出羽三山 鳥海山

 推古天皇元年、暗殺された崇峻天皇の皇子・蜂子皇子(能除太子)が、大和を出て出羽国の海岸に着くと、三本足の巨大な怪鳥が飛来して、皇子をわしづかみにして羽黒山に導いた。羽黒山は蜂子皇子によって開かれ、皇子は続いて月山と湯殿山をも開山したといふ。出羽三山は特に平安時代ごろから修験道の霊地として栄えた。現在は出羽三山神社といひ、出羽神社(いではの神)、月山神社(月読命)、湯殿山神社(大山祇命)から成る。

 ○涼しさや、ほの三か月の羽黒山     羽黒山にて      芭蕉

 ○雲の峰、いくつくづれて月の山     月山にて       芭蕉

 ○語られぬ湯殿にぬらす袂かな      湯殿山にて      芭蕉

 ○やうやくに年老いむとして吾は来ぬ。湯殿山、羽黒山、月読の山 斎藤茂吉

 室町初期頃までは、出羽山、月山、鳥海山(秋田県境)を出羽三山といったこともあるらしい。鳥海山はたびたびの噴火を繰り返し、貞観十三年(871)には、噴火で流出した溶岩泥流の中から、大蛇二匹と無数の小蛇が現はれたといふ。鳥海山には出羽国一宮の大物忌(おほものいみ)神社がまつられ、番楽と称する舞楽がある。

 ○とりのみの山のふもとに居りと思ふ。心しづけし。獅子笛聞けば 釈迢空



立石寺(山形市山寺)〜二口峠〜うやむやの関

 ○閑さや、岩にしみ入る蝉の声                 芭蕉

 芭蕉が有名な句を詠んだ山寺から仙台方面へ抜ける二口峠付近は、全国のマタギの元祖といはれる磐司と万二郎のゆかりの地である。二人は日光の生れの猟師で、あるとき白鹿を追ったがなかなか射ることができなかった。この白鹿は、実は二荒山の神の化身で、赤城山のムカデに攻められて苦しんでゐることがわかると、二人は赤城山に行ってムカデを退治してみせた。これにより、二荒の神から諸国の山で狩りをすることを許された二人は、奥州の二口峠に住んだといふ。マタギには日光派のほかに高野派もあるといふ。

 二口峠の少し南の笹谷峠の近くに、うやむやの関があった。むやむやの関ともいふ。

 ○もののふの出るさ入るさに枝折(しを)りする、とやとやとりのむやむやの関

 「枝折」とは、榊の枝などを折って峠の神に手向け、行く手の安全を祈るもの。



大沼の浮島

西村山郡朝日町

 白鳳のころ、(えん)小角(をづの)が、大沼(朝日町)の浮島が沼の上を浮遊するさまを見て、ほとりに浮島宮(うきしまのみや)を建てた。これが今の浮島稲荷神社で、雨乞の神などとして信仰される。

 ○祈りつつ名をこそ頼め、道の奥に沈めたまふな。浮島の神    橘為仲



阿古耶の松

山形市千歳山

 みちのく信夫(しのぶ)(福島県)の領主の藤原豊充に、阿古耶姫といふ娘があった。ある夜、姫が琴を奏でると、どこからか笛の音が聞こえてきた。笛の主は、名取(なとり)左衛門太郎と名告る若者で、その日から二人は、毎日の逢瀬を重ねるやうになった。ある日、太郎は「自分は出羽国の最上の浦の平清水の老松の精である」と言ひ残して去ってしまった。

 そのころ、名取川(宮城県)の洪水で橋が流され、村人は架け替への材木に困ってゐた。占者の占ひによると、出羽の平清水の老松を用ゐれば二度と流されることはないといふ。そこで大勢で出かけて老松を切り倒しはしたが、老松はなかなか動かせなかった。村長が神のお告げを乞ふと、「みちのく信夫の阿古耶姫といふ者が来れば動くだらう」といふ。さっそく使を遣って姫を招くと、姫は変はり果てた老松の上で泣き伏したといふ。

 やがて橋が完成すると、姫は老松を偲んで切株のそばに若松を植ゑ、庵をいとなんで老松の霊をとむらった。その松が育って、千歳山を覆ふ松となり、庵は今の万松寺(山形市滝沢)のもとになったといふ。

