相馬野馬追ひ

相馬妙見三社

 相馬氏は下総の千葉氏の別れで、下総国相馬郡に勢力を持ち、源頼朝の奥州平定への功績で奥州相馬地方に所領を得た。鎌倉時代の末に、相馬氏は亀甲城(原町市)に移住して、代々の氏神である妙見社(太田神社)をまつった。南北朝のころは北朝の足利氏に属し、小高城(相馬郡小高町)に居城を移し、小高神社をまつった。 江戸時代には、相馬利胤が中村城(相馬市)に移住して藩主となり、中村神社をまつった。太田神社、小高神社、中村神社を相馬妙見三社といふ。また、相馬氏は下総国相馬郡の守谷城を拠点とした平将門の子孫ともいふ。

 相馬野馬追(のまお)ひ祭は、この妙見三社にまたがる祭で、むかし平将門が、関八州の兵を集め、下総国流山地方で野馬を追って兵を訓練したのが始まりといふ。相馬氏も城下の野に馬を放牧して将門にならひ、徳川時代に至っても「治を得て乱を忘れず」と継続された。

 ○相馬恋しや妙見さまよ、離れまいとの繋ぎ駒        (相馬流山)

 ○竹に雀は仙台様の御紋、相馬六万石、九曜星        (相馬流山)

 ○陸奥の荒野の牧の駒だにも、取らば取られて馴れ行くものを