初夢と宝船

宝船の絵にえがかれた宝船には、宝物や米俵が載せられ、七福神が乗っていたりする。江戸時代ごろから、その絵に次のような歌を書き、元旦(または二日)の晩にその絵を枕の下に置いて寝ると、縁起の良い初夢を見ることができるのだという。

 長き夜の 遠の眠りの 皆目ざめ 浪乗船の 音のよきかな

この歌は、回文歌。つまり上から読んでも下から読んでも同じに読める歌である。ひらがなだけで書くと次のようになる(正確な歴史的仮名遣ではない)。

 ながきよの とをのねぶりの みなめざめ なみのりぶねの をとのよきかな

さて縁起の良い夢といえば、「一富士、二鷹、三茄子(なすび)」である。
なぜこれらが縁起が良いとされたのかは、諸説があって、はっきりしない。駿河国の名物を上げたものが夢判じをする人たちによって広まったとか、富士の裾野は曾我兄弟の仇討の場所、鷹の羽は浅野家の紋なので赤穂浪士の仇討の意味……というのもあるが、はっきりしない。
初夢は、もとは節分が明けた立春の朝に見る夢のことだったらしいが、江戸時代ごろから正月の夢を言うようになったらしく、庶民は暮れになると宝船の絵を買い求めたのだろう。
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『忠臣蔵』の上演は「太陽の王の復活儀礼」か?

「元禄忠臣蔵」日本文化出版社1960元禄15年の今日、12月14日は、赤穂浪士、四十七士の討ち入りのあった日である。
次は以前書いたメモ。

 「元禄十四年(1701)、赤穂藩主の浅野内匠頭長矩は、江戸城で勅使の御馳走役を命ぜられたが、指導役の吉良上野之介との間に齟齬をきたし、わけあって江戸城本丸の松の廊下にて吉良に刃傷に及んだ。吉良は軽傷だったが、浅野は即日切腹を命ぜられた。桜の盛りの春、三月十四日のことであった。
  風さそふ花よりもなほ、われはまた、春の名残をいかにとかせん  浅野長矩
 なきがらは芝高輪の泉岳寺に葬られた。藩主の一件は、五万三千石の領地取り上げ、お家断絶、多くの家臣が路頭に迷ふこととなった。謎の多い事件だが、将軍綱吉の生類憐みの令といひ、現代人が理解するのは容易でないのかもしれない。吉良には何のお咎めもなかったこと、そして内匠頭の亡霊を恐れ、家老の大石内蔵助良雄以下四十七士の藩士による仇討ちへと発展して行くのである。
 四十七士の一人、大高源吾は、江戸で呉服屋を装ってゐた。茶道に親しみ、吉良家の茶会にも招かれるなどして様子をうかがった。討ち入りの日取りは、源吾の得た情報により、吉良家の茶会の日と決められた。元禄十五年十二月十四日、討ち入りを前に、源吾は、雪の両国橋の上で、かつて知ったる俳人の宝井其角に出会ふ。其角は密かに呼び掛ける。
  年の瀬や、水の流れと人の身は
源吾が応へる。
  あした待たるるその宝船
その言葉で、其角は討ち入りを悟ったといふ。
 浅野の首をとり、本懐を遂げた四十七士は、全員切腹を命ぜられた。大石内蔵助の辞世の歌。
  あら楽し。思ひは晴るる。身は捨つる。浮世の月にかかる雲なし  大石良雄」

年の瀬に日本人が好んできた『忠臣蔵』の上演は「太陽の王の復活儀礼」のことであると言ったのは、丸谷才一(『忠臣蔵とは何か』中央公論社)という人だった。内匠頭を太陽にたとえ、討ち入りの成就によってその復活を果たしたという意味だが、なるほどと思う。12月14日は、旧暦なら大寒のころ、新暦なら冬至の直前である。
太陽の神の復活儀礼は、新しい年を予め祝福することでもあり、そのようなことは、世界中の民族によっていとなまれてきた。日本では天照大神の岩戸隠れの神話、また正月行事そのものがそうである。冬至のころの西洋のクリスマスにまつわる民俗も同様であるらしい。
「あした待たるるその宝船」……まさに新年の予祝なのだろう。
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江戸時代の貨幣単位

