美少年の伝説

日本の女性の伝説では、きっと皆神事にあづかった女性たちだろうということでしたが、伝説物語の中の少年については、神仏に深く関った少年たちであったことが、よりはっきりしています。

近江国の愛護の若は、死後に日吉(ひえ)山王権現として祭られますが、継子いじめの話あり、多彩な職能民も登場する波乱万丈のドラマです。

江の島絵葉書山王権現の申し子といわれたのが江戸向島の梅若塚の伝説の梅若です。
同じ梅若という名の少年が登場するのが秋夜長物語(あきのよのながものがたり)で、近江の三井寺や比叡山が舞台のドラマチックな筋立です。
江戸の梅若とよく似た話が常陸国桜川の桜子です。

紀州の高野山の石堂丸の伝説も、哀れではありますが美しい物語です。
以上の少年たちは寺の稚児だったのですが、相模国、江の島の稚児が淵の白菊の伝説もよく知られます。(画像は江の島の古い絵葉書)

いづれも中世ごろの話で、神仏習合時代になって、古代の女性の伝説に並びうるように盛んになっていったようなところもあります。源義経の伝説も美少年の物語でした。
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逆さ言葉の「入間様(いるまよう)」

『入間川』という狂言がある。
ある殿様が武蔵国の入間川まで来て、川を渡ろうと思い、土地の者に浅瀬はどこかと聞くと、ここは深いと言う。殿様は、場所が入間なので入間様(いるまよう)の逆さ言葉なのだろうと考え、本当は浅いのだろうと川へ入ると、深みにはまってしまう。
びしょぬれで岸に上がった殿様は、怒って男を成敗しようと言い出すが、男が言うには、「成敗」とは入間様なら「助ける」という意味だと喜んでみせる。殿様はそれを面白がって、褒美を与えるが、褒美を与えたことも入間様だと言って取り戻すという話。

こういう逆さ言葉、アベコベの言葉は、子どものころの遊びで、よく言い合って遊んだことがある。

16世紀に書かれた『廻国雑記』という紀行文に入間川の逆流のことが書いてあったのだが、紀行文の作者は、川が逆流すると言われて信じたのだろうか、と思ったが、そうではないともいう。
入間様は「入間詞(いるまことば」ともいい、「大辞林」には「入間川が逆流することがあったので名づけられたとする説もある」と書かれる。入間川の逆流のほうが元だというわけである。

「廻国雑記」は、入間川が逆流する話を載せ、それも一理あるといい、入間詞について「申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り」と書く。
つまりは入間詞があるくらいなのだから、川も逆流するのだろうというわけなのだが、川の逆流の話は伝聞のようである。となると、やはり逆流より入間詞のほうが元であって、あるいは特殊な方言が通じなかった経験から話が拡大していったようにも思えるが、よくわからない。
「廻国雑記」の作者の道興の歌は、良い歌である。

 立ちよりて影をうつさば、入間川、わが年波もさかさまにゆけ  道興

歌だけをみると、川が逆流しているのを見て詠んだようにも見えるが、紀行文の本文を見れば、そうではない。歌というのはそのように作られるものでもある。
しかし逆流する川があっても良いかもしれない。各地にある「逆川(さかさがわ」という地名については、どうなのだろうか。
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美しく儚い女性たちの伝説

古代の美しくはかない女性たちの伝説といえば、万葉集の高橋虫麻呂の長歌に歌われた、葛飾の真間の手児奈の伝説と、生田川の伝説をまづ思い浮かべる。「歌語り風土記」では、長歌の部分を口語訳し、反歌を添えて歌物語ふうに仕立ててみた。

真間(まま)の手児奈(てこな)は「水汲み女」だったと言われるが、折口信夫が「最古日本の女性生活の根柢」の中で述べるように、「並みの女のやうに見えてゐる女性の伝説も、よく見てゆくと、きっと皆神事に与(あづか)った女性の、神事以外の生活をとり扱うてゐるのであった。」ということである。汲まれた水は公の神事での禊(みそぎ)のために使われたのだろう。水汲み女は神事の主役の貴い人の禊の一切に関わった女のことなのかもしれない。

