長柄の人柱

大阪市淀川区東三国町

 むかし難波の入り江は八十島といはれたほど州が多く、そこに架けられた橋はよく流された。推古天皇の御代に、垂水(たるみ)の里と長柄(ながら)の里のあひだに、橋を掛け直すことになったといふ。二度と流されることのないやうにと、垂水長者の岩氏(いはじ)は、袴に継ぎのある者を人柱にすべしと進言した。ところが言ひ出した長者自身が継ぎ袴を着けてゐたため、人柱となったのである。

 橋が無事に完成してのち、長者の娘は、北河内の甲斐田(かひた)長者に嫁いだが、いつまでたっても口をきくことができなかった。とうとう垂水の里に帰されることになって、里近くの雉子畷(きぎしなはて)まで来たとき、一羽の雉子が鳴き声をあげて飛び立った。甲斐田長者がこの雉子を射ると、それを見てゐた妻が突然歌を詠んだ。

 ○ものいはじ。父は長柄の橋柱。鳴かずば雉子(きじ)も射られざらまし

 夫は妻が口をきけるやうになったことを喜び、甲斐田の里へ連れ戻って、幸せに暮らしたといふ。

 『神道集』によると、垂水長者が人柱になったとき、その妻は幼児を背負ったまま川に身を投げたといふ。そのとき歌を残した。

 ○ものいへば長柄の橋の橋柱。鳴かずば雉子のとられざらまし

 この妻は橋姫と呼ばれ、里人は橋姫をあはれんで橋姫明神をまつったといふ。

 水神の信仰には古く母子神が関ってゐるらしい。柳田国男によれば、各地の沼や河辺に伝はる竜神と人身御供の話は、類似の話が多く、諸国を巡遊した山伏や比丘尼(びくに)によって広まった物語であって、歴史的事実を伝へるものではなからうといふ。