江戸時代の貨幣単位について私がおぼえていたことは、4進法のようなもので、
1両が4分、1分が4朱、1朱が400文、ということだった。

しかし江戸時代初期の幕府の取り決めでは1両が4000文ということだったらしい。その後だんだん変動相場制のようになって、江戸中期から幕末直前にかけては6400文前後(1朱=400文)で動いていたらしいのである。

では、1両は今の金額でいえばどのくらいだろうか。
それについては、これまでは、米の値段で換算した金額を示す学者さんが多かった。戦前まではそれでも良かったのかもしれないが、戦後の食生活の変化で、米の値段はあまりに安価になりすぎている。現在の米の値段で換算すると、江戸のころは米1石(10斗、約150kg)が金1両なので、1両は7万円程度という安い金額になるらしい。
杉浦日向子さんの話では、大工さんの月収がちょうど1両くらいで、10両盗めば首が飛ぶというときの10両とは、普通の人の年収に近い金額だったらしい。
当時の大工は花形職業でもあり、それを考えれば、1両=50万円くらいになっても良いかもしれないが、30万円くらいというのが最近の学芸員さんの話。

そば一杯で16文、というのも比較的安定していたらしい。そば一杯が今の800円とすると、1朱は2万円、1分は8万円、1両は32万円である。このくらいがいちばん実態に合っているのではないかと思う。1文=50円である。

金森敦子著『伊勢詣と江戸の旅』(文春新書)では、旅の費用や土産代を、例によって米の金額から今の円に換算して補足説明してあったが、安すぎてぴんとこないので、いくつかを1文=50円で換算してみた。

新発田藩の大工の日当  350文 17500円
東海道の旅篭一泊二食付 200文 10000円
善光寺大部屋一泊二食付 105文  5100円
鎌倉見物案内料     100文  5000円
同 案内の絵図1枚    12文  600円
同大仏胎内拝観料     6文  300円
大神宮おふだ       6文  300円
土産の足袋一足     130文  6500円
旅行案内記(本)     50文  2500円


鎌倉見物案内料とは観光ガイドの人に支払う料金で、団体で案内してもらっても同額。
大神宮おふだとは、伊勢神宮の鋒先型のおふだで現在も300円くらいだと思う。現在の各家庭にまつられる神宮大麻と呼ばれる長四角の少し厚みのあるおふだは明治以降のものである。
足袋など衣料品や書籍は高価だったが、それらが安価になったのは最近30〜40年くらいのことだろう。
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夕つげ鳥

 花の都は夜をこめて、逢坂の、ああこりゃこりゃ
 夕つげ鳥に送られて、こちや、名残をしくも、大津まで、こちやえ、こちやえ。

これは「東海道五十三次を行く」というサイト http://bruce.milkcafe.com/kaidou/what4.htm に載っていた東海道の道中歌で、「下り唄」の最初、京都を立って逢坂山を越えて大津に至るときの歌である。

夕つげ鳥は夕告鳥とも書くが、その鳥に送られて、といっても、夜間に歩くのではないのだろう。夕告鳥は、もとは「ゆふつけ鳥木綿着け鳥)」といっていたのを、夕方を告げる鳥と解釈されてできた言葉だと辞書の説明にある。

平安時代の初め、世の中の騒がしいときに公の行事として「四境の祭」が行なわれ、鶏に木綿を付けて都の東西南北の境に至って祭った、ということが「伊勢参宮名所図会」に書かれる。四方から悪霊が入り込まぬようにお祓いをするということなのだろう。鶏なので鳴いたのはやはり暁だろうと思う。
鶏に付けた木綿とは、注連縄に下げたりする木綿紙垂のことだろう。鶏には悪霊を退散させる力があるのである。「こぶとりじいさん」の出逢った鬼たちも、鶏の鳴き声とともに帰っていった。
四方の関とは、東は逢坂山、北は有乳山(若狭路)、南は龍田(大和)とあり、西の穴生とはどこなのかちょっとわからない。
(谷川健一氏の本に、「北は逢坂、東は鈴鹿、南は龍田、西は須磨」とも書かれる)

