熊野三社
日本書紀に、伊弉冉尊が亡くなったとき、紀州熊野の有馬村に葬られたとある。今の三重県熊野市有馬町の浜辺をいふ。ここから常世へ渡ったのであらう。伊弉冉尊は夫須美神の名で那智神社にまつられる。
○那智の山はるかに落つる滝つ瀬にすすぐ心の塵も残らじ 式乾門院御匣
平安時代以降、南へ向かふ海岸は聖地とされ、南方海上にあるといふ観音の浄土、補陀落世界へ往生しようとする信仰(補陀落渡海)が広まった。実際に那智山や土佐の室戸岬などから船で出帆した僧が多数あった。鎌倉以後は僧が入水往生することも増えた。補陀落とはインド南部の伝説の国ともいふが、熊野から常世国に渡った神々などの信仰の変化とみることができる。
○ふだらくや岸打つ波はみ熊野の那智のみ山にひびく滝つ瀬 御詠歌
黄泉国を訪れた伊弉諾尊が、うけひ(盟)をしたときに唾の中から速玉之男が生まれた。唾は、髪や爪などと同様にそれを捧げて誓約のしるしとしたり、また男女間などで交換したりする。相撲の力水や寺社参拝時の手水は、口に含んで吐き出すといふ行為を伴ふが、唾と関係するのかもしれない。速玉之男をまつったのが、熊野速玉神社(新宮)である。
○千はやぶる熊野の神のなぎの葉を、からぬ千年のためしにぞ引く 藤原定家
伊奘諾尊が禊ぎをしたときに鼻から生まれたのが素戔嗚尊である。素戔嗚尊は、木の種を植ゑて紀州に留まった神で、家都御子神の名で熊野坐神社(本宮)にまつられる。
○岩にむす苔ふみならす、み熊野の山のかひある行く末もがな 後鳥羽院
本宮は熊野川の上流の川の中州にまつられてゐたが、明治二二年の洪水で社殿が流され、川の西岸に再建されたといふ。このときの洪水の原因は、上流域の森林の乱伐が原因であると断定され、森林保護の政策もとられた。昭和以後の各地の洪水では、木の神への畏敬が薄れたためか、正しい原因を考へなくなってゐるやうだ。