位山の神
むかし雲の波をかきわけて
○位山、峰までつける杖なれど、今よろづ代の坂のためなり 大中臣能宣
飛騨の位山の
水無神社の神馬
昔ある秋に、村の作物がたびたび喰ひ荒らされた。村人は、田畑を荒らすのは水無神社の神馬ではないかと噂した。なるほど左甚五郎の彫った馬は生気に満ち、今にも暴れ出しさうであった。しかし神社の神馬を破壊するわけにはいかない。噂は神官の耳にも達した。神官は村人の不安を察して、名工を呼んで神馬の両眼をくりぬき、目が見えぬやうにした。これ以来、田畑が荒らされることはなくなったといふ。
○宮作る飛騨の匠の手斧の音、ほとほとしかる、めをも見しかな 拾遺集
水無神社は、
飛騨の匠
右のやうに飛騨にはさまざまな名工の伝説がある。大和朝廷は飛騨には他の税を免除して工人の徴用だけを求めたといふ。鎌倉時代の末に長滝寺(郡上郡白鳥町)などを手がけた藤原宗安といふ人は、飛騨権守ともいはれ、江戸時代の大工たちに崇敬された。大工たちは藤原宗安の肖像画を秘蔵し、その絵には次の歌が書かれてあった。万葉集(2648)に類似の歌がある。
○とにかくに物は思はず、飛騨たくみ、打つ墨縄のただ一筋に
飛騨総社
飛騨総社は国府の近い地に飛騨国内の神々をまつった古社である。
文化三年(1808)『飛騨総社考』を著した国学者の田中大秀は、社地の荒廃を歎き、飛騨の人々に再興の志を募って、新しい社殿の造営を成し遂げた。
○国の内の神坐せ。いつかしも昔にかへす時をこそまて 田中大秀
○いにしへのあとのまにまに、国つ神集へまつれる、今日の貴さ 田中大秀
養老の滝
霊亀三年(717) 元正天皇が美濃国に行幸されたとき、多度山に美泉が発見された。この水は、飲めば若さを取り戻す霊泉といはれ、天皇はこれを瑞祥として元号を「養老」と改元された。養老郡養老町の養老の滝である。一種の鉱泉だったといはれるが、後に酒が湧き出たといふ伝説に変ってゐる。
○
不破の関
壬申の乱のとき、美濃から近江へ入る手前の藤古川(藤川)の両岸に、大海人皇子の軍と大友皇子の軍が対峙したといふ。乱後に律令制度が整備され、ここに
○美濃の国、関の藤川、絶えずして君に仕へん。よろづ代までに 古今集
この関は比較的早い時期の平安時代の始めには廃止となったらしい。
京のやんごとなきお方が富士詣での折りに諸国の歌枕を訪ね歩きたいとの計画を聞いた美濃国司は、不破の関が荒れてゐることを恥ぢて修理させた。ところが待てど暮らせど貴人は到着せず、気づかずに通り過ぎたと思ひ、国司は歌を詠んだ。
○葺き替へて月こそ漏らね、板びさし、とく住みあらせ、不破の関守
当時の京の人にとっては、不破の関といへば荒れ果てたイメージがあり、さうでなくなった関所では趣きがないとして通り過ぎたらしい。
青墓の宿 野上の里
東山道不破の関を過ぎて東の
○ひと夜見し人のなさけは、たちかへり心に宿る青墓の里 慈円
青墓の西の野上の里にも遊女の伝説がある。むかし野上長者の家に花子といふ遊女がゐて、京から東国へ向ふ吉田少将と一夜の契りを結び、再び逢ふ約束に、互の扇を交換した。以来花子は自室に籠ってゐるばかりなので、長者に追ひ出され、気がふれてさまよひ歩き、京で少将と再会したといふ。
○一夜かす野上の里の草枕、結び捨てける人の契りを 藤原定家
結神社
揖斐川東岸の
○守れただ契り結ぶの神ならば、解けぬ恨みにわれ迷はさで 十六夜日記
○世の人の仇を結ぶの神なりと祈らば、心解けざらめやは 一条兼良
むかし小栗判官と別れた
笑ひ地蔵
西行法師が弟子の西住とともに美濃国を訪れたとき、村雨に遇ひ、近くの小堂に雨宿りした。居合せた里人がいふには、この堂の地蔵尊は、墨股川(長良川)の
○朽ち残る真砂の下の橋はしら またさま変へて人渡すなり 西住
すると地蔵尊が微笑んだので「笑ひ地蔵」と呼ばれるやうになったといふ。各地に似た話がある。橋柱とは、橋を支へる支柱ではなく、橋の真下の川底に呪的な意味で埋められた柱である。人柱の伝説も、後の人が橋柱の意味を想像してゐるうちに出来上がったものらしい。
苧がせ池
むかし尾張の福富新蔵といふ侍が三河の本宮山(愛知県一宮町)に登ったとき、白髪の鬼女が現はれた。新蔵が鬼女に向って矢を射ると、不意に暗雲が立ちこめて闇となった。しばらくして雲が晴れ、辺りを見まはすと鬼女の姿はなく、血が点々と落ちてゐたので、そのあとをたどって行くと、木曽川近くの余野村(愛知県丹羽郡大口町)の小池与八郎の家に着いた。小池とは旧知の間柄であり、新蔵は事のいきさつを話した。そして風邪で寝込んでゐるといふ小池の妻玉女を見舞はうとすると、寝屋の障子に赤々と血で一首がしたためてあった。
○求めなき契りの末のあらはれて、今こそ帰る古里の空 玉女
部屋の外にも血が落ちてをり、血の跡をたどると、木曽川を越えて広沼に至り、沼には血に染まった苧がせ(麻糸の束)があった。女は竜神の化身だったのである。それ以来、広沼を苧がせ沼といふやうになったといふ。美濃国稲葉郡(岐阜市)の伝説である。
喪山
むかし
○飛ぶ鳥の羽うらこがるる紅葉かな 支考
東常縁
篠脇城の東氏は、もと下総千葉氏の分れで、将軍源実朝の歌の弟子でもあった。東胤行の代から郡上郡の領主となり、胤行は藤原定家の孫娘を妻とし、勅撰集の選者にもなった。その子の(平)行氏も続拾遺和歌集などに多数の歌がある。室町時代には東常縁が出た。
応仁の乱の勃発のころ、常縁が関東に出征した留守中に、美濃守護代の斎藤妙椿に篠脇城を奪はれてしまった。手段を選ばぬ行ひがまかり通る時世を嘆いて、常縁は歌を詠んだ。
○あるが内にかかる世をしも見たりけり。人の昔の
妙椿も多少は歌道をこころざす人なので、この歌を知って城を返したといふ。
常縁は細川家から歌学の秘伝の古今伝授を受け、さらにそれを飯尾宗祇が篠脇城に来た折りに伝へた。そのとき常縁と宗祇は妙見社(明建神社)の境内で連歌を詠み交した。
○花さかりところも神の宮居かな / 桜ににほふ峰の榊葉 常縁/宗祇
常縁は宗祇を見送るとき、小駄良川(八幡町本町)のあたりで歌を詠んだ。
○紅葉ばの流るる竜田、白雲の花のみよしの、思ひ忘るな 東常縁
この地は、宗祇清水(白雲水)といふ名所になってゐる。
諸歌
○山椿咲けるを見れば、いにしへを、幼きときを、神の代を思ふ 坪内逍遥