東常縁

郡上郡大和村 篠脇城

 篠脇城の東氏は、もと下総千葉氏の分れで、将軍源実朝の歌の弟子でもあった。東胤行の代から郡上郡の領主となり、胤行は藤原定家の孫娘を妻とし、勅撰集の選者にもなった。その子の(平)行氏も続拾遺和歌集などに多数の歌がある。室町時代には東常縁が出た。

 応仁の乱の勃発のころ、常縁が関東に出征した留守中に、美濃守護代の斎藤妙椿に篠脇城を奪はれてしまった。手段を選ばぬ行ひがまかり通る時世を嘆いて、常縁は歌を詠んだ。

 ○あるが内にかかる世をしも見たりけり。人の昔の(なほ)も恋しき   東常縁

 妙椿も多少は歌道をこころざす人なので、この歌を知って城を返したといふ。

 常縁は細川家から歌学の秘伝の古今伝授を受け、さらにそれを飯尾宗祇が篠脇城に来た折りに伝へた。そのとき常縁と宗祇は妙見社(明建神社)の境内で連歌を詠み交した。

 ○花さかりところも神の宮居かな / 桜ににほふ峰の榊葉      常縁/宗祇

 常縁は宗祇を見送るとき、小駄良川(八幡町本町)のあたりで歌を詠んだ。

 ○紅葉ばの流るる竜田、白雲の花のみよしの、思ひ忘るな      東常縁

 この地は、宗祇清水(白雲水)といふ名所になってゐる。