白鳥の関

和歌山市湯屋谷 旧中山村

 むかし近江国にある夫婦が幸せに暮らしてゐたが、ある朝目覚めると、妻の姿はいづこともなく消え失せ、ただ枕もとに手束(た つか)(ゆみ)が置いてあるだけだった。男はこの弓を妻の形見と思ってしばらく暮らした。ある日、弓は白鳥の姿に変って飛び立ち、男がどこまでも追ひかけて行くと、紀伊国に至り、白鳥は人の姿になって歌を詠んだといふ。

 ○あさもよひ、紀の川ゆすり行く水のいつさやむさや、いるさやむさや

 手束弓とは十握(とつか)の大きな弓のことで紀の関守が持つものといふ(風土記逸文)。万葉集などにも歌はれる。

 ○吾が背子(せこ)が跡履み求め追ひ行かば、木の関守い、とどめなむかも   笠金村

 ○あさもよひ紀の関守が手束弓、ゆるすときなくまづゑめる君     袖中抄



伊太祁曽神社

和歌山市

 伊太祁曽(いたきそ)神社は、素戔嗚(すさのを)尊の子の五十猛(い たける)命とその妹神(いものかみ)、大屋津姫命、抓津姫命の三柱をまつる(五十猛命一柱ともいふ)。この三神は、父神とともに大八洲の国に天降って島々に樹の種を播き、国々を奥深い森となして、紀伊国に遷り鎮まったといふ。紀伊国造のまつる神だともいふ。

 ○天なるや。八十の木種(こだね)を八十国にまきほどこしし神ぞこの神    本居大平

 ○山々の木々の栄えを、木の国の栄えと守る伊太祁曽の神      本居大平

  ◇

 親神の須佐之男(すさのを)命(素戔嗚尊)は、須佐神社(有田市千田 旧保田村)などにまつられる。

 ○朝もよし紀路のしげ山分けそめて木種まきけん神をし思ほゆ    本居宣長



玉津島神社

和歌山市和歌浦

 和歌の神ともいはれる玉津島神社は、もと玉出(たまづ)島といったらしい。

 ○年を経て波の寄るてふ玉の緒に抜きとどめなん。玉出づる島    宇津保物語

 むかし聖武天皇が紀州に行幸されたとき、玉津島神社の背後の奠供(てんぐ)山に登られ、和歌浦の海の眺望を賞でて「明光浦」の名をつけられたといふ。そのときの従者の歌。

 ○玉津島。見れども飽かず。如何にして包み持ち行かむ。見ぬ人の為  藤原卿

 聖武天皇はたびたび紀州に行幸され、神亀元年(724)のときには、山部赤人が鹽竃神社付近で詠んだ歌がある。鹽竃神社は、元は玉津島神社の祓所であったといふ。

 ○和歌の浦に潮みち来れば、潟を無み葦辺をさして鶴鳴きわたる   山辺赤人



いさな取り

 新続古今集の玉津島明神を歌った歌。允恭紀にもある。

 ○とこしへに君も逢へやも、(いさな)取り海の浜藻の寄るときどきを   新続古今集

 「いさなとり」は海にかかる枕詞とされ、いさなは鯨の古語である。季節を定めて近海に現はれる鯨は、海の豊漁をもたらす神とされた。実際に鯨は餌となるべき小魚の群を追って近海に現はれることが多く、集まった魚の群が豊漁をもたらしたのである。捕鯨が行なはれるときも、食肉用、鯨油用、その他、鯨は全ての部分が無駄なく利用され、鯨は一頭捕れば七浦が栄えるともいはれた。新宮市三輪崎の八幡神社の鯨踊は、鯨の捕獲と豊漁を祝ふ祭であり、鯨の供養の祭でもあった。鯨を供養した塚は全国にある。アメリカでは油とひげ以外を全て廃棄した長い乱獲時代の反省もあり、石油やプラスチック製品で代用できるやうになって捕鯨が全面禁止され、これが欧米主導による国際標準とされた。太地町には鯨博物館がある。



竃山神社

和歌山市和田

 神武天皇の兄の五瀬(いつせ)命は、河内の孔舎衛(くさか)(草香)坂で長髄彦(ながすねひこ)の軍と戦ひ、流れ矢に当たって負傷した。船で紀州の雄水門に至るころ傷が悪化して亡くなり、竃山(かまやま)の地に葬られた。その地に五瀬命をまつったのが竃山神社である。

 ○をたけびの 神代のみ声 思ほへて 嵐はげしき竃山の松     本居宣長



藤白神社

海南市藤白

 斉明天皇が紀の湯(白浜湯崎)に行幸された時、旅の無事を祈ってまつった神が、藤白(ふぢしろ)神社の始りといふ。そのゆかりで境内社として有間皇子神社がある。有間皇子は紀州の旅の途中で亡くなった皇子である。

