不破の関

不破郡関ヶ原町松尾地区

 壬申の乱のとき、美濃から近江へ入る手前の藤古川(藤川)の両岸に、大海人皇子の軍と大友皇子の軍が対峙したといふ。乱後に律令制度が整備され、ここに不破(ふは)の関が設けられた。川は「関の藤川」と呼ばれた。

 ○美濃の国、関の藤川、絶えずして君に仕へん。よろづ代までに   古今集

 この関は比較的早い時期の平安時代の始めには廃止となったらしい。

 京のやんごとなきお方が富士詣での折りに諸国の歌枕を訪ね歩きたいとの計画を聞いた美濃国司は、不破の関が荒れてゐることを恥ぢて修理させた。ところが待てど暮らせど貴人は到着せず、気づかずに通り過ぎたと思ひ、国司は歌を詠んだ。

 ○葺き替へて月こそ漏らね、板びさし、とく住みあらせ、不破の関守

 当時の京の人にとっては、不破の関といへば荒れ果てたイメージがあり、さうでなくなった関所では趣きがないとして通り過ぎたらしい。