国の歌。

 ○天の下のどけかるべし。難波潟、田蓑(たみの)の島に御祓しつれば      津守経国

 八十島は、田蓑島のほかに中之島、福島、曽根洲、柴島(くにじま)などの地名に残る。

 ○おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば

   淡島(あはしま) 自凝島(おのころじま) 檳榔(あぢまさ)の 島も見ゆ (さけ)つ島見ゆ          仁徳天皇



長柄の人柱

大阪市淀川区東三国町

 むかし難波の入り江は八十島といはれたほど州が多く、そこに架けられた橋はよく流された。推古天皇の御代に、垂水(たるみ)の里と長柄(ながら)の里のあひだに、橋を掛け直すことになったといふ。二度と流されることのないやうにと、垂水長者の岩氏(いはじ)は、袴に継ぎのある者を人柱にすべしと進言した。ところが言ひ出した長者自身が継ぎ袴を着けてゐたため、人柱となったのである。

 橋が無事に完成してのち、長者の娘は、北河内の甲斐田(かひた)長者に嫁いだが、いつまでたっても口をきくことができなかった。とうとう垂水の里に帰されることになって、里近くの雉子畷(きぎしなはて)まで来たとき、一羽の雉子が鳴き声をあげて飛び立った。甲斐田長者がこの雉子を射ると、それを見てゐた妻が突然歌を詠んだ。

 ○ものいはじ。父は長柄の橋柱。鳴かずば雉子(きじ)も射られざらまし

 夫は妻が口をきけるやうになったことを喜び、甲斐田の里へ連れ戻って、幸せに暮らしたといふ。

 『神道集』によると、垂水長者が人柱になったとき、その妻は幼児を背負ったまま川に身を投げたといふ。そのとき歌を残した。

 ○ものいへば長柄の橋の橋柱。鳴かずば雉子のとられざらまし

 この妻は橋姫と呼ばれ、里人は橋姫をあはれんで橋姫明神をまつったといふ。

 水神の信仰には古く母子神が関ってゐるらしい。柳田国男によれば、各地の沼や河辺に伝はる竜神と人身御供の話は、類似の話が多く、諸国を巡遊した山伏や比丘尼(びくに)によって広まった物語であって、歴史的事実を伝へるものではなからうといふ。



難波の橋姫

 むかし都を離れて難波に住んでゐた中将があった。二人の妻があったが、本妻の宇治の橋姫は、長くつはりで苦しんでゐた。七色のわかめが効くといふので、それを求めて中将は、難波の海に出たが、そのまま三年たっても帰らなかった。

 橋姫が夫をさがして夕暮の浜辺をさまよってゐると、一軒の家があった。家に入ると、老婆があり、老婆の話に、中将は竜宮に行って婿になったと聞かされた。老婆は、今夜中将が来るので迎へにゆくといひ、橋姫に火にかけた鍋の中を決して見てはいけないと言ひ残して部屋を出た。橋姫が言ひつけ通りに待ってゐると、隣の部屋で酒盛りの声がする。老婆が現はれて、橋姫に隣の部屋を覗かせると、もののけの宴の中で、やつれた姿の夫が、歌ばかり繰り返して歌ってゐた。

 ○さむしろに衣かたしき今宵もや、我を待つらむ宇治の橋姫     古今集

 かうして老婆のはからひで、橋姫と中将は、涙の対面を喜びあったが、中将は身の不遇を嘆き、再会を約束してその日は別れることになった。

 橋姫は、夫に逢へた喜びを、中将の別の妻に語った。するとその妻も一人で浜の老婆の家に出かけた。ところが妻は「鍋を見るな」の言ひつけも守らず、中将の「さむしろに」の歌に、橋姫ばかりに思ひを寄せてゐると嫉妬し、老婆の家を飛び出した。門の外に出て振り返って見ると、今まであった家は消えてなくなり、ただ砂浜の上に板屋貝が一つあるのみだったといふ。中将は二度と戻らず、橋姫は別の妻に語ったことを悔やんだといふ。

 ○ちはやぶる宇治の橋姫、(なれ)をしぞあはれと思ふ年の経ぬれば    奥儀抄



蘆刈

難波

 摂津国、難波に若い夫婦がゐた。何かの原因で収入を断たれ、仕へてゐた者も去り、屋敷は荒れ放題で、将来を案じる毎日だった。男は、若い妻の貧しい姿を見るに忍びず、「汝は京に上って宮仕へをせよ」と言ひ、再会を約束して二人は別れることになった。

 妻は京の貴族の家に仕へることができたが、夫のことを忘れず、たびたび故郷に手紙を出すが、一度の返事もなく、夫の行方は杳として知れなかった。そのうちに家の北の方が亡くなると、女は貴族の妻に迎へられた。幸せな暮らしではあったが、やはり摂津のことは気になってしかたがない。あるとき難波の祓への行事を知り、それを口実に別れた夫を捜しに難波に出かけた。