 たがみそぎ、ゆふつげ鳥か、からごろも龍田の山におりはえて鳴く 大和物語

龍田山でゆふつけ鶏の鳴く声を聞いて、誰の禊(みそぎ)だろうと歌っている。公のお祓いだけでなく、個人の行事としてもあったことがうかがえる。

百人一首にも清少納言の歌がある。

 夜をこめて鶏のそら音ははかるとも、世に逢坂の関は許さじ  清少納言

(史記では孟嘗君が真夜中に鶏の鳴き声を真似させて函谷関を開けさせたといいますが、たとえそんなことをしても、男女が逢うという逢坂の関は、お通しすることはできません。……夜に男の誘いを断るときの機知の歌であるという)
逢坂山でも実際に鶏は鳴いたのである。

 逢坂は人越しやすき関なれど鶏も鳴かねば明けて待つかな  行成

さて「木綿着鳥は京都四境の祭の牲(ニエ)なり」と地名辞書にあるが、柳田国男翁が鶏について語ったときよくそういった話が出てくる。
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逢坂の関

蝉丸宮関大明神(伊勢参宮名所図会)京都にいちばん近い関所は、近江国へ抜ける逢坂(オウサカ)の関である。平安時代の初めここには盲目の琵琶法師、蝉丸が住んでいたという。百人一首に歌がある。

  これやこの、行くもかへるも別れては、知るも知らぬも逢坂の関  蝉丸

 (行く人も帰る人もここで別れ、知る人も知らぬ人もここで逢い、逢っては別れ、別れては逢うという逢坂の関は、これである)

江戸時代の伊勢参宮名所図会によると、関の東西に蝉丸宮二座がまつられ、関守神というが、蝉丸宮の名は近世に言われるようになったという。

 もみぢ葉を関守神に手向け置きて逢坂山を過ぐる木枯らし 実守(千載集)
 鳥居立つ逢坂山の境なる手向けの神よ、我ないさめそ   仲正(扶木抄)

関の手前で旅人は関守神に手向けをして旅の安全を祈った。手向けの品には幣(ぬさ、木綿の束など)が奉られることが多かったらしいが、歌を手向けることも重要なことであった。こういう場所の山は一般に手向山と呼ばれ、逢坂山もそう呼ばれたことがあったらしい。

伊勢参宮名所図会の話にもどると、「昔関所ごとに神祠を置けり。市に市姫の神、橋に橋姫の神を祭るがごとし」というが、関守神の具体的な固有の名は出てこない。しかし市姫や橋姫も固有名詞ではないのだろう。ただ少なくとも関守神は、市姫橋姫たちと同様に、境をまもる神、異界との橋渡しをしてくれる神であることは理解できる。関守神は、関戸明神、関の明神ともいう。

蝉丸宮と呼ばれた社は、今の滋賀県大津市逢坂1丁目の関蝉丸神社のことだろう。「当神社ハ嵯峨天皇御宇弘仁13年3月近江守小野朝臣岑守逢坂山ノ山上山下ノ二所ニ分祀シテ坂神ト稱奉ル是レ当社御鎮座ノ起源ナリ」という。祭神は「(主神)豊玉姫命 道反大神 (合祀)蝉丸 (主神)猿田彦命 (合祀)蝉丸」 とあり、上社と下社の祭神を続けて記したものと思われる。
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安宅の関と住吉の神

NHKドラマの『義経』で、安宅の関の場面をやっていた。歌舞伎の『勧進帳』でも有名な場面である。番組の最後に史跡案内が短く紹介され、安宅の関の址、その近くには安宅住吉神社があるという。
安宅の関も神社も海べりにあり、住吉の神といえば昔から海上交通の神である。

しかし「関」と呼ばれるような場所に住吉の神がまつられる例は、他にもあった。奥州街道の白河の関、そして関所はなかったが、中山道の美濃・信濃の境の神坂峠(8/27 峠の神の伝説と歌の神 参照)である。
船の交通の要所の神であったものが、だんだん陸にものぼって山や峠の難所にもまつられるようになったということだろう。そして難所の神は歌の神でもあったのである。