 ○家にあれば()に盛る飯を、草枕旅にしあれば推の葉に盛る     有間皇子

 聖武天皇の玉津島行幸の際、僧の行基を藤白神社に参詣させて、皇子誕生を祈願したところ、高野皇女(称徳天皇)がお生まれになった。その縁で光明皇后から社領を賜って以来、「子授け・安産・長寿」の神として信仰を集めた。その後、熊野三山の遥拝所とされ、熊野九十九王子のうち藤白王子をまつり、藤白若一王子社とも呼ばれた。





粉河寺

那賀郡粉河町

 ○父母の恵みも深き粉河寺(こ かはでら)、仏の誓ひ、たのもしの身や       詠歌

 むかし素意法師がまだ出家してゐなかったころ、粉河の観音に参篭して、どの地で修行して往生をとげるべきかと祈ったところ、内陣より歌が聞えたといふ。

 ○花衣かざらき山に色替へて紅葉の外に月を眺めよ         玉葉集

 かざらき山(風猛山)は、粉河寺の背後の山のことである。



石堂丸

高野山

 筑紫の加藤左衛門氏繁は、ある年の花見の宴で、ふと無常を感じ、歌を残して都へのぼり仏の道に入った。

 ○ましらなく深山の奥に住みはててなれゆく声や友と聞かまし

 筑紫ではまもなく子の石堂丸が生まれた。父氏繁は十三年間の修行の後ち、高野山に入った。そのころ、石堂丸は母と連れ立って、父に会ふために高野山への旅に出た。高野山は女人禁制のため、母はふもとの村に残り、石堂丸一人で山にのぼった。高野山には三千の寺と二万人の僧がゐるといふ。道行く僧のすべてに父の名を告げて聞いても、知るものはなかった。ある日、ふと声をかけた僧に、父は既に死んだと告げられた。苅萱(かるかや)道心と名告るこの僧こそ、実は父氏繁だったのである。修行の身の父は、父と名告ることもできず、他人の墓を自分の墓と教へることしかできなかった。石堂丸は教へられた通り墓詣りをすませ、山をおりると、母は病のため世を去ってゐた。すべてを失った石堂丸は、ふたたび高野山にのぼり、苅萱道心に弟子入りを乞ひ、実の父とも知らず、苅萱のもとで修行を続け、高野山で一生を終へたといふ。

 ○父母のしきりに恋し雉子の声                  芭蕉

 ○忘れても汲みやしつらむ。旅人の高野の奥の玉川の水       弘法大師



糸鹿山

有田市糸我町

 有田市糸我町中番の稲荷神社には、京都の伏見に稲荷の神が降臨した一七〇年前に、稲荷の神が現はれて豊作をもたらしたといふ。

 ○熊野道のいと高山のこなたなる、宇気(うけ)の女神の森の木々に、

   御饗(みあへ)盛りなす雪野おもしろ

 右の歌の「宇気の女神」は稲荷神のこと、「いと高山」か縮まって糸鹿(いとか)山となったといふ。

 白河院の熊野御幸の折り、紀伊国の糸鹿坂に輿をとどめて、しばし休息された。そのときお伴の平忠盛が、近くに根を伸ばしてゐたぬかご(山芋の子)を掘って献上した。

 ○いもが子は這ふほどにこそ成りにけり(妻の子は這ふほどに成長しました)

 白河院のこたへた歌。

 ○ただもりとりて養ひにせよ(忠盛が育てよ)

 歌に詠まれた子とは、平清盛のことである。平氏は、厳島の神とともに熊野の神を深く信仰し、源氏の八幡神崇敬と対抗するかのやうであったといふ。



宮子姫

道成寺

 むかし日高郡地方の海女の宮子姫は、藤原不比等の養女となり、文武天皇の后となって聖武天皇をお生みになったといふ。宮子姫の請願により、紀道成(きのみちなり)が建てたのが道成寺(日高郡川辺町)だといふ。聖武天皇の紀伊行幸のときに従者が由良(ゆら)の岬(日高町付近)で詠んだ歌。

 ○(いも)がため玉を拾ふと紀伊の国の由良の御崎に、この日暮しつ    藤原卿



道成寺

日高郡川辺町

 醍醐天皇のころ、奥州白河に安珍といふ僧があり、毎年の熊野詣の折り、紀州牟婁郡の真砂庄司の家を宿としてゐた。この家に清姫といふ幼い女の子があり、ある年、安珍が宿を借りたとき、戯れの話に、妻にして奥州へ連れて帰らうなどと言ったことがあった。この言葉を幼い女の子は心に深く刻みこんでゐた。