 葛飾の真間の井見れば、立ちならし、水汲ましけむ手児奈し思ほゆ  高橋虫麻呂

生田川の伝説の菟原少女(うなひをとめ)も、長歌に「虚木綿(うつゆふ)の隠もりてませば」とあるように、そのような女性として少女時代を過ごしたことが歌われる。

 葦の屋の菟原少女が奥津城を、行き来と見れば、ねのみし泣かゆ  高橋虫麻呂

「歌語り風土記」からもう一つ探すとすると、秋田のふき姫の話だが、この話はそんなに古い時代のものではないような印象である。恋愛物語ではなく親孝行の話であるが、土地の名産品の由来の話になっているところは、たとえ近代ないし近世の新しいものではあっても、伝説としては説得力があると思う。
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ことばの言い替え

上のブログタイトルの下に「日本語などについて」とあり、一つのテーマです。このブログでは、古き良き言葉をたどるとともに、現代の日本語の問題点についても考えます。問題点とは、じつは若者言葉の多くは日本語史の流れからみて大きな問題はなく、官僚や企業、マスコミ用語に多くの問題があるという話になると思います。

さて最近耳にした「認知症」という言葉、認知症の老人とはボケ老人のことですね。差別感を危惧しての新語なのでしょう。本来なら認知障害としないと意味が通じないのですが、認知症と言替えたのでしょう。こういう言葉もある程度はやむをえないのでしょうが、最近はあまりに多量過ぎます。

ある程度やむをえないとは、日本語では忌むべき言葉を言い替えたり遠回しに言う言葉が多いからです。

今は駅などでもトイレという表示ばかりになりましたが、お手洗いその他、どんどん言い替えられて死語のようになった言葉がたくさんあります。古い言葉では厠(かはや、カワヤ)という言葉。ただし1300年前の古事記にも厠という漢字が出てくるのですが、後世の訓で慣習的に読んでいる可能性があるかもしれません(詳細については調べていませんが)

腰という言葉は今では腰骨の周辺のあいまいな部分をいいます。古代では細腰というようにウエストの意味だったのです。今の腰骨の周囲を呼ぶ言葉もあったのでしょうが、その言葉は嫌われて死語となったのでしょう、その部分から少し離れた部分を意味した腰という言葉で代用するようになりました。性的なものを連想する言葉が言い替えられたのでしょう。古事記には性的な表現が多いのですが、これらも後世の訓で読まれたための可能性があり、「大らかな古代」についても少し差し引いて見なければならないと思います。

ネズミをヨメと言い替えた話は10月10日の記事に書きました。ネズミを神の使いまたは神そのものと見て、忌々しきものと考えたからでした。神さまの名前を口にすることを忌んで、長い年月のうちにその名を知る者が誰もいなくなって、学者の知恵で再び名づけられたような例もあります(しかしそれで信仰の形が変わったというわけではありません)。

人を呼ぶのに、他人や格上の人の実名を呼ぶのは非礼だという感覚は今でもありますが、そういう場合に「部長」などの職名で呼ぶ場合があります。単なる職名の言葉なのですが、常に「格上」という感覚がつきまとって最近は「敬称」とまで意識する人が増えました。やや敬語法の混乱を招いている嫌いもあります。

★神や人の名前・所有物、性的なもの、排泄に関するもの、など、どの時代の言葉でもそれより古い時代の言葉が言い替えられたものであることが多いわけです。
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こぶとりじいさん

数日前に見たテレビアニメの再放送「日本まんが昔ばなし」の「こぶとりじいさん」は出来の良いものだったと思う。
野村敬子氏の書いたもの(平凡社世界大百科事典)であらすじをおさらいしてみる。

「頬にこぶのある爺が,山中の洞穴で雨宿りするうちに鬼・天狗の酒盛りに迷い込み,舞や踊りを披露して鬼などの歓心をかう。再び来る約束のためにこぶを取られるが,爺は大喜びで帰る。 それを隣の爺が真似する。しかし舞や踊りがへたであったので鬼は喜ばない。質ぐさに取った前の爺のこぶまで付けられて,泣きながら帰る」

アニメの話では、じいさんが雨宿りをしたのは洞穴ではなく大きな木のウロの中で、そこでうとうと居眠りをしたのだった。昔話の細部には異伝が多いわけである。鬼の酒宴は夜明けの鶏が鳴くまで続いた。

母なる大樹の懐の穴に、翁はからだを胎児のように丸めて居眠りをしていた。「鶏が鳴いたら神は帰らなければならない」と言われるように、鬼たちは遠い昔の神々のようでもあり、翁は里人を代表してウロの中でおこもりをして、祭にそなえたのである。何か古い祭祀の形をそのまま伝えているような話だった。
おこもりをして翁は生まれ変わった。それが証拠に、こぶが取れている。こぶとは皮膚にふりかかった災いのことだろうし、こぶが取れるとは脱皮することでもあるのだろう。

日本人は肌のみづみづしさにことさらこだわってきた人種かもしれない。もちろんそれは、現代の日本人女性の中にもはっきりと受け継がれているが、男性たちも美容以前の問題で昔はかなりこだわったのかもしれない。

こぶとりじいさんの話は、最近ブログに書いたテーマといくつか結び付くものがあるような話だった。
ウロの中が異界に通じているような話でもあった。
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神話はロマンか?