安宅住吉神社はいわゆる延喜式内社ではないようだが、安宅の関は延喜式にも載り、源平盛衰記には「安宅関住吉浜」とも書かれているらしい。しかし所在がわからなかった時代も長く、古い和歌には読まれていないようだ。
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師走の影

12月を師走(シワス、しはす)という。師とはお坊さんのことで、12月になると忙しく走りまわるから師走というのだという落語のような話がある。暮れになると借金取りに追われるからだというオチがつく場合もある。

「三尺下がって師の影を踏まず」という諺がある。
尊敬すべき人に対する態度としては、三尺下がって距離をとれということだが、それだけでなく、影を踏んでは非礼になるということでもある。影とは人そのものであり、少なくともその人の分身だという意識なのである。
それは現代人が自分の写真の顔を土足で踏まれたようなものなのかもしれない。プライドを傷つけられたというのではなく、影を踏まれること自体が不吉なこととされたのである。
古い時代には影を踏まれることは、かなり深刻な問題だったらしい。子どもの影踏みの遊びは、そういう時代の名残をとどめているのだろうと思う。

播磨国の明石にあった楠の巨木は、朝日にはその影は淡路島を覆い隠し、夕日には難波の仁徳天皇の高津宮にまで及んだという。
巨樹は神そのものであり、その影に隠れることは、むしろ吉だったようである。「おかげさまで」という言い方があるのは、神の影響下での吉を祝う気持ちで言うのだろう。
肥前国の佐賀の大楠も、同様の巨樹だった。明石の楠は伐られて船に作られ船は「速鳥」と名づけられたという。
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キッズgoo

キッズgoo というサイトでは、webページを子ども向けにルビをふって表示してくれる。
http://kids.goo.ne.jp/cgi-bin/kgframe.php?BL=0&SY=0&MD=2&FM=0&TP=https://nire.main.jp/rouman/fudoki/index.htm
実際は間違いのルビも多く、じゅうぶんなものとは言いがたいのだが、アクセスは少なくない。一般的な地名の読み方などは大人が使っても参考になるかもしれない。

さらに、子ども向けとして不適切とされた用語を含むページは表示しないようになっている。「歌語り風土記」の項目590ページのうち、60ページがNGだったので、書き替えられるものは書き替えてみた。
どんな用語がNGだったかというと、やはり差別と性に関連するものである。
訂正した用語は次の通り。

[別語で言替え]  部落 朝鮮征伐 妾 狂女 白痴 殺した 自殺した 美少女 幼女 禁を犯して 秘密
[ルビを指定する]  阿保(地名) 三ヶ尻(地名) 女体山 乳 逆鉾 貝合せ 妹(いもうと、いも)
[漢字表記にする]  ちちぶ 「身はくち人に」 たまたま
[かな表記にする]  覗き
[一部をかな表記に]  人妻
歴史的仮名遣の「なほも」を「更に」に書替、たぶん「〜なホモ」との解釈だろう

妹がなぜいけないかというと、和歌で「妹に恋ひ」は「いも」とルビをふらなければ誤解を招くからということなのだろう。貝合せとか秘密とか、よくわからないのもある。

文章の量のわりには訂正箇所は少なかった。沖縄のページで「遊郭」を言替える適当な語が思いつかなかったので、そのままになっているところがある。

★追記 沖縄県のページは「ゆうかく」とルビをふったら通りましたね。なんでもこれで通るのかも(現在のところは)。
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つくもの物語

どこからメモしておいたのか忘れたが……たぶん『国文学』という雑誌かもしれない……、「つくもの物語」という話。

よく熟した柿が一つある。動物たちが集まって、誰が食べるべきか話し合うが、年齢の高い者が食べるのがよいということになった。
鷺は、「みそさぎ」といって、三十。
鴫は、「よそしぎ」といって、四十四。
鳩は、「やへはと」といって、八十。
蜘蛛が、「百年に一年足らぬつくも(九十九)」といって、一番となって柿を食べたという話。

