西根堰

福島市飯坂町

 江戸時代の初め、信夫に名代官とよばれた人があり、古河善兵衛といった。関ヶ原の合戦以前から上杉氏に仕へ、上杉氏の米沢転封後も、伊達・信夫二郡の代官をつとめ、治水工事にとりくんで西根堰を完成させた。この堰は、土地の豪族佐藤新右衛門の作った下堰(三里十九丁)と、善兵衛が作った上堰(七里三丁)からなり、善兵衛の上堰は、距離も長く、また岩盤を貫くトンネル工事を含む大工事となった。善兵衛は一代官にすぎず、富豪ほどの財力はなく、私財を全て投げうっても資金は足りなかった。そこで年貢をつかさどる代官の特権を利用して藩主へ納めるべき年貢の一部を工事費に流用し、寛永二年に堰を完成させた。年貢の不足分は毎年私費を充当してゐたが、とても追ひつく額ではなく、寛永十四年十二月、突如米沢への召還の命を受けた。以前の年貢未納の詮議が目的であることがわかると、道中の李平村(福島市庭坂)で辞世を残し、雪道の馬上で自害した。

 ○巌が根を通さざらめや、ひとすぢに思ひとめにし矢竹心を    古河善兵衛

 ○ますらをが身は砕きても、国のため尽くす誠の花や咲くらん   古河善兵衛

 福島市飯坂町湯野の西根神社は、善兵衛と新右衛門をまつったものである。