神話はロマンだと言う人も多い。はたしてそうだろうか。

このブログの本館サイトの「神話の森・神話浪漫館」の名を「神話の森・物語と民俗館」に改称した。浪漫館とは語呂の良いことばだったが、その言葉の軽さは当初から気になっていた。

和歌と民俗学を基軸とした人々の信仰の問題へのアプローチ、その信仰は共同体的の性格をもつものであること、そうしたことが主要なテーマであり、語り継がれる形態は歌物語として、今に書かれる散文も類似的でなければならない、ということだった。この歌物語が神話と呼べるものである。

神話はロマンであるかもしれないし、そうではないかもしれない。
少なくとも古代をユートピアのように言うのは間違いだろう。江戸学の話を聞いていても、江戸は本当に温かみのある人間味豊かな理想的な社会であったかのように思える。それはつまり、現代に忘れかけていたものを思い出させてくれた感動のことなのだろう。過去にユートピアがあったのではなく、現代の心にも通じるものが何百年、あるいは千年以上も続いていたことへの感動であり、それを称してロマンというなら、悪いことではない。あるいはどの時代においても人は悩み苦しみ、そこから時代を越えて感銘しあえる文化を築いてきたのかもしれない。
しかし通じていたと思ったら通じていなかったこともままあるのである。
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大国主命の父母と乳母

まもなく立冬、冬の更衣えのことは重陽の節句のところでも書きましたが、この季節に「玄松子の記憶」というサイトを見ていたら石川県輪島市の重蔵神社の記事に、
  天之冬衣命(あめのふゆきぬのみこと)
という名の神が祭られているとありました。
重蔵神社は今は「じゅうぞう」と読みますが、もとは「へくら」だったともいい、能登半島の真北50kmほどのところにある舳蔵島(へくらじま)の神との関係が言われているようです。重蔵神社の主祭神は、天之冬衣命と大国主命になっています。

古事記によれば、天之冬衣命は須佐之男命の五世の孫にあたり、大国主命の父になります。本居宣長以来、出雲の日御崎神社にまつられる天之葺根命(あめのふきねのみこと)と同一神とされ、草薙の剣を天照大神に届けた神といわれます。大国主命の母は、刺国大神の娘の刺国若姫(さしくにわかひめ)。刺国の意味は不明。ちなみに北海道の江差(えさし)の言われはアイヌ語の岬の意味のようです。

大国主命の別名が大穴牟遅神(おほなもちのかみ)です。
若き大穴牟遅神が八十神たちに迫害されたとき、八十神たちは大木の幹を裂いてその中に大穴牟遅神のからだを挟み、大穴牟遅神は圧死してしまったのですが、そこへ御祖命(みおやのみこと)が駆けつけ、大穴牟遅神を救いだして生き返らせ、紀伊国の大屋毘古神(おほやびこのかみ)の所へ逃れさせたという話があります。参照木の下の神話 この御祖の命が、母神の刺国若姫のことだろうといわれます。

それより前にも大穴牟遅神は、八十神たちに真っ赤に焼かれた猪の形の大石を突き落とされ、焼け死んでしまったのですが、御祖命と高天原の神御産巣日之命(かみむすひのみこと)のはからいで、蚶貝姫(きさがひひめ)と蛤貝姫(うむがひひめ)が遣わされ、生き返ることができたのでした。そのとき蛤貝姫は、母の乳汁を大穴牟遅神のからだに塗って蘇生させたということです。
ウムガヒヒメのウムとはウバと通じ、二人の姫は大穴牟遅神の乳母だったようです。岡山県阿哲郡大佐町永富の湯児神社(ゆこじんじゃ)の境内社・乳母神社(ちぼじんじゃ)に、支佐加比比売命(きさかひひめ)宇武岐姫命(うむきひめ)の名で祭られています。

