生田川(乙女墓)

神戸市中央区

 摂津国、今の神戸市中央区を流れる生田川の伝説である。

 葦屋(あしや)菟原(うなひ)少女(をとめ)は、八つの祝ひのときから、今の美しい黒髪を束ねる年まで、普通の少女とは異なり、木綿紙垂(ゆふしで)の前で隠もりきりの生活をしてゐた。その美しい姿を見たいと思ひ悩む男たちは、幾重もの玉垣の数より多かったといふが、中でも千沼(ちぬ)(をとこ)と菟原男の二人は、潔斎の仮屋を焚く炎のやうな情熱で、競って求婚して来た。二人はお互ひに、焼太刀の柄を握りつぶすかのやうに構へて、白檀弓(まゆみ)を取り、靫を背負って、水の中でも、火の中でも、相争った。

 少女が母に語るには「この年の結婚を祝ひ定められた私とはいへ、二人の男の争ふ様子を見れば、たとへ生きてゐても、結婚はできません。黄泉(よみ)の国でお待ちしてゐます」と、水底の声のやうにひっそりと言ひ残して、泣きながら入水した。千沼男は、その夜の夢で少女の死を知り、後を追った。後れをとった菟原男は、天を仰いで泣き叫び、足摺りして歯ぎしりし、同輩に負けじと、小太刀を身につけて盛装し、長い葛をたどるやうに後を追った。

 少女の親族たちが集まり、長き世の形見に語り継がうと、少女塚(をとめづか)を築き、その左右に男塚を二つ築いてとむらったといふ。

 塚の前でこの話を聞いた私(高橋虫麻呂)は、身内のことではないはずなのに、今が新喪の如くに、声を出して泣いてしまったのだ。(以上は万葉集の口語訳)

 ○葦の屋の菟原少女が奥津城(おくつき)を、行き来と見れば、()のみし泣かゆ   高橋虫麻呂

 別の話では、少女の親は、二人の男に、生田川に浮かぶ水鳥を射た者と娘を結婚させると約束した。二人の男が同時に矢を射ると、一人の矢は水鳥の頭を射抜き、一人の矢は尾を射貫いた。そのために少女は更に思ひ悩み、歌を残して生田川に身を投げて死んだ。

 ○住みわびぬ。我が身投げてむ。津の国の生田の川は、名のみなりけり

 二人の男も身を投げ、一人は少女の足を、一人は手を取ったまま死んだといふ。(大和物語)