会津地方

 十代崇神天皇のころ四道将軍のうちの二人、つまり北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した武渟川別(たけぬなかはわけ)命(大彦の子)が、行軍の果てに出会った所を、会津といふ。(古事記)

 ○会津嶺の国をさ遠み、逢はなはば、偲ひにせもと紐結ばさね   万葉集

 天正十八年(1590)小田原攻めの功績で九十万石の大名として会津に入った蒲生(がまふ)氏郷(うぢさと)は、城下町を整備し、生れ故郷の近江国蒲生郡若松にちなんで「若松」の地名とした。五年後の文禄四年(1595)に死去。徳川、毛利に次ぐ大名となったことが秀吉に警戒され、毒殺されたとの説もある。

 ○かぎりあれば、吹かねど花は散るものを。心短き春の山風    蒲生氏郷(辞世)

 以後数代の藩主が入れ替り、二代将軍徳川秀忠の子、正之が、保科正光の養子に入り会津藩主となった。保科正之は、朱子学を学び神道を信仰して、『家訓』を著はし、耶麻郡総社の磐椅神社の再興、『会津神社誌』の編纂などを手がけた。晩年の寛文十二年(1672)に、神道家の吉川惟足とともに磐梯山の麓を訪れ、見袮(みね)山に墓所を定めて歌を詠んだ。(磐椅神社由緒)

 ○よろづ代といはひ来にけり。会津山。高天の原にすみかもとめて 保科正之

 ○君ここに千歳の後のすみところ、二葉の松は雲をしのがむ    吉川惟足

 戊辰戦争については歌語日本史を参照。