白河の関

白河市

 陸奥の入り口に置かれた白河の関は、「歌詠まば逢坂の関、白河の関、衣の関、不破の関などを詠むべし」(能因歌枕)といはれ、歌枕としても有名であった。

 ○都をば霞とともに立ちしかど、秋風を吹く、白河の関      能因法師

 右の歌を詠んだ能因法師は、旅に出たやうに見せかけて、しばらく庵に篭って人前に出ず、顔を黒く塗って日焼けしたやうな顔で現はれて、陸奥国に修業の折りに詠んだのだといって、歌を披露したといふ。歌は京の都で作ったものである。

 むかし白河で連歌の大会があるといふので、飯尾宗祇が白河の関まで来ると、魚売りの女が通りかかった。女に「綿を売るか」と聞くと、女は、歌で答へた。

 ○阿武隈の川瀬にすめる鮎にこそ、うるかといへるわたはありけれ  (女)

 「うるか」とは鮎のはらわたのこと。女の歌に感服した宗祇は、白河は歌の上手な者ばかりに違ひないと、道を引き返したといふ。同類の話は西行の話として各地にある。綿の打ち直しなどをする職人が諸国を巡って伝へた話ではないかと柳田国男はいふ。

 白河藩主の養子となった松平定信(徳川吉宗の孫)は、のち幕府老中となって寛政の改革を進めた。白河市の南湖を詠んだ歌がある。

 ○みづうみのその手ところも末遠し、伝ふしるしの岸の石ふみ   松平定信