会津地方
十代崇神天皇のころ四道将軍のうちの二人、つまり北陸道を平定した大彦命と、東海道を平定した
○会津嶺の国をさ遠み、逢はなはば、偲ひにせもと紐結ばさね 万葉集
天正十八年(1590)小田原攻めの功績で九十万石の大名として会津に入った
○かぎりあれば、吹かねど花は散るものを。心短き春の山風 蒲生氏郷(辞世)
以後数代の藩主が入れ替り、二代将軍徳川秀忠の子、正之が、保科正光の養子に入り会津藩主となった。保科正之は、朱子学を学び神道を信仰して、『家訓』を著はし、耶麻郡総社の磐椅神社の再興、『会津神社誌』の編纂などを手がけた。晩年の寛文十二年(1672)に、神道家の吉川惟足とともに磐梯山の麓を訪れ、
○よろづ代といはひ来にけり。会津山。高天の原にすみかもとめて 保科正之
○君ここに千歳の後のすみところ、二葉の松は雲をしのがむ 吉川惟足
戊辰戦争については歌語日本史を参照。