白鳥の関
むかし近江国にある夫婦が幸せに暮らしてゐたが、ある朝目覚めると、妻の姿はいづこともなく消え失せ、ただ枕もとに
○あさもよひ、紀の川ゆすり行く水のいつさやむさや、いるさやむさや
手束弓とは
○吾が
○あさもよひ紀の関守が手束弓、ゆるすときなくまづゑめる君 袖中抄
伊太祁曽神社
○天なるや。八十の
○山々の木々の栄えを、木の国の栄えと守る伊太祁曽の神 本居大平
◇
親神の
○朝もよし紀路のしげ山分けそめて木種まきけん神をし思ほゆ 本居宣長
玉津島神社
和歌の神ともいはれる玉津島神社は、もと
○年を経て波の寄るてふ玉の緒に抜きとどめなん。玉出づる島 宇津保物語
むかし聖武天皇が紀州に行幸されたとき、玉津島神社の背後の
○玉津島。見れども飽かず。如何にして包み持ち行かむ。見ぬ人の為 藤原卿
聖武天皇はたびたび紀州に行幸され、神亀元年(724)のときには、山部赤人が鹽竃神社付近で詠んだ歌がある。鹽竃神社は、元は玉津島神社の祓所であったといふ。
○和歌の浦に潮みち来れば、潟を無み葦辺をさして鶴鳴きわたる 山辺赤人
いさな取り
新続古今集の玉津島明神を歌った歌。允恭紀にもある。
○とこしへに君も逢へやも、
「いさなとり」は海にかかる枕詞とされ、いさなは鯨の古語である。季節を定めて近海に現はれる鯨は、海の豊漁をもたらす神とされた。実際に鯨は餌となるべき小魚の群を追って近海に現はれることが多く、集まった魚の群が豊漁をもたらしたのである。捕鯨が行なはれるときも、食肉用、鯨油用、その他、鯨は全ての部分が無駄なく利用され、鯨は一頭捕れば七浦が栄えるともいはれた。新宮市三輪崎の八幡神社の鯨踊は、鯨の捕獲と豊漁を祝ふ祭であり、鯨の供養の祭でもあった。鯨を供養した塚は全国にある。アメリカでは油とひげ以外を全て廃棄した長い乱獲時代の反省もあり、石油やプラスチック製品で代用できるやうになって捕鯨が全面禁止され、これが欧米主導による国際標準とされた。太地町には鯨博物館がある。
竃山神社
神武天皇の兄の
○をたけびの 神代のみ声 思ほへて 嵐はげしき竃山の松 本居宣長
藤白神社
斉明天皇が紀の湯(白浜湯崎)に行幸された時、旅の無事を祈ってまつった神が、
○家にあれば
聖武天皇の玉津島行幸の際、僧の行基を藤白神社に参詣させて、皇子誕生を祈願したところ、高野皇女(称徳天皇)がお生まれになった。その縁で光明皇后から社領を賜って以来、「子授け・安産・長寿」の神として信仰を集めた。その後、熊野三山の遥拝所とされ、熊野九十九王子のうち藤白王子をまつり、藤白若一王子社とも呼ばれた。
粉河寺
○父母の恵みも深き
むかし素意法師がまだ出家してゐなかったころ、粉河の観音に参篭して、どの地で修行して往生をとげるべきかと祈ったところ、内陣より歌が聞えたといふ。
○花衣かざらき山に色替へて紅葉の外に月を眺めよ 玉葉集
かざらき山(風猛山)は、粉河寺の背後の山のことである。
石童丸
筑紫の加藤左衛門氏繁は、ある年の花見の宴で、ふと無常を感じ、歌を残して都へのぼり仏の道に入った。
○ましらなく深山の奥に住みはててなれゆく声や友と聞かまし
筑紫ではまもなく子の石童丸が生まれた。父氏繁は十三年間の修行の後ち、高野山に入った。そのころ、石童丸は母と連れ立って、父に会ふために高野山への旅に出た。高野山は女人禁制のため、母はふもとの村に残り、石童丸一人で山にのぼった。高野山には三千の寺と二万人の僧がゐるといふ。道行く僧のすべてに父の名を告げて聞いても、知るものはなかった。ある日、ふと声をかけた僧に、父は既に死んだと告げられた。