鳥取県日野郡日野町根雨の根雨神社(ねうじんじゃ)の境内社・十二所権現には、以上の四柱の神がそろって祭られています。ある史料では次のような順に書かれています(カッコ内は筆者)。
 蚶貝比売神  (3 叔母?)
 天之冬衣神  (1 父)
 刺国若比売命 (2 母)
 蛤貝比売神  (4 叔母?)
おそらく実際の神座の向かって右から順番に縦書きで記録したものと思います。中心に近い向かって右の位置が一番の上座で父神、次に母神の順です。神話や古代の物語では、乳母は実母の妹であることが多いので、蚶貝比売神と蛤貝比売神は、刺国若姫の妹たちだったのだろうと想像できます。
蚶貝姫と蛤貝姫画像は青木繁(1882-1911)の「大穴牟知命」。蚶貝姫と蛤貝姫も描かれる。

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鳥と耳寄りな話

8/22の「鳥の名をもつ王」でふれた日本最大の古墳、仁徳天皇陵は、百舌鳥耳原中陵(もずみみはら-の-なかのみささぎ)とも呼ばれる。「モズ耳原」の言われについては、日本書紀に説明がある。
その概略は、御陵の造成のとき、突然どこからか耳の裂けた鹿が現れ、急に気を失って倒れた、というより鹿は急死したのであるが、その鹿の耳の中から耳を食い破ってモズが現れ出て、飛び去って行った。だからそこを百舌鳥耳原という。耳の中からモズが飛び出すとは奇妙な話である。
平林章仁氏(『鹿と鳥の文化史』)によると、土地の地主神の霊をモズに託して立ち去ってもらったことからくる名前だろうということは前記の記事で紹介した。

耳の裂けた動物には、諏訪の七不思議に数えられる鹿など、いくつかあるようだが、柳田国男によると、それは神に捧げられるために選ばれたしるし、聖別された動物である証拠に耳が裂かれたのだろうという。魚の場合は片目の魚が聖別された魚である。鹿や猪は古代から食用にもされた。百舌鳥耳原の鹿は、土地の神の霊を体現した鹿ではあるが、同時に土地の神に捧げられたものでもあったのだろう。

なぜ耳からなのだろうと思う。「言うことを聞かない子」という言い方があるように、「聞く」とは物理的な音声を感覚するだけでなく、その言葉の意味を理解して正しく判断することでもある。10人の発言を同時に聞いて理解したという聖徳太子は、したがって人の力を越えた能力をもち、神仏そのものに近い存在と理解されたのだろう。
それは、発した言葉がそのまま現実となるという言霊(ことだま)の考へ方の、別の面を言っているようにも思う。いつの時代も言いたいことを一方的に言うだけの人間はダメな人間である。聞く耳を持たねばならない。
延喜式祝詞に「高天原に耳振り立てて聞く」とあるのは神々の言葉を人々が聞くということだが、耳が神々との交信のための器官なのだろう。月読尊(または須佐之男命)は口から出されたものを汚らわしいと言ったが、耳から出たものは最も聖なるものなのかもしれない。

狩りの人々の習俗では、捕獲した猪や鹿の耳を切り取って串にさして立て、神々の恵みに感謝を捧げたという。獲物の一部分を神に献上するという意味でもあるが、その耳とは、耳から立ち去ったモズそのものであり、神々の霊そのものなのだろう。神の霊が山に帰ったことを確認してから皮や肉を処理するのだろうと思われる。

山の木を切るときも、トブサ(鳥総)を立てて山の神や樹霊に感謝を捧げたという。万葉歌に歌われる。

  とぶさ立て船木きるといふ能登の島、山今日見れば木立繁しも  大伴家持
  鳥総立て足柄山に舟木伐り、木に伐り行きつ。あたら舟木を   沙弥満誓

「あたら」とは「貴重な惜しいもの」の意味。
トブサとは切り倒した木の枝の一部をその根元に挿し木のように挿し立てることらしいが、それは木にとっての耳のようなものなのだろう。そしてそれはやはり「鳥総」と、鳥の名で呼ばれるのである。
関連→鳥柴の木
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「前方後円墳」の名づけ親・蒲生君平

しもつけ風土記の丘資料館 寛政の三奇人の一人、蒲生君平は「前方後円墳」の名づけ親であるそうで、栃木県立しもつけ風土記の丘資料館で特別展示が行なわれている。蒲生は当時所在のわからなくなっていた古代の天皇陵を調べて考証し、『山陵志』という著書にまとめたが不遇の生涯であった。幕末の尊王思想の時代になって再評価され、宇都宮藩の資金で更に陵の調査が行なわれ、それは幕府公認の事業だったという。
(資料館は、下都賀郡国分寺町の思川と姿川の川俣の台地にあった国分寺跡国分尼寺跡にある。ここから北西2〜3キロのところに「室の八島」で知られ下野総社といわれた大神神社(おおみわじんじゃ)がある。)