意味はよくわからないのだが、イソシギやイヘバトなら今の辞書に載っている。

 百年に一年足らぬつくも髪。我を恋ふらし。面影に見ゆ  伊勢物語

この歌は白髪の老女に恋われた在原業平が詠んだものである。
「つくも」とは「つくも草」のことで、老女の白髪のように見えるらしく、そこから老女の白髪を「つくも髪」というのだそうだ。
「つくも」は「つぐもも(次百)」の縮まったもの、次が百とは、九十九のことだから、九十九と書く。百に一つ足りないというわけで、百という漢字から一を除くと「白」となり、白髪のこと。さて草の名が元なのか、漢字の白が元なのかよく解らない説明だ。
九十九才のお祝いは白寿である。「お前百まで、わしゃ九十九まで、ともに白髪のはえるまで」とは女性の歌う民謡である。「共白髪」とは結納品で麻緒をたばねたものをいう。

美男で知られる在原業平に、老女が恋するとは奇妙な話かもしれない。しかし老女の恋は、古事記に、雄略天皇に恋した引田部の赤猪子(アカイコ)の話がある。赤猪子は志都歌(しづうた)を歌う巫女で、雄略帝を若返らせる歌を詠んだ。在原業平の色好みというか若々しさも、つくも髪の老女によって祝福されたものなのだろう。
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新嘗祭、勤労感謝の日

今年の秋も終ろうとしています。
実りの秋、味覚の秋、といわれるように、秋は新米を始め、さまざまな収穫物や食物に恵まれる季節です。それらの中には冬を迎える前に加工され保存食とされるものもあります。
今年の新米がとれたとき(または購入したとき)、最初に神棚や仏壇の先祖さまにお供えし、その後で家族でいただくという習慣は根強くあると思います。米以外の季節の初物なども同様です。そうやって今年一年の「実り」を感謝し、来年のしあわせを祈るわけなのです。

そうした家々の祭りを、さらに地域で集約して行なうかのような神社の祭礼が、新嘗祭(にいなめさい)です。春に五穀豊穣を祈り、秋に感謝の祭を行なう、そうしたお祝いごとは、もともと大勢で集まってお祝いするものだからです。
11月23日は戦後、「勤労感謝の日」という祝日に定められました。それより以前は「新嘗祭」というそのままの名称の祝日でした。

この日の夕刻過ぎ、宮中では天皇陛下が御自から今年の稲の初穂を皇室の先祖の神々に捧げられて、国民の幸福を祈られ、未明まで続けられるお祭りがあり、これも新嘗祭と呼ばれます。このとき天皇陛下も、神々にお供えされたいわば新米をいただくというお話です。
皇室の新嘗祭もまた毎年行なわれる行事なのですが、御即位の年の新嘗祭は特別に大嘗祭(だいじょうさい)と呼ばれ、最も重要な祭であるとされています。
次の御製は陛下の皇太子時代、昭和天皇の新嘗祭に際してのものです。

 神遊びの歌流るるなか、告文(つげぶみ)の御声聞こえ来(く)。新嘗(にひなめ)の夜  御製

大嘗祭は「おほにへのまつり」ともいい、「にへ(ニエ)」とは、初穂を神に捧げること、または捧げたもののことです。
「にひなめ(ニイナメ)」の意味には諸説がありますが、「にへの忌み」が縮まったものだろうというのが折口信夫説です。忌みとは祭のために夜通しお籠りすることをいいます。

 誰そこの屋の戸押そぶる。新嘗(にひなひ)にわが兄(せ)を遣りて、斎(いは)ふこの戸を  万葉集東歌
(誰が戸を押し叩いたのだろう、新嘗の祭にわが夫は出かけて、家では妻の私が籠って祭をしいる、その戸を叩いたのは)

万葉集のこの歌では、家で戸締まりをして妻が祭をしていたのですから、戸を叩いたのは神、先祖の神だろうということになります。
常陸国風土記の(三)筑波郡の項にも新嘗の夜に先祖の神が、富士山や筑波山の神のところを訪れたという話があります。
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