 難波のもと居た家は跡もなく、捜しあぐねて日も暮れかかるころ、車の前を蘆刈(あしかり)の男が横切った。乞食のやうないでたちだったが、別れた夫に似てゐる。伴の者に、男の葦をすべて買ひ上げるやうに言ひ、男を呼び寄せた。近寄る男の顔は、別れた夫に間違ひなく、涙があふれ、男に食物と衣服を与へるやうにいった。そのとき、車の下簾の陰から、女の顔が、男の目に入った。別れた妻の顔である。男は自分のみすぼらしい姿をみじめに思ひ、その場に葦を投げ棄てて逃げ出した。近くの家に飛びこんで竃の陰に隠れた。伴の者がやうやく探し出したが、声をかけてもそこを動かず、ただ硯と墨を乞うて歌を書いて渡すだけだった。

 ○君なくてあしかりけると思ふにも、いとど難波の浦ぞすみうき

 歌を受け取ると、女はよよと泣いて、自分の衣服を脱いで与へ、歌を書き添へて、京へ去っていったといふ。

 ○あしからじとてこそ人の別れけめ。何か難波の浦もすみうき    大和物語



曽根崎天神

北区

 曽根崎は、上古には曽根州(そ ねのしま)と呼ばれた孤島だった。島に一小祠があり、難波八十島祭の一つの往吉住地曽祢の神をまつったことから曽根州の名となったといふ。

 延喜元年、菅原道真が筑紫への道すがら、この曽根崎を過ぎたとき、路ばたの草の露が袖を濡らしたので、歌を詠んだ。

 ○露と散る涙に袖は朽ちにけり。都のことを思ひ出づれば      菅原道真

 この歌から曽根の神は「(つゆ)天神社」と呼ばれ、のちに道真の霊が合祀された。梅雨入りのころ境内から清水が涌き出たので「梅雨(つゆ)の天神」といったともいふ。地名から「曽根崎天神」とも呼ばれ、近松門左衛門の「曽根崎心中」(お初徳二郎)の舞台となったことから「お初天神」とも呼ばれる。上田秋成は曾根崎生まれ。



道明寺天満宮

藤井寺市道明寺

 菅原道真公が太宰府へ赴任するとき、難波から内湾を通って南河内の道明寺(藤井寺市)へ向かふ船の中で歌を詠んだ。

 ○世につれて浪速(なには)入江もにごるなり。道明らけき寺ぞ恋ひしき    菅原道真

 道明寺に住む伯母の覚寿尼に、暇乞ひをするために立ち寄ったのである。一泊して、まだ夜の明けぬころ、鶏が鳴いた。

 ○鳴けばこそ別れも憂けれ。(とり)の音の聞えぬ里の暁もがな      菅原道真

 早く鶏が鳴いたため、道真は、不満足な思ひで旅立つことになった。以来、里人は鶏を飼はず、今も鶏の肉を食べないといふ。「鶏が鳴けば神は帰らねばならぬ」(折口信夫)といふ古代の信仰が考へられる。また同族の土師氏がまつったともいふ埼玉県の鷲宮神社など、土師氏菅原氏と鳥との縁も想像される。道真公は道明寺天満宮にまつられてゐる。



交野

枚方市 片埜神社

 垂仁天皇の皇后の葬儀のときに埴輪を考案した野見宿禰(の みのすくね)は、土師臣(はにしのおみ)の姓を賜り、河内国に所領を賜った。河内の土師一族は、その氏神として片埜(かたの)神社(枚方市)を創祀し、出雲国の祖神の素戔嗚尊をまつった。後世に土師氏の後裔の菅原道真が合祀された。

 野見宿禰が埴輪を造って古墳の副葬品として以来、殉死の制が廃止されたといはれてゐたが、わが国に殉死の史実が確認されないことから、殉死廃止の話は大陸の説話を習合したものと考へられてゐる。