 延長六年秋、安珍がこの家に泊ったとき、十三歳になった清姫が、寝床に忍び込んで来て結婚を迫った。安珍は熊野の参詣を終へてからもう一度立ち寄るからと、歌を交はして旅立った。

 ○先の世の契りのほどを、み熊野の神のしるべもなどか無からむ   清姫

 ○み熊野の神のしるべと聞くからに、など行く末の頼もしきかな   安珍

 安珍は修行の身で結婚などできず、後悔の念にかられた。清姫は、なかなか帰らない安珍を捜しにさまよひ歩いた。道行く人に尋ねると、すでに安珍は牟婁を離れて逃げようとしてゐた。必死の形相で追ひかける清姫は、蛇体となって切目川、天田川を一気に渡り、道成寺へ至って安珍が釣鐘の中に隠れると、釣鐘を七巻きに巻いて怒り狂ひ、激しい炎で鐘もろとも溶かして灰にしてしまった。蛇はそのまま入り江に沈んで行方はわからなくなったといふ。

 ○恐ろしな胸のおもひに沸きかへり惑ひし鐘も湯とやなりけん    似雲法師



岩代の松

日高郡南部町西岩代 西岩代八幡神社

 謀反の疑ひをかけられ、紀伊国牟婁温泉に呼び出された有間の皇子は、旅の途中で行く末を祈り、松の枝を結んだ。

 ○岩白(いはしろ)の浜松が枝を引き結び、真幸(ま さき)くあらば、またかへり見む    有間皇子



南方熊楠

 和歌山市に生まれた南方熊楠(みなかたくまくす)は、明治のころ世界を巡って植物学、博物学を究め、西洋の民俗学の紹介も手がけた。紀州の材木をねらった大阪商人が大賛成した神社合祀令には、反対の行動をとった。晩年は田辺市に住み、南紀の植物研究に没頭し、昭和四年の天皇行幸のときに御言葉を賜った。

 ○一枝も心して吹け、沖つ風。天皇(すめらみこと)のめでまし森ぞ        南方熊楠

 昭和三十七年、再び南紀を行幸された昭和天皇の御製。

 ○雨にけぶる神島を見て、紀伊の国の生みし南方熊楠を思ふ     昭和天皇



熊野三社

 日本書紀に、伊弉冉(いざなみ)尊が亡くなったとき、紀州熊野の有馬村に葬られたとある。今の三重県熊野市有馬町の浜辺をいふ。ここから常世へ渡ったのであらう。伊弉冉尊は夫須美神(ふ す みのかみ)の名で那智神社にまつられる。

 ○那智(なち)の山はるかに落つる滝つ瀬にすすぐ心の塵も残らじ      式乾門院御匣

 平安時代以降、南へ向かふ海岸は聖地とされ、南方海上にあるといふ観音の浄土、補陀落世界へ往生しようとする信仰(補陀落渡海(ほ だ らくとかい))が広まった。実際に那智山や土佐の室戸岬などから船で出帆した僧が多数あった。鎌倉以後は僧が入水往生することも増えた。補陀落とはインド南部の伝説の国ともいふが、熊野から常世国に渡った神々などの信仰の変化とみることができる。

 ○ふだらくや岸打つ波はみ熊野の那智のみ山にひびく滝つ瀬     御詠歌

 黄泉国(よ みのくに)を訪れた伊弉諾(いざなき)尊が、うけひ(盟)をしたときに唾の中から速玉之男(はやたまの を)が生まれた。唾は、髪や爪などと同様にそれを捧げて誓約のしるしとしたり、また男女間などで交換したりする。相撲の力水や寺社参拝時の手水は、口に含んで吐き出すといふ行為を伴ふが、唾と関係するのかもしれない。速玉之男をまつったのが、熊野速玉神社(新宮)である。

 ○千はやぶる熊野の神のなぎの葉を、からぬ千年(ちとせ)のためしにぞ引く  藤原定家

 伊奘諾尊が(みそ)ぎをしたときに鼻から生まれたのが素戔嗚(すさのを)尊である。素戔嗚尊は、木の種を植ゑて紀州に留まった神で、家都御子神(け つ み このかみ)の名で熊野坐(くまのにます)神社(本宮)にまつられる。

 ○岩にむす苔ふみならす、み熊野の山のかひある行く末もがな    後鳥羽院

 本宮は熊野川の上流の川の中州にまつられてゐたが、明治二二年の洪水で社殿が流され、川の西岸に再建されたといふ。このときの洪水の原因は、上流域の森林の乱伐が原因であると断定され、森林保護の政策もとられた。昭和以後の各地の洪水では、木の神への畏敬が薄れたためか、正しい原因を考へなくなってゐるやうだ。