 ○消えし世の跡問ふ松の末かけて、名のみ千歳の秋の月影     阿古耶姫

 ○みちのくの阿古耶の松に木隠(こ がく)れて、出でたる月の出でやらぬかな 夫木抄

 長徳の頃、阿古耶の松を捜し尋ねた藤原実方(宮城県笠島の項参照)の娘、中将姫は、父の死を知り、父に代はって阿古耶の松を捜す旅に出た。やうやく千歳山の麓に至ったが、ふと小川の水に我が身を映して見ると、長旅にやつれた自分の姿に嘆くばかりだった。

 ○いかにせん。映る姿はつくも髪、わが面影は恥しの川      中将姫

 万松寺には、姫の建てた実方の墓と、姫自身の墓もある。



春雨庵の山乃井の水、

沢庵禅師  上山市

 寛永六年、紫衣事件に連座して徳川幕府によって京都大徳寺を追はれた沢庵禅師は、出羽国に配流の身となった。とはいへ上山城主・土岐氏の厚遇により、特に不自由な生活を強ひられたといふわけではなかった。山里の春雨庵と名づけた庵で、茶や歌に親しみつつひっそりと暮らした。この庵に山乃井といふ井戸があり、マサといふ名の里の娘がよく水汲みに来た。時折り娘が届けてくれる里の花や、彼岸のときのおはぎや、また村里の話題は、老僧のなぐさめであった。ある時期から娘がさっぱりこなくなったので、人に尋ねてみたら、どこぞの村へ嫁いで行ったといふ。三年の配流を終へて春雨庵を去るときの沢庵禅師の歌。

 ○浅くともよしやまた汲む人もあらば、われに事足る山乃井の水  沢庵



小野小町

山形県米沢市 小野川温泉

 むかし小野小町は、京から陸奥へ下向した父を探し尋ねて、自ら旅に出た。長旅に疲れ、どうにか陸奥国へ入って、吾妻川の水に顔を映して見ると、京で一番といはれた美貌は跡形もなく失せ、小町はそのまま重い病に伏せってしまった。ある夜の夢に老婆が現はれ、老婆の教へのままに小町が近くの土を掘ると、湯が湧き出てきた。この湯を飲み、また湯につかり、小町は元の美貌をとりもどしたといふ。小町は老婆が薬師さまの化身であると悟り、温泉の近くに薬師堂を建てた。ある日この温泉で小町は、歌を歌った。

 ○立ち別れ都の空を後に見て、何処(いづこ)を宿と定むものかは      小野小町

 するとこれを聞いた湯治客の男が突然泣き出し、その男が父であることがわかったといふ。



庄内おばこ(をばこ)

酒田市ほか

 ○おばこ来るかやと田んぼの外れまで出て見たば

   おばこ来もせで用のない煙草売りなどふれて来る       庄内おばこ

 庄内地方の民謡の庄内おばこは、歌詞が二つの部分からなり、問答の形式になってゐて、歌垣の形式を伝へるものといへる。「おばこ」とは方言で若い娘の意味。



袖の浦

酒田

 酒田港は、袖の浦ともいひ、最上川の河口にあたり、日本海有数の港として近世まで繁栄を極めた。

 ○白妙の袖の浦浪、よるよるに、もろこし船や、漕ぎ渡るらむ   家定 夫木抄

 ○人をのみ、こふの湊に寄る波は袖をのみこそ打ち濡らしけれ   夫木抄

 右の「こふ」とは恋ふと国府をかけたもので、港の東に出羽国府があった。



最上川

 山形県を貫いて流れる最上川は、古代から水運に利用された。

 ○最上川のぼればくだる鯔舟(いなぶね)のいなにはあらず、この月ばかり   古今集

 鯔は海と川を往復し、また成長の段階で呼び名の変る出世魚で、大きくなるとボラ、最大のものはトド(「とどのつまり」のトド)といふ。

 最上川は清川の合流するあたりが狭い峡谷となってゐて、最上峡といふ。

 ○五月雨をあつめて早し、最上川                芭蕉

 むかし平泉へ落ち延びてゆく源義経の一行が、船でこの峡谷を行くと、滝が見えたので、北の方が詠んだ。

 ○最上川瀬々の岩波せきとめよ。寄らでぞ通る白糸の滝