気比神宮
○山を切る剣を峰に残し置きて、神さびにけり。気比の古宮 行遍
○敦賀の蟹、記紀の古謡に生きつぎて、渤海びとら船寄せし港 窪田章一郎
花筐
越前の
○味真野に宿れる君が、帰り来む時の迎へを、何時とか待たむ 狭野茅上娘子
右の歌は、天平のころ越前へ流罪になった中臣宅守の新妻、狭野茅上娘子が都で詠んだ歌。
しらきと川
福井平野を流れる
○里の名もいざしらきとの橋柱、立ち寄り問へば波ぞ答ふる 道興
白鬼女川の名は、上流の美濃国境にある
東尋坊
越前の平泉寺(勝山市)に、東尋坊といふ乱暴者の悪僧がゐた。西方浄土といふ教へに背き、「我は東方を尋ねん」と言ひ、東尋坊と名告った。他の僧との争ひも絶えず、養和二年(1182)に、武術の達人でもあった僧の覚念に、海辺の崖から突き落とされて死んだ。東尋坊の怨みは様々な怪異を引き起こしたが、ある僧が海に歌を投げ入れると、怪異は治まったといふ。
○沈む身のうき名をかへよ。法の道。西を尋ねて浮かべ後の世
平泉寺は白山社の別当寺の一つだったが、一向宗の拡大とともに衰退し、今は白山社のみが残る。
○野菊むら東尋坊に咲きなだれ 高浜虚子
吉崎 肉づきの面
越前国は、吉崎(板井郡金津町)に蓮如上人が吉崎御坊を建てて以来、一向宗(浄土真宗)の盛んな土地柄となった。
むかし吉崎の近くの村に、
○
さうして念仏を唱へながら、吉崎へ向かった。
家へ帰った老母は、鬼の面をとらうとしたが、顔にぴったり付いて離れない。悔いてどこかへ隠れようにも足は動かず、我が身を恥ぢて自害しようにも手は動かず、ただ苦しんでゐた。そこへ嫁が帰ってくると、母の姿に仰天したが、とっさに一部始終を理解し、母に念仏をすすめた。母はその通りに「南無阿弥陀仏」の念仏を唱へると、面ははがれ、手足も動くやうになったといふ。それ以来、母も上人の教へを受けるやうになったといふ。面は上人に預けられ、今も吉崎の願慶寺(他の寺ともいふ)にあるといふ。
諸歌
○肉身を変へず仏になることはただわが家の座禅なりけり 道元
幕末の蘭医、笠原白翁が種痘輸入のため長崎へ旅立つときの歌。
○たとへわれ命死ぬとも死ぬまじき人ぞ死なさぬ道ひらきせむ 笠原白翁
福井市照手町出身の歌人
○膝いるるばかりもあらむ草の屋を竹にとられて身をすぼめをり 橘曙覧
小浜出身の幕末の国学者
○吹くとしもなき春風を追手にて、うまし小浜に舟競ふなり 伴信友
八百比丘尼
○若狭路やしらたま椿、八千代経てまたも越えなむ、矢田坂かは
小浜の空印寺境内に八百比丘尼が篭って成仏したといふ洞がある。この洞穴は丹後の国まで通じてゐたともいふ。
手杵祭
千二百年ほど前、小浜・矢代の浜に、異国の船が漂着した。乗ってゐたのは唐の王女と八人の侍女で、美しい衣装や財宝を積んでゐた。一部の里人らは、餅つきの杵で九人を殺し、財宝を奪った。以来、変異や悪病が続いたので、漂着した船材で堂を建て、観音さまや弁天さまをまつると悪疫は止んだ。三月四日の矢代の手杵祭の踊りは、杵の所作を真似たものといふ
○てんしょうの着きたるぞ、唐船の着きたるぞ、福徳や