過去帳に記載の家族以外の人物

さて我が家の過去帳にも、当家の者でない人の名が記載されている例が、いくつかある。古文書の本格的な整理を始めてから幾年かあとに、過去帳を見たときに気づいた名前がある。月命日は二十九日、享保六年(1721)五月に没した人の戒名の脇に「江戸蔵田源五右衛門妻」と書かれていた。(図版)

蔵田源五右衛門とは、当村の領主だった旗本中野家の用人である。元禄十一年(1698)八月の検地の時の責任者であり、正徳三年(1713)の文書にも名前がある。
過去帳には源五右衛門その人の名はなく、彼の妻が、当家の縁者であると見るべきだろう。
元禄十一年の検地は、当村では太閤検地以来の大規模な検地と思はれ、数日で完了できるものではなく、蔵田氏は長期にわたって当村に滞在したとすれば、そのときに当家の娘と知り合ったか、あるいは旗本家へ女中奉公に出たときに知り合ったかであろう。戒名も同じ法華宗のようである。妻の没した享保六年(1721)は、元禄十一年(1698)から23年後。20代前半で嫁いだとすれば、40代半ば、早い死であったのかもしれない。
用人の給金は天保時代でも年五両しかなく、米代が別としても、年収では上層農民よりも低い。しかし、武士の身分であることを加味すると、対等の付き合いができる関係なのではなかろうか。
他に、当家の過去帳の同じ二十九日には、「中田仁兵衛子」と書かれた戒名もある(図版)。他に「中田仁兵衛」「中田仁兵衛妻」が享保の頃にあり、別に「中田仁兵衛娘」もある。戒名の文字数が短いので、番頭夫婦かもしれない。苗字については、血族でないことを示すために出身の苗字を記すことはあるだらう。
正徳の頃には「壽清院妙厚日理、江戸川崎善右衛門妻」といふ人もある。夫の「川崎善右衛門」、舅と思はれる「川崎先ノ善右衛門」、計三人の名がある。この「妻」も、当家の出身と思はれる。苗字の上に「江戸」とあるのは、先ほどの「江戸蔵田源五右衛門妻」と同じなのだが、領主の中野家には川崎氏はゐない。江戸の商家あたりかもしれない。
前述の蔵田源五右衛門も、妻より先に没していたら、当家の過去帳に記載されたとも考えられる。
★追記
2024年にネット検索したら、検地奉行の川崎善右衛門の名が、埼玉県越谷市、宮代町、群馬県文書館などの元禄のころの古文書で確認できた。測量を担当する下級武士と思われる。