 交野(かたの)の地は、遊猟の地、桜の名所として知られ、伊勢物語では惟喬親王と在原業平が、渚の院の桜や、天の川をめでた話が伝はる。

 ○世の中に絶えて桜のなかりせば、春の心はのどけからまし     在原業平

 ○狩り暮らし、棚機女(たなばたつめ)に宿借らむ。天の河原にわれは来にけり    在原業平



草香江

 古代には河内国の中央部まで入江が入り込み、この入江に淀川と大和川が流れこんでゐた。この内湾を、草香(くさか)江とも河内湾とも呼んでゐる。

  ○草香江(くさかえ)の入江の(はちす)。花蓮。身の盛り人、(とも)しきろかも      赤猪子

 大和川は、宝永元年(1704)に現流域に付け替へられ、西流することになった。



江口の遊女

東淀川区

 今の淀川と神崎川の分岐点付近に、江口といふ古くから栄えた港があり、遊女の伝説もある。

 むかし西行法師が江口の里で宿を乞ふと、その家から「妙の君」と名告る遊女が現はれ、ここは僧の泊まるところではないのでと断ってきたので、西行は歌を詠んだ。

 ○世の中を厭ふまでこそかたからめ、かりの宿りを惜しむ君かな   西行

 妙の君は、さらに歌で断った。

 ○世をいとふ人とし聞けば、かりの宿に心とむなと思ふばかりな   妙

 西行は、妙の君の歌に感心し、そこを引き下がって他の宿を求めたといふ。妙の君はのちに寺を建て、死ぬときは普賢菩薩の姿になって天に昇ったといふ。

 後世のこと、ある旅僧が江口の里を訪れると、積塔があるので、里の男にその言はれを尋ねてみると、遊女の墓だといふ。僧は、伝説の西行法師の歌を思ひ浮かべた。するとどこからか女が現はれて、遊女妙の君の歌を口にした。女は自分が妙の化身だと述べた。(謡曲・江口)



住吉神社

住吉区

 住吉(すみよし)神社は、神功皇后の新羅征伐のときにまつられたといひ、航海安全と軍の神として信仰されてきた。古くから歌垣も開かれ、万葉時代には、その集ひを「墨江(すみのえ)小集楽(をずめ)」といった。

 むかし田舎のある夫婦が、住吉の歌垣の集ひに参加したとき、妻の美しさが他のどの女よりも増して一番だったものだから、男はますます妻のことを愛しく思ひ、歌を詠んだ。

 ○住吉(すみのえ)のをづめに出でて、まさかにも、己妻(おのづま)すらを、鏡と見つも   万葉集3808

 住吉の神は、和歌の神としても信仰され、和歌三神とは、住吉の三神(上筒之男(うはつつの を )命、中筒之男命、底筒之男命)のことともいひ、住吉と玉津島明神と天満宮のことだともいふ。

 ○(しめ)結ひてわが定めてし住吉の浜の小松は、のちもわがまつ     余明軍

 社地の西方は浜になってゐたが、時代とともに浦は浅くなり、慶長のころから、干拓や新田開発が盛んに行はれた。

 ○住吉の新田ふえて年々に、あとずさりする岸の姫松        太田南畝



蟻通明神

泉佐野市長滝字蟻通 蟻通神社

 蟻通(ありとほし)神社(泉佐野市)は大名持(おほなもち)命をまつる。

 むかし紀貫之が、和歌の神で知られる紀州の玉津島神社を参詣した帰りのこと、和泉国で急に日が暮れて雨模様となり、馬が死にさうになった。その土地の神である蟻通し明神のなせるわざであると聞いて、次の歌を読んで奉納すると、馬は回復したといふ。

 ○かき曇りあやめも知らぬ大空にありとほしをば思ふべしやは 紀貫之
  (有りと星、蟻通し をかける)

 次のやうな伝説もある。
 むかし唐から七曲りの細穴を抜いた玉が贈られて来たが、誰もこの穴に緒を通すことができなかった。ある老夫婦の智恵により、蟻の腰に糸を繋ぎ、蜜を反対側の穴の口に塗って蟻を這はせ、見事に糸を通すことができた。それ以来わが国でも老人を大切にするやうになったといふ。この老夫婦に孝養を尽くしてきた某中将は、のちに神と崇められ、蟻通の明神にまつられたといふ。

 ○七曲に曲れる玉の緒を抜きて、ありとほしとも知らずやあるらん  中将の神

信太の狐

和泉市葛葉町 信太森神社(葛葉稲荷神社)

 摂津国の安倍保名(あ べのやす な)は、ある日、和泉国信太(しのだ)の森で狩人に追はれた狐を助けたことがある。恩を感じた狐は女の姿となり、「(くず)の葉」と名告り、保名の妻となって一児をまうけた。ある日、庭の菊の花に見とれて狐の本性を子どもに悟られてしまひ、狐は歌を書き残して去っていった。

 ○恋しくば、たづね来てみよ。和泉なる信太の森のうらみ葛の葉

母をたづねたその子は、狐から霊力を授かったといふ。この子が、のちの陰陽の頭、天文博士の安倍晴明であるといふ。



諸歌

 ○嬢子らにをとこ立ち添ひ、踏みならす。西の都は万代の宮     続日本紀

 堺市甲斐町うまれの歌人の歌

 ○海恋し潮の遠鳴りかぞへては少女となりし父母の家        与謝野晶子