寛政の三奇人
 寛政の三奇人といわれた林子平(はやししへい)、蒲生君平(がもうくんぺい)、高山彦九郎は、浪人の身で各地を遊学し、それぞれ面識があったようである。
 林子平は、父が士籍を失ったため、生涯を浪人の身で過ごした。兄が仙台藩に仕官できたことから、ともに仙台に移って居候となる。長崎や江戸へ遊学し、寛政三年(1791)に海防の必要を説いた『海国兵談』を自費で出版したが、「奇怪異説、政治私議」との理由で幕府に出版を差し止められ、版木も没収された。仙台に幽閉させられたまま、二年後、不遇のうちに没した。
  親も無し、妻無し、子無し、版木無し、金も無けれど、死にたくも無し  林子平
この歌から戯れに六無斎と号した。

 蒲生君平は、宇都宮の半農半商の家に生れたが、農商を好まず、学問を志した。先祖に会津城主蒲生氏郷がいることから蒲生を名のる。尊王の志に燃え、北を巡っては北辺の無防備を憂い、西へ赴いては天皇陵の荒廃を嘆いた。享和元年『山陵志』を著す。よく母に仕え、兄の死に際しても田畑の受け取りを返上して歌を送ったという。
  たらちねにおも似る老の ます鏡 かたちとともに落つる涙か (蒲生君平)

 高山彦九郎は、上野国新田郡に生れた。京を訪れ、江戸城の豪華さに比べて御所の姿を嘆いた。諸国を巡遊して勤王を説き、膨大な著作を残した。
 米沢藩の莅戸太華(のぞきどたいが)は、彦九郎に惚れ込み、自らは失脚後で貧乏だったが、七十両の大金を恵んだ。その貧乏のありさまを他人が詠んだ歌がある。
  米櫃をのぞきてみれば米はなし。明日から何を九郎兵衛かな
 彦九郎は寛政五年、九州で病に倒れたことがもとで、自刃した。彦九郎の六歳の子が詠んだ歌。
  喪屋にゐて、天のはらはら落ちくるは、哀れぞまさる涙なりけり
  藤衣、ころも寒しと風吹けば、木の葉散り行く音ぞかなしき
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柿の木の伝説

柿柿は古代から霊木とされてきたようだ。
信州では亡くなった人の魂が家に帰ってくるときは柿の木に降りてくるといい、また幽霊は柳ではなく柿の木の下に出るという。
となると「柿本人麻呂」という名前はどういう意味になるのだろうか。

柿本神社のある島根県石見地方では、柿の種には人丸さん(人麻呂)が宿るから種も枝も燃やしてはいけないという。
兵庫県明石の柿本神社の柿は、人麻呂が植えたものだといい、その実を懐中すれば安産の御守りになり、また、火事の類焼を除けるために次の歌を書いて門口に貼るという。

  焼亡(じょうもう)は柿の木まで来たれども あかひとなればそこで人丸

「人丸」に「火止まる」をかけて火事を防ぐのだという。また「人産まる」で安産の御利益の神といい、どちらも語呂合せにも見える。

日本俗信辞典によると、柿を燃やしてはならないという禁忌は全国に拡がり、荒神様が嫌うからだと説明されることが多い。また古くから火葬の行なわれた地方では柿を燃やして焼くので、普段は燃やしてはならないとされるようになったのではないかという。嫁入りに柿の苗をもってゆき、死んだときはその木で火葬にしたという地方もあるらしい。
普段燃やすことのない柿だから「火止まる」の力があるとするのは、語呂合せだけともいえないようだ。
「人産まる」についても、死を媒介することはあの世ともつながる木であり、新しい命もそこから行き来するのかもしれない。村の境や、坂などに植えられることも多かったという。

柿の実はすべて採らずに一つか二つ残しておくものだという。鳥のため、また旅人のためともいう。その実は「木守り(きまもり)」と呼ばれ、また来年の実りを約束してくれる木守りさんに供える実なのだともいう。来年の実りとは柿の実りのことだけではなく、すべての作物の豊作を約束してくれるということである。木守りさんとは木の神のことだろう。新年に豊作を祈る「成木責め(なりきぜめ)」も柿の木に対して行なわれることが多いという。

柿の実にはビタミンCも多く、高血圧にも良いらしい。
「雪月花 季節を感じて」に「柿のはなし」という秋らしい記事がある。
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