阿蘇の神
太古のむかし阿蘇の外輪山の内側は大きな湖だったといふ。そこへ
○一つ歌ひてこの田の神に参らせう。神も喜ぶ、田主も植ゑて喜ぶ……
健磐龍命は、
○あまねくも代々を照らして北の宮、速甕玉の神の光りは 阿蘇友隆
鯰は国造神社の境内の鯰社にまつられてゐる。阿蘇の人は鯰を食べない風習があるといふ。鯰は、地震除けとして各地にまつられてもゐる。
阿蘇山の煙は阿蘇明神が衆生の罪に代はって焼かれ給ふ炎ともいはれた。
○若草の罪に代はりて立ち昇る煙ぞ、神の姿なりける 古歌
むかし阿蘇神社の北の田鶴原には池があった。あるときこの池に天女が舞ひ降りて水を浴びてゐた。阿蘇都姫の兄の新彦命が、天女の天の羽衣を隠したために、天女はそのまま土地に残って新彦命の妻となった。生まれた子供をあやしながら、新彦命が歌った子守歌がある。
○汝が母の羽衣は、千把こずみの下にあり
この歌で隠し場所を知った天女は、羽衣を捜し出し、歌を残して天に帰ったといふ。
○恋しくば尋ねてござれや宮山に
阿蘇町宮山(赤水)の吉松神社では、三月に阿蘇神社の神職らが来て行ふ「御前迎へ」の神事がある。目かくしした神職が山に入って樫の木を伐り、これを姫神として彫刻し、阿蘇神社へ神幸して神婚の儀が行なはれるといふ。
山鹿灯籠祭
景行天皇の九州行幸のとき、玉名から阿蘇へ向かふ途中、山鹿にお着きになり、杉山の地に行宮を営み、周辺の賊を平定されたといふ。後、行宮の跡地に創建されたのが大宮神社である
○かしこくもあとたれまして、動きなき山鹿の宮居、世を守るらし 前大納言豊持
景行天皇が、菊池川を溯って山鹿の火の口(現在の宗方)に着岸されたとき、一面に深い霧が立ちこめて進路をはばんだ。そこで、里人等が炬火をかかげて御一行を杉山まで案内した。その時の奉迎の炬火が、山鹿灯籠祭の起源とされる。
○ともしびの花も盛りに、この神のいや世を照らす光り見えたり 富小路三位貞直
灯籠祭は、毎年、八月十六日の夜から、明け方にかけて行はれ、山鹿の町は灯籠の灯でまるで火の海のやうになるといふ。千人踊りでは、町の娘たちが、頭に金灯籠をつけ「ヨヘホ節」に合はせて踊る。
○山鹿灯籠は骨なし灯籠、ヨヘホヨヘホ、骨もなければ肉もなし、ヨヘホヨヘホ。
○山鹿灯籠は夜明かし祭、ヨヘホヨヘホ、町は火の海、人の波、 ヨヘホヨヘホ。
藤崎八旛宮
熊本市の藤崎八旛宮は、承平五年(935)に朱雀天皇の勅願により、山城国の石清水八幡宮を、茶臼山(今の藤崎台球場)に勧請したのが始まりといふ。鎮座の日に、勅使が藤の鞭を地に挿すと、そこから芽を吹き枝葉が栄えたので、藤崎宮の名が起ったといふ。
○藤崎の軒の巌に生ふる松、今幾千代の
明治十年の西南の役で旧社殿は焼失し、現在の井川渕町に移転再建された。
熊本城
熊本に本格的な城が築かれたのは大永享禄のころで、
○おもはくの千々に流るる硯川、淀む片瀬に月宿るらん 鹿子木寂心
慶長六年に、加藤清正が城主となったとき、大規模な城の改修がなされた。このとき「畏」の字を忌んで隈本を熊本と改めたといふ。
○熊本に石ひきまはす茶臼山、敵に勝たう(加藤)の城の主かな 落書
清正は文禄の役では一万の兵とともに朝鮮に出兵した。
○ふるさとの山はいかにや霞むらん。
みつはくむ
むかし九州に
○むばたまの吾が黒髪は、白川のみづはくむまでなりにけるかな 桧垣の御
熊本市を流れる白川のこととされるが、他にも候補地がある。みつはは水神の名。
風流島
○名にし負はば仇にぞあるべき、たはれ島、浪の濡衣着るといふなり 伊勢物語
(人の噂は仇のやうなもので貴公子といはれても信じられません。風流島に寄せる波は、まるで白絹の衣を着たやうですが、近くで見れば濡れ衣のやうなものですから。)
火の国
むかし景行天皇の命をうけた
○影も見じ。日数を映す旅衣、身をやつしろの池の鏡に 細川幽斎
水俣城の攻防
天正七年(1579)、薩摩の島津義久が、相良氏の水俣城を攻撃したが、城代の深水宗芳の抵抗により、戦ひは持久戦となった。秋を迎へるころ、城内へ一本の矢文が飛んで来た。城代が文を開いてみると、次のやうな発句が書かれてあった。
○秋風にみなまた落つる木の葉かな (皆また=水俣)
そこで城代が付句を書いて矢文を敵陣に射返した。
○寄せては沈む月の浦波(月の浦とは水俣城の西の海岸のこと) 深水宗芳
やがて持久戦に業を煮やした島津軍は、天草から数百の軍船を押し寄せたが、折りからの暴風雨に遭遇して月の浦に沈んだといふ。
天草・島原の乱
寛永十四年(1637)に起った島原の乱は、天草地方へも拡大し、事態を重視した徳川幕府は、板倉内膳正重昌を大将とする鎮圧軍を派遣した。板倉は、翌十五年正月に、反乱軍の拠点の原城(島原半島)へ仕掛けた攻撃のときに討死した。
○胸板を打ち通されて、板倉や、即ちそこで命ない膳
しかし乱は二月中に鎮圧され、幕府は島原藩主の斬罪ほか徹底した処分とキリシタン禁制を強めたといふ。天草郡河浦町(下島)の大江天主堂前で詠んだ歌人の歌。
○白秋とともに泊りし天草の大江の宿は、伴天連の宿 吉井 勇
ハイヤ節
○ハイヤ、ハイヤで今朝出た船は、どこの港に着いたやら (牛深ハイヤ節)
ハイヤ節は、九州から起った船出の唄で、「
五木の子守歌
五木の子守歌は昭和二十年代にレコード歌謡として知られるやうになった。
○おどま盆ぎり盆ぎり、盆から先ゃ居らんと、盆がはよ来りゃはよ戻る
お盆になれば子守奉公が終って実家へ戻れるといふ歌詞は、馴染んだ子供との別れを惜しむものと解すのが自然である。伊豆諸島などでは最近まで子守奉公の少女と子供の関係は、乳母と子の関係として一生続いたといふ。お盆で終りといふのは、奉公の期間が一、二年と短いことを暗示する。短期間の子守は少女たちの通過儀礼であり、社会教育でもあり、村の全ての少女が子守奉公を経験した地方も多い。専門の子守を雇ふ余裕があるはずの地主であっても、あへて年季奉公の少女を雇ふのは、村のしきたりによるのだらうし、村の教育責任者を自認するからなのだらう。
この歌は人吉の町へ子守奉公に出た娘たちが、臼挽歌の節で歌ひ始めたものといはれる。戦後のこの歌の流行のころ、地主対農奴の娘といふ誤った解釈の宣伝に地元は困惑したといふ。