○父母のしきりに恋し雉子の声 芭蕉
○忘れても汲みやしつらむ。旅人の高野の奥の玉川の水 弘法大師
糸鹿山
有田市糸我町中番の稲荷神社には、京都の伏見に稲荷の神が降臨した一七〇年前に、稲荷の神が現はれて豊作をもたらしたといふ。
○熊野道のいと高山のこなたなる、
右の歌の「宇気の女神」は稲荷神のこと、「いと高山」か縮まって
白河院の熊野御幸の折り、紀伊国の糸鹿坂に輿をとどめて、しばし休息された。そのときお伴の平忠盛が、近くに根を伸ばしてゐたぬかご(山芋の子)を掘って献上した。
○いもが子は這ふほどにこそ成りにけり(妻の子は這ふほどに成長しました)
白河院のこたへた歌。
○ただもりとりて養ひにせよ(忠盛が育てよ)
歌に詠まれた子とは、平清盛のことである。平氏は、厳島の神とともに熊野の神を深く信仰し、源氏の八幡神崇敬と対抗するかのやうであったといふ。
宮子姫
むかし日高郡地方の海女の宮子姫は、藤原不比等の養女となり、文武天皇の后となって聖武天皇をお生みになったといふ。宮子姫の請願により、
○
道成寺
醍醐天皇のころ、奥州白河に安珍といふ僧があり、毎年の熊野詣の折り、紀州牟婁郡の真砂庄司の家を宿としてゐた。この家に清姫といふ幼い女の子があり、ある年、安珍が宿を借りたとき、戯れの話に、妻にして奥州へ連れて帰らうなどと言ったことがあった。この言葉を幼い女の子は心に深く刻みこんでゐた。
延長六年秋、安珍がこの家に泊ったとき、十三歳になった清姫が、寝床に忍び込んで来て結婚を迫った。安珍は熊野の参詣を終へてからもう一度立ち寄るからと、歌を交はして旅立った。
○先の世の契りのほどを、み熊野の神のしるべもなどか無からむ 清姫
○み熊野の神のしるべと聞くからに、など行く末の頼もしきかな 安珍
安珍は修行の身で結婚などできず、後悔の念にかられた。清姫は、なかなか帰らない安珍を捜しにさまよひ歩いた。道行く人に尋ねると、すでに安珍は牟婁を離れて逃げようとしてゐた。必死の形相で追ひかける清姫は、蛇体となって切目川、天田川を一気に渡り、道成寺へ至って安珍が釣鐘の中に隠れると、釣鐘を七巻きに巻いて怒り狂ひ、激しい炎で鐘もろとも溶かして灰にしてしまった。蛇はそのまま入り江に沈んで行方はわからなくなったといふ。
○恐ろしな胸のおもひに沸きかへり惑ひし鐘も湯とやなりけん 似雲法師
岩代の松
謀反の疑ひをかけられ、紀伊国牟婁温泉に呼び出された有間の皇子は、旅の途中で行く末を祈り、松の枝を結んだ。
○
南方熊楠
和歌山市に生まれた
○一枝も心して吹け、沖つ風。
昭和三十七年、再び南紀を行幸された昭和天皇の御製。
○雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ 昭和天皇
熊野三社
日本書紀に、
○
平安時代以降、南へ向かふ海岸は聖地とされ、南方海上にあるといふ観音の浄土、補陀落世界へ往生しようとする信仰(
○ふだらくや岸打つ波はみ熊野の那智のみ山にひびく滝つ瀬 御詠歌
○千はやぶる熊野の神のなぎの葉を、からぬ
伊奘諾尊が
○岩にむす苔ふみならす、み熊野の山のかひある行く末もがな 後鳥羽院
本宮は熊野川の上流の川の中州にまつられてゐたが、明治二二年の洪水で社殿が流され、川の西岸に再建されたといふ。このときの洪水の原因は、上流域の森林の乱伐が原因であると断定され、森林保護の政策もとられた。昭和以後の各地の洪水では、木の神への畏敬が薄れたためか、正しい原因を考へなくなってゐるやうだ。